第109話 出会い

 二年前、中学三年生の秋。俺は受験勉強のため、塾に通っていた。


 俺が通っていたのは比較的大手の、いくつも校舎を展開している塾だった。俺が通っていたのはそのうちの一つで、自宅から一番近い校舎だった。


 とはいえ、家からはそこそこ離れており、家の最寄り駅から三駅先の駅前にあった。


 部活に熱中していたせいもあって、お世辞にも俺は成績はよくなかった。通っていた校舎にはたくさんの生徒が在籍していたので、成績順に大まかにクラス分けがなされていたのだが、俺は下の方のクラスに振り分けられていた。


 一方、俺が目指している高校は、俺が住んでいる街では一、二を争うくらいのそこそこの進学校だった。当然、俺の成績は合格レベルには全然到達しておらず、毎日遅くまで必死に勉強しているような状況だった。


 秋のある日、模試があった。模試の会場は俺の通っていた校舎ではなく、さらに遠いところにある大きなイベントホールのようなところだった。ちょうど今日と同じくらいの時期の雨の日だった。


 この試験は俺が通っている塾とは別の会社が実施している公開模試だった。そのため、俺が通っている塾の生徒だけではなく、他の塾に通っている人も、そもそも塾に通っていない人も受けることができた。


 そして俺は模試を受けた。が、正直手応えはあまりよくなかった。


 ただ、落ち込んでいてもしょうがない。わからなかったところを復習しよう。そう気持ちを切り替えて、俺は周りの人と同じように、荷物を片付けて席を立つ。もちろん、傘も忘れずに。


「……あれ」


 しかし、前の人はそうではなかった。


 前の席に、水色の傘が置き去りにされている。正面に視線を戻すと、ちょうど前の席に座っていた人が、教室の前方に向かって歩き去っていくところだった。


 俺の前に座っていたのは女子。後ろ姿の特徴はばっちり覚えているし、問題用紙の配布や解答用紙の回収のときに、顔を合わせている。


 小さくなっていくその背中を見て、俺は傘を届けなきゃ! と思って、咄嗟にその傘を手に取って、急いで追いかけた。


 彼女はだいぶ早足で、しかも教室から出て行こうとする人でとても混雑していたので、俺はなかなか追いつくことができなかった。


 なんとか彼女に追いつくことができたのは、外に繋がるホールのところだった。彼女はまさに外に出ようとしているところだった。


「あの」

「……」


 俺は後ろから声をかけるが、彼女は反応しない。たぶん、自分が呼びかけられているのだと気づいていないのだろう。俺は彼女に近づくと肩を叩きながら再度呼びかける。


「すいません」

「……何ですか?」


 振り向いた彼女は、突然知らない人に肩を叩かれたからか、驚きと不審をミックスしたような表情をこちらに向けていた。


 問題用紙の配布や解答用紙の回収の時に彼女の顔は見ていたが、改めてみるとやはり美人だ。

 若干の吊り目に整った顔立ち。可愛いというより美しい、という言葉が当てはまるだろう。


 ただ、その吊り目と表情のせいで、こっちを睨みつけているように感じてしまう。


 ちょっと怖いなー、と俺は若干萎縮しながらも、手に持っていた水色の傘を差し出しながら尋ねる。


「これ、忘れていませんか?」


 すると、彼女はちょっとビックリした様子で俺を見つめると、傘を受け取った。


「あ……どうもありがとう」

「どういたしまして」


 やはり彼女の傘だったらしい。彼女はそれを受け取ると、振り向いて傘を差そうとする。


 その時、俺の視界に彼女が背負っていたリュックサックが目に入る。その中で俺の目を引いたのは、リュックの口につけてあった缶バッジだった。


「あ、俺と同じところだ……」

「え?」


 彼女が不思議そうに俺の方を見て初めて、俺は自分が、思わず言葉に出していたことに気がついた。


 俺は慌てて、なぜそう言ってしまったのかを説明する。


「ああ、いや、その缶バッジ、俺が付けているのと同じだな〜って。ほら」


 俺は自分のリュックをずらして彼女の方に見せる。俺のリュックにも、彼女のリュックとほぼ同じようなところに、同じ缶バッジがついていた。


 この缶バッジは、通っている塾で配られた、その塾オリジナルのものだ。彼女がそれを付けているということは、きっと同じ塾に通っているのだろう。


「へぇ、そうなのね……」

「あ、ごめん……呼び止めちゃって」

「……ふふ、ちなみにどこの校舎なの?」


 俺は自分の通っている校舎名を言う。

 すると、彼女は予想もしなかった返答をする。


「あら、私と同じじゃない」

「え⁉︎ マジ?」


 まさか同じ校舎だとは思わず、俺は素っ頓狂な声を出した。


 ここで、ふと周りから視線を感じて見回してみると、帰ろうとして建物から出てきている他の人が俺たちをジロジロ見ながら避けて歩いていた。


 なんだか変な人扱いされていたたまれなくなっていると、彼女が傘を差した。


「歩きながら話しましょう」

「あ、うん……」


 俺も自分の傘を差して歩き出す。


 同じ校舎に通っていると言うことは、ここからだと帰り道は同じ方向になるはずだ。しばらくは同じ道のりを辿ることになるだろう。


「ちなみに、塾のクラスは?」

「私はAよ」

「Aか……」

「あなたは?」

「俺はC組」


 俺の通っている塾ではクラス別で完全に授業が分かれている。だから、他のクラスの人とはほとんど接点がないのだ。もしあったとしても、一つ上や一つ下のクラスから移動してくるだけだ。だから、成績が二クラス分離れていると関わることがない。


 Aクラスは最上位のクラスだ。きっと、彼女は優秀なのだろう。うらやましい。


「同じ校舎なのね。じゃあ、もしかしたら会えるかもしれないわね」

「そうだね」


 そのまま電車に乗った後も俺たちは一緒に話した。

 話しているうちに、志望校が同じであることもわかった。そして、さっき受けた模試の問題についてや、勉強法などについていろいろと話が弾んだ。


 そして、塾の最寄り駅に電車が近づいた頃、彼女は席を立った。


「じゃあ私は降りるわ」

「そうなんだ、塾で自習するの?」

「いえ、家に帰るわ。じゃあ、またね、天野くん」

「うん、古川さん」


 彼女の名前は古川みなと。電車が停まると、彼女は降りていった。


 次に会う時は、きっと塾にいる時だろうな、少なくとも俺はその時にそう思っていた。

 だが、再会の時は意外にも早く訪れた。


「あ、え、古川さん?」

「天野くん……?」


 翌日、中学校にて。

 廊下を歩いていると、俺はみなととばったりと出会った。


 なんと、同じ塾の同じ校舎に通い、同じ高校を目指しているだけでなく、実は同じ中学校に通っていたのだ。


 俺の通っていた中学校は、市内で一番生徒数が多い。五クラスあり、一学年は二百人近くにもなる。クラス替えなどもあるが、それでも全員を把握できるわけではない。三年間で一度も話さない生徒や、そもそも存在を知らない生徒もいる。


 俺にとってみなとは、今までその後者だった。


 それからの進展は早かった。共通点が多く、俺はみなとに親近感が湧いた。それは彼女の方も同じだったようで、塾でも学校でも見かけると話すようになっていた。


 それに、みなとは成績がよく、俺は成績が悪いことも、話しかける要因の一つになった。

 要するに、俺がみなとに勉強を教えてもらうようになったのだ。


 幸いにも、みなとは俺を拒絶するでもなく、勉強を教えてくれた。


 さらに、冬になり、受験直前になると、俺とみなとは連絡先を交換して、通話しながら勉強するようになった。


 そして、受験前日、俺とみなとはある約束を交わした。


 それは、『お互い、絶対に志望校に合格して、一緒の高校に行こう』というものだった。実際、俺たちに限らず、友達どうしでもこのような約束はよくするものだ、とは思う。


 だが、その裏で、俺はある決意を固めていた。


 みなとは成績がいいから、ほぼ確実に合格するだろう。問題は俺の方だ。みなとに手伝ってもらったとはいえ、まだ不安は残っている。


 だけど、もしも、志望校に合格できたら……。


 その時は、俺の心の中にあるみなとへの気持ちを、彼女にぶつけよう。いつの間にか大きくなっていたこの気持ちを、いつまでも隠していたくはない。


 俺は密かに心に固く決めるのだった。

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