第11話 バイト

「すまんハル、今ちょっといいか?」


 昼休みに入るなり、夏樹が声をかけてきた。

 その表情はいつになく神妙で、ただごとではなさそうだと感じ取るには充分すぎた。


「……おう、大丈夫だ。なんかあったか?」

「悪いな。実は……」


 周りに聞かれたくない、と言わんばかりに夏樹は声のトーンを落とし、俺に囁いた。


「……バイト、頼まれちゃくれねえか?」


 バイト。え、今こいつバイトって言ったか?

 はあ、と俺は深くため息をついた。


「うちの学校は校則でバイト禁止だぞ。お前それで1年の時坂口にしこたま怒鳴られてただろうが」


 坂口、というのは俺たちの代の学年主任だ。

 体育教師でやたらと体格が良くイカつい上に、校則違反などについて異常に厳しいため、生徒からの評価は低い。

 怒らせなければいい先生ではあるらしいのだが。

 1年の夏休み、夏樹は市内の飲食店でこっそりバイトをしていた。

 学校からは離れたところだったのだがたまたま訪れた坂口に見つかってしまったようで、その場で3時間近く説教を受けたらしい。

 学校が始まってからも全校集会の場で名前こそ直接は出なかったものの延々と校則を引用しながら怒鳴り散らしており、バイトが見つかるとああなるというのを俺たちの学年全員に刻みつけた事件だ。


 夏樹がそんな過去を忘れているとは思えないのだが……。


「ああ、いや、言い方が悪かった」

「ん?」

「……実はだな、そろそろテストだろ?」

「ああ、まああと1ヶ月ぐらいか……?」


 1学期の中間試験は6月中旬、今は5月の上旬のため……そろそろと言えなくもない。まだ期間的には離れている気もするが、対策を始めるなら今……という時期でもある。


「ああ。それでだな、その……何というか……」


 妙に夏樹の歯切れが悪い。テスト関連でそんな言い出すのに困るようなことが──


(──ああ、なるほど)


 少し考えて、すぐに結論に思い当たった。こいつがまごついた態度を取る理由は一つしかない。


「────夏音か?」


 こういう時は大体夏音絡みだ。

 夏音の受験の時もそうだった。陽陵を受けるにあたって先輩のお前の力を貸してやってくれ、という頼みをしてきた時も内容を聞くまでに30分ぐらい取られた。

 内容を聞いてからも、「お前が教えてやれよ、お前も陽陵生だろうが」「いや春也の方が頭がいいから」などと押し問答を繰り広げ、結局は──たまたまやってきた夏音がその会話を聞いて目を潤ませているのを見て──俺が折れるまでに合計で1時間45分を要したのだが。

 ちなみに泣き出してしまった夏音を宥めるまでにさらに45分と1日かかった。

 1日というのは『ハル兄とお出かけできたら機嫌直るかもっス』という夏音の要望に応えたためなのだが、また別の話だ。


「そう! そうなんだよ! いや〜察しのいい親友で助かる!」

「お前がそういう態度を取る時は大体夏音絡みだからな。……なんかあったのか?」

「いや、実は勉強を教えてやってほしいんだよ。夏音、入試もギリギリだったろ? 結構大変みたいでさ」


 他人に向かってこういうことを言うのは良くないのだが、夏音はあまり成績が良くなかった。

 中1の頃は陽陵に入学するのは逆立ちしたってできないぐらいの成績だったのだが、『ハ……お兄と同じ学校に行きたい!』と猛勉強を開始。

 3年間でメキメキと成績を上げ、ギリギリながら無事入学が叶った……という経歴がある。


「なるほどな。……でもなんで俺なんだよ、他にもっと適任がいるだろ」

「いや〜、そうでもないぞ? 俺はお前が最適だと思ってる」

「そもそも、夏樹が見てやればいいだろ? お前だって曲がりなりにも陽陵の生徒だろうが」

「こら、曲がりなりとか言うなよ。傷つくだろうが」

「じゃあ腐っても?」

「腐ってねえよ。ちゃんと中間ぐらいの成績だわ」

「じゃあ尚更お前の方がいいだろ。俺はあんまり成績良くないぞ」

「いや、実は俺な…………」


 夏樹の声が低くなり、こちらに少し顔を寄せる。


「……彼女ができたんだよ。それでテスト期間は一緒に勉強会するんだ」


 ふーん。彼女かあ。

 え?


「は!?」

「バカ、声がデカいって!」

 

 夏樹の口から聞こえるはずがない単語が聞こえてきて、思わず立ち上がって大きな声を出してしまっていた。ガタンッ、と音を立てて椅子が倒れる。

 昼休みの賑やかな教室とはいえ、完全にクラスメイトの注目を集めてしまっている。しまった。

 ポリポリと頭を掻き、大人しく席に座り直した。


「……夏樹、お前俺を使いたいからって嘘はやめた方がいい」

「嘘じゃねえって、写真見るか?」

「……いや、いい」

「助かる。彼女はかわいいんだが、人に見せるのはなんか恥ずかしくてな」


 へへ、と鼻の下を擦る夏樹。ああ、これは本気マジだ……。


「いつから? 誰と?」

「お、興味津々か? ハルにしては珍しいな、恋愛事とか興味ないと思ってたのに」

「今までバスケが恋人とか抜かしてた我が親友が急に人間と付き合うなんて、明日は雪でも降るんじゃないかと思ってな」

「はっはっは、確かにな」

「で? どうなんだよ」

「付き合い始めたの先週だよ。2年のバスケ部のマネージャー。永江ながえみのりってわかる?」

「わかるわけないだろ……」

「まあ、そうだよな。これがめちゃくちゃかわいくてな〜……」


 俺にもわかるぐらいデレデレと鼻の下を伸ばす夏樹。

 あの純情スポーツバカの夏樹がねえ……。

 1にバスケ、2に夏音、3、4がなくて5にバスケ……。そんな夏樹が、彼女か。

 青春だねえ……。

 俺がしみじみとしていると、彼女のいいところをつらつらと喋り続けていたらしい夏樹がそれより、と口にした。


「そんなわけで俺は夏音のこと見てやれないんだ、すまん。ハル、なんとか頼めないか?」

「事情は分かったが……なんで俺なんだよ」

「お前しか頼めないんだよ、頼む」

「それなら彼女さんと一緒に3人で勉強すればいいだろ。妹って言えば向こうも納得するだろ」

「あのなあ……。これだから灰春男は……」

「なんだその聞き慣れない単語は」

「灰色の春と書いて灰春だ。お前みたいに何もないやつだな」

「……やっぱ断るか」

「ごめんなさいちょっと待って!」

「まあ確かに二人きりになりたいところに他の女の子がいたらな、ちょっと気を遣ったりするか」

「まあな。みのりはいいよって言ってくれはしたんだが……」

「そうなのか? じゃあいいじゃんか」

「いや、夏音の方がな。『せっかくお兄なんかに彼女できたんだから、大事にしてやんなって! 二人きりの方がいいよ!』って言って譲らなくてな」

「ああ……なるほどな」

「ああ。それにな────」

 

 夏樹はさらに声のトーンを落とし、俺に耳打ちをする。


「──実はな、お前を指名したのは夏音本人なんだよ」


 俺の耳に聞こえてきたのはそんな言葉だった。


「……は?」

「てなわけで、よろしく頼むぜ」


 ポン、と俺の肩を叩く夏樹。

 こいつ、勝手なことを言いやがって……。


「俺が? なんかの間違いじゃなく?」

「いや、お前だ。あいつがハル兄って呼ぶのはお前しか知らん」

「そうか……。ちょっと驚きだな。なんで俺なんだ?」

「お前それ本気で言ってるのか?」

「何がだよ」

「まあいいや。それで、どうだ? 頼まれてくれるか?」


 ふうむ。実際問題俺は頭がそこまでいいわけでもない。2年の頃の試験ではクラス内ですら1桁にギリギリ入れなかった。

 流石に1年の最初の中間試験──中学の復習を多分に含む内容だし──ぐらいなら教えてあげられるとは思うが、夏音にとってわかりやすく教えられるかというとまた別だ。

 でも、俺を直で指名してくれたと言うなれば……。


「まあ夏音のためならしょうがない。かわいい妹みたいなもんだしな」

「お前それ夏音の前で言ってないだろうな」

「? どれをだ?」

「はあ〜〜。いや、なんでもねえよ。……3度目は手が出そうだから次は気をつけてくれよな。」


 やたらと大きくため息をつかれてしまった。

 今の発言のどこかに問題があったろうか? というか3度目ってなんだ。

 夏音のことを妹みたいに思ってるのはほんとだし。

 あ、かわいいがセクハラに当たるとかそういう話か。それはまずいかもしれん。


「まあ、ハルが見てくれるんなら安心だわ」

「そうか? かわいい妹がよくわからん男と勉強会してるって思ったら嫌じゃないか?」

「よくわからん男を妹が指名すると思うか?」

「いや……どうだろうな」

「そもそもお前と俺は親友だろうが、よくわからん男じゃない」

「まあ……そうだな」

「そんなわけでよろしく頼むぜ。部活動停止期間入ってからで大丈夫だから」


 その頃には大会も終わり部活も引退している時期だ、ちょうどいい。

 仮に地区大会を勝ち抜き1つ上の大会に駒を進めたとしても、その期間試験が終わるまでは全部活が活動できないため、時間はある。何ら問題はないだろう。俺も試験対策をしなきゃいけないし。


「……ところで夏樹」

「おう、どうした?」

「お前は最初に『バイト』と言ったな」

「ああ、言ったな」

「バイトと言うからには給料が出ると思うのだが」

「なんだ、そんなことか! それはな……」

「それは?」

「試験が終わってから夏音の方から渡させるよ。楽しみにしてな」


 ニイッと笑う夏樹。多くは言わなかったが、何か企んでいますよと表情が口の代わりに雄弁に語っていた。


「まあ、夏音には俺からも連絡を入れておくよ。夏樹もちゃんと伝えといてくれな」

「おう、マジでありがとな。頼むぜ、佐倉センセ」

「うるせえ」


 これは真面目に勉強しないとな。

 直々に指名してもらって、全く役に立ちませんでした、じゃあカッコつかないしな。3年生、しかも進学組だ。

 夏音の試験範囲は基礎の基礎の部分、俺が今勉強しても基本の見直しができて無駄にはならないだろう。

 家に帰ったら1年の時の教科書や問題集を引っ張り出さないと。

 夏音のためにも、責任重大だ。


(────それに)


 夏音と二人だけで会う機会は皆無と言っていいほどない。夏樹と一緒の場面が圧倒的に多かった。


 もしかしたら、手紙のことについて何か聞けたりするかもしれない。


 直接聞けなくても、何か進展があればいいが……。

 無意識のうちに、俺はそんなことを打算的なことを考えるようになってしまっていた。


 5月も中旬。すっかり夏の色を孕んだ風は、雨を連れ立って湿っていた。

 先程まで晴れていたはずの空は、黒い雲が覆っていた。

 

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