第5話 海野夏音の独白

 教室に戻ったボクは、深くため息をつきました。

 心臓がドクンドクンとうるさいです。


 その理由は、ホームルームに間に合わせるために階段を駆け上がったせいではありませんでした。

 バスケ部に所属しているボクです、あの程度のダッシュでは疲れません。

 しかし、席について息を整えても、水筒に入ったスポーツドリンクをグビグビと飲み干しても、胸の高鳴りは収まりませんでした。


(……少し黙ってよ)


 なんて思っても、心臓はうるさいまま。

 まるで、家でも騒がしいお兄のよう。

 

「────ハル兄」


 誰にも、隣の席の子にも聞こえないぐらい小さな声で呟いてみました。

 少し落ち着いてきた心臓の音が、またバクバクと大きくなります。

 呟いた声よりも、心臓の鼓動の方が大きいのではないかと錯覚するぐらいには。


 ギュッと、胸を抑えてみます。

 心臓は、うるさいままです。


(ハル兄。ハル兄。ハル兄)


 ボク────海野うみの夏音なつねは、心の中で何度も、大好きな人の名前を呼びます。



☆☆☆★★★☆☆☆



 初めてハル兄と出会ったのは、小学校5年生の春でした。


 お兄はその頃から、友達がとても多かったです。

 そこそこ広くて小綺麗で、色んなゲームが置いてある我が家は男の子たちの溜まり場になっていました。

 お兄の社交性の高さも手伝い、海野家にはクラスを問わず色んな男の子が遊んでいました。


 でも、それだけたくさんの子が代わる代わる遊びに来ても……当時は引っ込み事案で部屋から出ることのなかったボクに、声を掛けてくれる男の子は……いませんでした。


 ただ一人────ハル兄を除いては。


 ハル兄が初めて家に来てくれた日。

 その日は珍しく他の男の子はおらず、お兄とハル兄の二人だけでした。


 ボクはいつものように部屋に篭っていました。

 初対面の男の子なんて怖いし、仲良くできるとも思っていなかったのです。

 家にたくさん来る男の子の一人に過ぎませんでした。

 ボクの方から話しかけよう、なんて思うことはありませんでした。


「ねえキミ! 名前なんて言うの?」


 だからこそ、です。たまたま廊下に出たボクに声をかけてきたその男の子の言葉に、ボクは咄嗟に反応することができませんでした。


「なまえ! なんて言うの?」


 もう一度聞かれてようやく、なんとか絞り出すように、「なつね、です」と答えることができました。


 戦々恐々とするボクとは対照的に、彼は太陽のような笑顔を浮かべながらボクに言いました。


「そっか、なつねちゃんって言うんだ! よろしくね!」

「よ、よろし……く……」


 続け様に、彼はボクに言いました。

 その言葉は、ボクがずっと欲しくてたまらなかった言葉。

 誰かに言ってほしくて、聞かせてほしかったお誘いでした。


「なつねちゃん、一緒に遊ぼ!」


 トクン、と胸が高鳴りました。

 なんだか、顔が熱くなりました。


 それから、とても嬉しい気持ちになりました。


 うん、と答えてからも、一緒にゲームを始めてからも、ボクの顔は熱いままでした。

 心臓の鼓動も早鐘を打ち続けています。


 ボクは、どうしちゃったのでしょうか。


 このどうしようもない感情の名前を、この時のボクは知ることができませんでした。



☆☆☆★★★☆☆☆



 ハル兄との出会いからしばらく経った、中学1年生の夏休みのある日でした。


 ハル兄と出会ってから、ボクは変わりました。

 自分で言うのも変な話ですが。


 長くてボサボサだった髪を切りました。

 ハル兄が、髪が短い人の方が好きと言っていたのを聞いたからです。


 中学からバスケ部に入りました。

 ハル兄が、運動が得意な子の方が好きと言っていたのを聞いたからです。


 クラスメイトや知り合いに、自分から声をかけるようになりました。

 ハル兄が、明るい子の方が好きと言っていたのを聞いたからです。


 側から見れば、中学デビューをした女の子に見えたでしょうか。

 あながち間違ってもいないかもしれません。

 お父さんにもお母さんにも、そしてお兄にも、すごくびっくりされました。そして、とても褒められました。嬉しかったです。

 ハル兄にも褒めてもらいたくて、変わった自分を見せようかとも思いましたが、やっぱり恥ずかしいのでちょっとの間だけ内緒にしました。


 ハル兄や他の男の子は、ボクが中学に上がっても変わらずたくさん遊びに来てくれていました。

 でも、ボクは外に出かけることが増えました。

 

 ハル兄に会うのが恥ずかしかったのかと聞かれると、違う、とは言えません。

 でもそれより、ボク自身に中学でたくさん友達ができたからという理由の方が大きかったです。


 ボクが明るくなれたから。

 すなわち、ハル兄のおかげであるということに他なりません。


「あのね……実はね、彼氏ができたの」


 そんな言葉を耳にしたのも、そうして中学で仲良くなった友達数人と近くの商業施設のフードコートでハンバーガーやポテトを食べながらダラダラと喋っていた最中でした。


 集まってから30分ほどが経ち少し退屈そうにしていたみんなが、急にワッと色めき立ちます。

 中学生ですし、そういった話にはみんな敏感でした。

 いつから? 誰と? どんな人?

 そんな言葉を、矢継ぎ早にぶつけています。

 ボクは恋愛に興味がなかった……というか、全く恋なんて知らないつもりでしたので、話半分に聞いていました。


 たくさんの質問がぶつけられます。

 その度に、彼氏ができたと口にしたその子が、少し気恥ずかしそうにしながらおずおずと答えます。

 質問も、会話も止みません。

 姦しい、とはこんな会話のことを言うのでしょうか。

 そして、誰かがこんな質問を彼女に投げかけました。


「ねえねえ! 人を好きになるって……ど、どんな気持ち?」


 その子は恥ずかしそうに答えました。

 でも、私は────恋愛を知らない、興味のないはずの私は、いつの間にか知っていたのです。

 その、答えを。

 恋とは、どんなものであるのかを。

 恋をすると、どうなるのかを。



 うーん、と少しの逡巡の後、その子は答えました。





「んっとね……なんだか胸がドキドキして、顔がぽかぽかして……。でね、その人のことを考えてると……なんだか、とっても嬉しくなるんだ」





 えへへ、とはにかみながら。




 刹那、まるで銃に撃ち抜かれかのような気分になりました。


(────ああ、そうか。そうだったんだ)


 もう、友達の笑い声も、フードコートに流れるBGMも、何ひとつ耳には入っていませんでした。


 胸の高鳴りが、痛くて、痛くて、痛かった。


 ボクは、この日のことを克明に覚えています。そしてこれから先も、忘れることはないでしょう。


(────これが、恋なんだ)


 3年前のあの日。ボクが抱えていた感情に、恋という名前がついた日でした。



☆☆☆★★★☆☆☆



 ハル兄に会えた日は、とても幸せになります。

 花が咲いたように、世界が色づいていくのです。

 朝のテレビ番組の占いより、その日のニュースより、ボクにとって重要なのはハル兄に会えるかどうかでした。

 でもボクは1年生、ハル兄は3年生です。

 普通に過ごしていたら、滅多に会えないのですが……。


(とはいえ、ちょっとやりすぎたかな)


 お兄にお弁当を届ける。今年の春に陽陵高校に入学してから、そんな名目でハル兄に会いに行くようになりました。

 初めの頃は素で忘れていたりボクに任せていたりしていたお兄だったのですが、どうやら「流石に任せすぎだ」とお母さんに怒られてしまったようでした。

 それからはちゃんと朝カバンに入れたり、お母さんに確認してもらったりして持って行き忘れることがないようにと対策を打ち始めてしまったのです。

 本来であればそれは良いことなのですが、ことボクにとっては、お弁当を届けにいけないと大惨事です。

 ハル兄に会えない。

 それだけでとても胸が苦しいです。……会っても苦しいですが。 


 かといって、お兄のカバンからわざとお弁当を抜いておくなんて。

 落ち着いて考えると、どうかしています。ボクは歪んでいるのかもしれません。

 お兄にはお詫びにアイスでも買ってあげよう……そう思いました。


(でも、ハル兄に会えないと辛いなぁ)


 コロコロと、机の鉛筆を転がします。

 

 この気持ちを、この恋を、伝えてしまったら楽になれるのでしょうか。


(いっそ、告白してしまえたら)


 いつも頭を過るのは、そんな妄想。


 でもそんなこと、できません、

 できるはずがありませんでした。

 

 ボクがフラれたら、お兄はハル兄に対して何と言うでしょうか。

 お兄はボクのことをとても甘やかしてくれます。

 そんなボクが、もしお兄自身の親友にフラれてしまったら。

 怒るのでしょうか。

 何も言わないのでしょうか。

 喧嘩をするのでしょうか。

 妹に変な虫がつかなくてよかったと、いつもみたいに大きな声で笑うのでしょうか。


 あるいは、ハル兄と縁を切ってしまうのでしょうか。


 もし、そんなことが起きたら。

 そう思うと、恐ろしいです。

 お兄が、ボクのせいで親友を一人失ってしまったら。

 そのことが、怖くて怖くてたまりません。

 それは最悪の想定だとしても、ハル兄も、お兄も、そしてボクも、きっといつも通りには居られないでしょう。


 だから、ボクはこの気持ちを胸の奥に追いやります。

 そして、固く固く鍵を掛けます。

 何重に、幾重にも錠を掛けます。

 二度と開けられないように。

 この気持ちが外へと出てこないように。


 でも。それでも。


 ────夏音は俺にとっても妹みたいなもんだから。

 

 その言葉を聞くたびに、チクリと胸が痛みます。

 嬉しいはずなのに、寂しさが顔を出します。




 妹よりも、ハル兄の……ううん、春也くんの彼女になりたいです。




 そんなことが、口にできたのなら。

 それが、叶うことがあったなら。


 ボクは……私は、どれだけ幸せだったでしょうか。

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