第110話 彼女
「それでそれで?」
「まあ、そこからは想像できるだろ……無事に合格して、付き合ってくださいって告白して、付き合い始めた」
「へぇー、そうだったんだ」
そんなに面白い山場はないが……みなとと俺の出会いはそんな感じだった。
思えば、他人にみなととの出会いを話すのは、これが初めてかもしれない。そもそも恋愛話なんて俺はしないし、他人に話す気も全然起こらなかった。もしかしたら、無意識のうちにその話題を忌避していたのかもしれない。
この話を二人にしている最中、俺はみなとと出会った頃の記憶のみならず、当時感じていた気持ちも鮮明に思い出していた。
久しく忘れていた、みなとを好きになった当初に抱いていた気持ち。こういう状況になっているからこそ、とてもセンチメンタルな気分になる。今のこの状態から、元の関係に戻りたい。俺は再度、そのことを認識した。
もしかしたら、檜山と飯山は、俺にみなとへの気持ちのオリジンを思い出させようとして、それが、何か俺たちの関係改善のヒントになるかもしれない、と思って聞いてきたのかもしれない。
「……二人とも、ありがとうな」
「え? あ、うん、どうも?」
「……どういたしまして?」
二人はよくわかっていなさそうな調子で返事をした。
……やっぱり、二人は本当は何も考えておらず、ただ興味本位で聞いてきたのかもしれない。
何にせよ、俺は決心した。必ずみなとと仲直りをするんだ、と。
※
しかし、事はそう簡単には進まず、結局みなととは接触することができず、放課後になってしまった。
今日は俺もみなとも部活はない。ちなみに、サーシャは部活の見学で女子バレーボール部を見にいった。だから、こんな状態にならなければ、SHRが終わった後にみなととどこかで待ち合わせをしてすぐ帰ろうと思っていた。
俺は、自分の傘を持って教室の外に出る。廊下にはみなとの姿はない。俺はまだSHRが終わっていないのかも、と期待して、A組の教室を覗く。
だが、A組のSHRはC組より早く終わっていたようで、教室は閑散としていた。当然、そこにみなとの姿はない。
「先に帰っちゃったか……」
相変わらず雨が降っている。その音でさらに陰鬱になりそうになりながらも、俺は帰ろうとして、教室の後ろのあるものに目を留めた。
教室の後ろにある傘立て。そこには、ビニール傘と色付きの普通の傘が数本残っている。その中に一つ、見覚えのある傘が立っていた。
水色の傘。まさかと思い、傘の持ち手に貼ってある名前シールを確認する。そのシールからは、すっかり薄くなったみなとの名前がかろうじて読み取れた。
忘れていたのか? それとも、校内に用があって残っているから、置いてあるのか? はたまた、わざと忘れて俺が持ってくるのを待っているとか? さすがにそれは考えすぎか……。
とりあえず、まずはみなとの行方をしっかり調べないと。校内に用事があって残っているのに、勝手に持って行ったらすれ違いが生じて、余計に関係が悪くなってしまいかねない。
そう考え、ふと窓の外を見ると、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
間違いない、みなとだ。スクールバッグを持って、昇降口の庇の下にいる。彼女はその端まで来ると、雨が降っていることに気づいたようで、慌てたようにバッグを下ろして何かを探す。おそらく折り畳み傘を探しているのだろう。
俺は再び教室の後ろのドア付近にある傘立てを見る。
俺が取るべき行動は一つだ。
俺はみなとの傘を手に取ると、急いで昇降口へ向かう。
なんだか二年前と同じような行動をしているな、と軽くデジャブを感じながら、俺は走った。
階段を下り、自分の下駄箱の前で勢いよく上履きを脱ぎ捨て、それを押し込み代わりにローファーを取り出した。踵を潰してコケそうになりながらも、俺は外に出る。
みなとは、ちょうどバッグのチャックを閉じたところだった。手には何も持っていない。どうやら折り畳み傘はなかったようだ。まだこちらには気づいていない。
俺は立ち止まると、一瞬声をかけるのを躊躇する。
彼女は声をかけたらどう反応するだろうか? 俺にちゃんと反応してくれるだろうか? それとも……無視してくるだろうか?
いや、声をかけないと何も始まらない。反応が得られるかさえもわからなくていいのか?
「みなと」
俺は、彼女の名前を呼ぶ。あの時とは違い、肩は叩いていない。
緊張をこらえて、彼女の反応を待つコンマ数秒は、とても長く感じられた。
「……ほまれ」
みなとは俺の方を振り返った。俺をまっすぐ見つめている。その目には、俺の姿が映っている。とても冷静な目だ。
いつもと少し違うみなとの様子に少しビビりながらも、俺は近づいて彼女の傘を差し出した。
「これ、忘れてたよ」
「……ありがとう」
彼女は俺の手から傘を受け取ると、それを差して歩き出した。
俺はその後ろ姿を見送る。てっきり何かしらこの前のことについて触れるのかと思っていたのだが、何もなかった。拍子抜けで俺はその場から動けなかった。
みなとはそのまま数歩歩いていき、そこで立ち止まって振り返った。
「どうしたの、ほまれ? 行かないの?」
「え、あ、うん。行く行く」
俺は慌てて自分の傘を差すと、みなとの隣に追いついた。そして、二人で並んで歩いていく。
ただ、普段どおりに話しかけられたからといって、みなとがこの前のことを忘れているわけがないし、俺が許されたわけでもない。
俺はみなとの顔をおそるおそる見る。彼女は澄ました顔をしていた。何事もなかったかのような態度に見えて、逆に怖くなってくる。ここはその話題に触れない方が正解なのか……?
いや、一度起こったことはなかったことにはできない。俺は改めて説明する義務がある。
それに……みなとにも聞きたいことがある。
俺は意を決してみなとに話しかける。
「あのさ、みなと……」
「ん?」
「その……この前はごめん……ちゃんと話していなくて……隠してしまったみたいになっちゃって。でも、本当はそんなつもりはなかったんだ」
みなとは少しの間、黙った。
「……わかってるわよ」
「え?」
予想だにしない言葉が返ってきて、俺は驚いた。
「……ほまれが、あの子とやましいことをしていないことくらい、私は信じているわよ」
「そ、そうなんだ……」
「だから、なんで話してくれなかったのか、それが聞きたかったのよ」
「……それは」
「言わなくてもいいわ。どうせ、私が嫉妬しそうで言いづらかったとか、そういう感じの理由でしょ?」
「う……」
俺は心の中をピタリと言い当てられて、何も返せなくなってしまった。
みなとはそんな俺の様子を見て確信したのか、ため息をついた。
「あのね……まあ、確かに嫉妬は多少はするかもしれないけれど、ほまれにとっての一番は私だと信じているから。これからは隠さないでほしいのよ」
「う、うん……ごめん」
「まさか、本当に浮気とかしていないでしょうね?」
「してないしてない! 絶対にしてない! みやびに聞けばわかる! あいつはスキンシップが過剰すぎて俺も困っていたんだよ! 俺が好きなのはみなとなんだって!」
「そう」
……みなとはため息をつくと、少し笑った、ような気がした。
「……ところで、なんでみなとは昨日の昼、『ひとりにしてほしい』なんて言ったの?」
「……」
みなとはしばらく答えを返さなかった。無言のまま、駅の改札を通り抜けて、ホームに立って電車を待つ。
そして、次の電車が来るアナウンスが流れた時に、みなとはボソッと言った。
「心の整理をしていたのよ」
「……」
「あの時の私は、自分がほまれにきちんと話をしてもらえないほど嫉妬深い、と思われていること、そして実際に嫉妬している自分に気づいて、自己嫌悪に陥っていたの」
「……」
「自分を見つめ直すために、一人になりたかったのよ」
どうやら、檜山と飯山の予想はほぼ当たっていたようだ。
俺はどう言おうか少し迷った後に、口を開く。
「……知ってるよ。みなとがちょっと嫉妬深いこと」
「……」
「でも、それを含めて好きだよ。隠し事をしていたのは……本当に悪かった」
「……次からは全部話してね」
「うん」
電車がやってきて、俺は彼女の方を見た。
みなとは顔を背けていたが、耳が赤くなっていて、顔の温度が上がっているのがわかった。
俺たちの仲は、元どおりになったのだった。
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