第200話 勾引・追躡⑫
スイッチが切り替わるように、俺は意識を取り戻した。
まず視界に入ってきたのは、真っ白な壁だった。焦点が合わず、初めはぼやっとしていたが、徐々にはっきり見えるようになる。すると、俺の真正面に誰かが立っているのが見えた。
「みやび……?」
「おお、成功だね! お兄ちゃん、おはよう!」
「お、おはよう……」
俺は戸惑いながら返事をする。なんだか記憶が連続していないような、奇妙な感覚に陥る。まずは落ち着いて、目を覚ます前に何をしていたのか思い出さなければ。
飯山とイベントで踊って、そこから帰っている途中で中国人グループに誘拐されて、横浜まで連れていかれて、へそからパソコンに繋げられて、パソコンを焼いたら目を撃たれて、そこからAIがおかしくなって……。
俺の記憶はそこで途切れている。あれから何が起こってこうなったのか、俺はまったく覚えていなかった。
「お兄ちゃん、気分はどう?」
「あ、ああ……まあ、特におかしなところはないけど……」
俺の体調は正常そのものだ。撃たれて壊れたはずの左目はいつの間にか直って、視界は元どおりになっているし、自分の意思でみやびときちんとコミュニケーションが取れている。
そういえば、意識を失ってからどれくらい経ったのだろう? 俺はなんとなく現在の日付を確かめる。
……げ、冬休みが終わってからもう二日も経っているじゃん!
もう学校が始まっている! こんなところで呑気に過ごしてはいられない! すぐに家に帰らなくては……!
そう思って俺は手足を動かそうとする。俺は今直立の姿勢になっているはず。だから、手足を動かしたら歩けるはずだ。
そう思ったのだが、いくら手足を動かしても俺は一向に前に進まない。それどころか、手足の感覚がいっさい存在しなかった。
ここでようやく、俺は自分の体の状態を確かめる。まずは首を動かして、左手を見る。
しかし、そこにあるはずの左手は見えなかった。綺麗に肩から先が、切断されて……いや、取り外されている。
「え」
もしやと思い、俺は首を右に振る。右手も同じように、肩から先が存在しなかった。
「み、みやび! 俺の腕、ないんだけど……!」
「ああ、うん。脚も外してあるよ」
「そ、そんな……!」
俺は慌てて脚があるかどうか、見て確かめようと首を下に向ける。しかし、目に入ってきたのはまた別の意味で衝撃的な光景だった。
白く傷ひとつない人工の肌が首元から下へと続いていく。それはやがて大きな膨らみを描き、俺の大きな双丘を形作る。普段ならそれは服、あるいはブラジャーによって隠されているはずなのに、今はそれを遮るものはなく、自然なままの姿を曝け出していた。結局、胸が邪魔で脚がどうなっているかはわからなかったが、きっとみやびの言ったとおりなのだろう。それよりも……。
「ももも、もしかして今俺って裸⁉︎」
「そうだよ」
みやびはあっさりと俺の推測を首肯した。
つまり、胸だけではなく股の方も何もつけていないというわけで……。
いくら妹の前だとしても、裸の姿をみられるのは恥ずかしい。しかも、四肢をもぎ取られた状態ならなおさらだ。
「みやび! 俺に服を着せてくれ!」
俺はそう言いながら手足を動かそうとする。しかし、聞こえてきたのは、ウィンウィンと関節部分のモーターが小さく唸る音だけだった。
さらに、俺の首は後ろから何かでホールドされているようだった。そのせいで、首を上下左右に振ることはできても、その場から動くことはできなかった。また、これだけで俺の体は支えられているようだ。
「ちょっと待って、あと一個やりたいことがあるから、それが終わったらね」
「……すぐ終わる?」
「ちょっと待って。いろいろ準備しなきゃいけないから」
みやびはちょっと不機嫌な顔になった。
「そもそも、お兄ちゃんは自分がなんでこの状況に置かれているのか知らないでしょ?」
「え……まあ、そうだけど」
「もう、本当に大変だったんだからね!」
まあ、お兄ちゃんに八つ当たりしても仕方がないんだけど……とみやびは続ける。
どうやら、意識を失ってから目覚めるまでの間に、何か大変なことが起こっていたらしい。とても気になる。
「なあ、みやび。俺が意識を失っている間、何が起こったの?」
「……簡単に言うと、お兄ちゃんはウイルスに感染していたんだよ」
「えっ!」
まずやってきたのは驚きだった。そして、やっぱりそうだったのかと納得する。意識を失う直前、AIから体の支配権を取り戻せない事態に直面した時、俺はそれがウイルスの感染によるものだと予想した。今のみやびの発言から、どうやらその予想はビンゴだったらしい。
「それによって、お兄ちゃんの自己防衛モードが暴走して、見境なく人を襲うようになっちゃったんだよ。止めようとしたサーシャを追いかけ回していて、とても大変だったんだ」
「そ、そうだったのか……」
まったく記憶に残ってはいないが、どうやら俺が意識を失っている間にAIが暴走していたようだ。
だが、こうして意識が元どおりになっていることから、俺の暴走は誰かが止めてくれたのだろう。おそらく、俺の暴走をサーシャが止めて、みやびが修理してくれたのだと思うのだが……。
「それで、俺はどうなったんだ?」
「サーシャによると、お兄ちゃんがサーシャを殴ろうとして、倉庫の棚を破壊したんだって。それで、お兄ちゃんは崩れてきた棚と物品の下敷きになって動きが封じられたんだよ」
「……サーシャは?」
「崩れてくる棚から逃げきって無傷だったよ」
とりあえず俺はホッとした。暴走した俺のせいで、サーシャやみやびが怪我を負うことはなかったらしい。
「それで、私がお兄ちゃんを強制シャットダウンさせて、研究所の人に頼んで回収してもらったってわけ。その後、修理して今に至るって感じ」
「そうだったのか」
何にせよ、暴走を止めてくれたサーシャには、後でお礼を言っておかなければな……。きっと、今は学校に行っているだろうし、スパイという立場上ここにも来れないはずだから、伝えるのは家に帰った時になるとは思うが。
「とりあえず……ありがとう、みやび。俺を助けにきてくれて」
「どういたしまして。お兄ちゃんが攫われたら、助けるのは当然だから」
なんとも頼もしい妹だ! お兄ちゃん、こんな兄想いの妹を持てて嬉しいぞ!
しかし、まだ俺のすべての疑問を解消するには至らない。それだけ、あの日の夜から今までに起こったことが多すぎたのだ。
「ところで、犯人グループはどうなったんだ?」
「警察に捕まったよ」
「そっか……それはよかった」
俺の体の機密情報を狙っての犯行だったはずだ。銃も持っていたし、かなりの人数だったから一時はダメかと思ったが、本当に俺もみやびもサーシャも無事でよかった。
「あと、倉庫の棚はどうなったんだ? 俺のせいで棚が崩れて物品がダメになっちゃったんでしょ?」
「うん。というか、お兄ちゃんが棚を崩したせいで、連鎖的に全部の棚が崩れて、倉庫で保管されていた物品がほぼ全部ダメになったんだけど」
「ええ、そうなの⁉︎」
暴走状態の俺は、思ったよりはるかにとんでもないことをやらかしてしまったらしい。
俺は倉庫の光景を思い出す。あの時は切羽詰まっていたから全体を見回すことはできなかったけど、かなり広かったはずだ。そこに保管されている物品のほとんどが俺の過失によって破壊されてしまったとなれば、賠償はとんでもないことになってしまうだろう。数百万、数千万、いや、数億、数十億までいくかもしれない。
「どどどどうしよう……損害賠償とんでもないことになるよな……絶対に払えないよ!」
そういう事故を補償してくれる保険に入っているわけでもないし、入っていたとしても保険の対象外になりそうだ。自己破産まっしぐらじゃないか……!
しかし、みやびはあっけらかんと言い放った。
「ああ、それは大丈夫だよ。お兄ちゃんを攫った犯人グループのせい、っていうことにしたから」
「そ、そうなのか……」
ということは、もし賠償をしなければならなくなったら、それは犯人グループに請求されるっていうことか。安心すると同時に、犯人らにはとんでもない額をおっかぶせられるだろうことが予想できて、少しかわいそうだと思う。
ここで、みやびは盛大にパソコンのエンターキーを鳴らす。
「よし、準備できた! これが成功したら、手足をつけて服を着せて元どおりにするよ」
「よかった! ……ところで今から何をやるんだ?」
「お兄ちゃんのAIのテストだよ。もう一度、AIを起動して、本当に暴走状態から直ったのか確かめるんだ。もし暴走しても被害が及ばないように、お兄ちゃんの手足を外しているんだよ」
「そうだったのか……」
どうりで、こんなとんでもない状態になっているわけだ。でも、みやびの気持ちもよくわかる。アンドロイドである俺がもし何にも縛られることなく暴れたら、みやびは俺を制止する間もなくやられてしまうだろうから。
「それじゃあ、AIを起動するよ。こっちで操作するから、お兄ちゃんは特に何も操作しなくていいよ」
「わかった」
みやびはカチカチとパソコンを操作する。次の瞬間、俺の意識がカチッと切り替わり、全身から血がサーッと引いていくような、なんとも不思議な感覚を味わう。
そして、俺の体がAIの制御下になった。
「…………」
「…………」
『俺』は何も喋らず、いっさい動かない。いつまで経ってもみやびを襲う様子がないことから、修理はきちんと成功したようだ。
「……うん! 大丈夫そうだね! それじゃあ戻すよ!」
みやびはカチカチとパソコンを操作する。次の瞬間、俺の意識がカチッと切り替わり、再び体に血が通うような、なんとも不思議な感覚を味わう。
そして、俺の体が俺の制御下に戻る。
「戻ったかな?」
「うん、戻った」
「よし、これで確認は終了! お兄ちゃん、お疲れさま!」
この後、俺は四肢を取り付けられて解放され、服を着て家に帰ることができた。
こうして、俺の人生最大の修羅場は、ようやく終わったのだった。
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