第22話 ハラショー

 どこからか声が聞こえる。意識が急にはっきりしてくる。

 ゆっくり目を開けると、二人の人物が俺の顔を覗き込んでいた。


「あ、お兄ちゃん起きた?」

「ほまれ!」


 その瞬間、俺は体に強い衝撃を受ける。みなとに抱きつかれたのだと理解するのに、数秒かかった。


「ちょっ、みなと……どうしたの?」

「ごめんなさい! ほまれ……無事で本当によかった……!」


 ギュッと抱きつかれているので、みなとの顔が見えない。けど、俺の背中の方から小さく嗚咽が聞こえる。あまり状況が読み込めていないんだが、みなとを泣かせるようなヤバいことをしたっけな⁉ どうしよう、まったく心当たりがないんだが……。


 というか、そもそも俺は今どこにいるんだ? さっきまで寝かされていたようだが……。


「お兄ちゃん、気分はどう? ここがどこだかわかる?」

「みやび……ここは家、だよな?」

「そうだよ」


 周りを見渡すと、見慣れた家具に見慣れた部屋。そして、嗅ぎ慣れた匂い。間違いない、ここはマイホーム・天野家だ。俺たちはどうやらみやびの部屋にいるようだ。


 けど、どうして俺はこんなところにいるんだ……? というか、さっきまで俺は学校にいたはずでは……?


「本当によかった……ほまれぇぇ……」

「ちょっ、みなと、泣かないでくれよ……」


 俺はみなとの背中をさすりながら、記憶を辿っていく。

 確か、みなとと一緒に帰ろうとして……。それからみなとが俺のことをどう思っているのかを聞いて、なんか変な流れになってみなとが俺をロッカードンしだして……。


 そうだ、その後に何かが頭にぶつかってきたんだ! だから、今まで思い出せなかったのか。俺がこの体になって初めて目覚めた時みたいに、ショックで記憶がぶっ飛んでいたのだ。


 でも、それだったら、俺はいったいどうやって家まで帰ったのだろうか。まさか、キョンシー状態で家まで歩いてきたわけではあるまい。きっと、誰かがここまで運んできてくれたはずだ。


「みなと」

「ん……どうしたの、ほまれ?」


 ようやく落ち着いたようで、みなとが目じりを拭いながらこちらを向く。


「俺が気を失っている間、いったい何があったの? それに、どうして俺は家にいるの? 確か、みなとと一緒に帰ろうとして廊下を歩いていたことまでは覚えているんだけど……」

「……今から全部話すわね」


 みなとは一息つくと、気を失っている間、俺の身に何があったのかを、詳しく話し始めた。




 ※




「がふっ⁉」


 私がキスしようとしたその瞬間、ほまれの上に何かがスゴい勢いで落ちてきた。

 ガツン、とまるで硬いものどうしがぶつかったような、鈍い音が響く。


 そして、その物体はほまれの頭を直撃すると、私の方には落ちることなく、ほまれの脇にガタン! と大きな音を立てて転がった。

 私は思わず身を引く。


「何これ……地球儀?」


 落ちてきたのは地球儀だった。落ちてきたときの衝撃で、コロコロと軸に沿って自転している。

 落ちてきた方を見ると、ロッカーの上にはたくさんの辞書やプリントが積み重なっていた。さっきの衝撃で、もともと端っこにあったらしい地球儀が落ちてきてしまったらしい。


 って、そんなことを考えている場合じゃない! もっと重要なのはほまれの様子!


「ほまれ! 大丈夫⁉」


 私は倒れているほまれに駆け寄る。

 地球儀が頭に直撃した後、ほまれはズルズルとロッカーに背中を預けたまましりもちをついている格好になっていた。顔は、俯いているせいでこちらからはよく見えない。


「ほまれ! 返事して!」


 私はほまれの肩をガクガクと揺さぶる。けれど、ほまれから反応はない。

 私はほまれの顔を上げて、こちらを向けさせる。ほまれは目を見開いていて、こちらを向いているにもかかわらず、瞬き一つしない。それに、目の焦点もあっておらず、虚空を見つめている。


「ほまれ……」


 私が手を離すと、再び力なくカクンと下を向いた。

 頭の中が真っ白になる。ほまれが動かなくなってしまった。全部私のせいだ……。私が強引にあんなことをしようとしたから……。


 私はいったいどうしたらいいの……?


 すると、私の手を伝って、微かな振動が届く。ほまれの方を見ると、ちょうどほまれも顔を上げたところで、視線が衝突する。


「ほまれ! あなた大丈夫なの⁉」

「.uc1yw556S7!ak5vpF@H+ymorT$TS!sSl3dupQ5lsRcCsUOkypxZmm……」

「ひぇ」


 ほまれは突然わけのわからないことを言い始めた。思わず私は小さく悲鳴をあげてしまう。ほまれの声が耳から入ってくるが、脳で理解されずにそのまま反対側の耳から飛び出していくような……そんな感じだ。何を喋っているのか、まったくわからない。


「……い、今なんて?」

「……Je pense, donc je suis」

「じゅぽんす?」


 今度はちゃんとした言語らしきものを喋り始めたけど……いったい何語なのか、私にはさっぱりわからない。


 しかし、それを差し置いても、ほまれはちゃんとこちらを見て話している。目の焦点もあっているし、きちんと動作をしている。先ほどの状態よりはマシだ。


 無機質な瞳で、ほまれが私を見つめる。そこにほまれ自身の意思はまるで感じられない……気がする。なんだろう、復活したはずなのに、さっきよりも不安になる。


「ほまれ、立てる?」

「En voi tehdä sitä」

「……立てないのね」


 言っていることは相変わらずよくわからないけど、首を横に振っているのでどうやら立てないらしい、ということはわかる。私はほまれの脇の下に腕を通すと、力を入れる。機械の体だからか、予想よりもはるかに重たかった。


「ふんぬ……!」


 ほまれの体が、少しだけ持ち上がった。すると、それに応えるようにほまれが自力で脚を動かして立ち上がった。


 けれども、まだしっかり立てないらしく、ロッカーに寄りかかっている。


「ほまれ、あなた本当に大丈夫なの?」

「хорошо」

「……日本語で返事して」

「хорошо」


 問題はまだまだ残っている。さっきからほまれが日本語をいっさい話せなくなってしまっているのだ。こちらの言っていることの意味はわかっている……みたいだけど、話す言葉は全部知らない言語だ。今も『ハラショー』とかなんとか言っている。


 こういうとき、私はどうしたらいいのかしら……。


 ほまれを保健室に連れていく? だけど、頭を打って外国語しか話せなくなった、という病気は今まで聞いたことがない。保健室に行っても対処できるはずがない。

 それなら救急車を呼ぶ? そうしたらまず確実に騒ぎになってしまう。最悪、もしかしたら私が何らかの犯罪を犯したとして逮捕されてしまうかも……。でも、背に腹は代えられない!


 私はスマホを取り出して、『119』の番号を押そうとする。手が震えて何度か打ち間違えている最中、はたとあることに気がついた。


「……ほまれはロボットだから、病院に行っても意味はないわよね」


 病院に連れて行って、ほまれがロボットであることが露見したら、それこそ大変なことになりそうな予感がする。ロボットを治療できる病院なんて、そもそも聞いたことがない。病院よりもっと適切な場所に連れていくべきだろう。


 それだったら、ほまれをどこに連れていくべきだろう? 確かこの学校にはロボット研究会とかいう部活があったはず……。でも、そこにはロボット狂がいるとかいう噂だから、行かない方がいいかもしれないわね……。


 誰か……誰か、ほまれのことをわかっていそうな人……! 今、私に一番必要なのはそんな人物だ!


「そうだ……! 佐田君なら何か知っているかもしれないわ……‼」


 そんな時に私の頭に浮かんだのは佐田君だった。彼はほまれの大親友で、ほまれがロボットになってから、この学校で一番長く彼と一緒にいる人物だろう。彼なら、ほまれをどうするべきか、もしかしたら知っているかもしれない。


 放課後が始まってまだ間もない今なら、まだ教室に残っているはずだ。


「ほまれ、行くわよ」

「хорошо」


 私は、ほまれの肩を支えながら、二人でC組へと歩き始めた。

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