第9話 メリット

 結局、みやびのセクハラ攻撃が終わるまで、かなりの時間がかかった。

 ただ単純にお風呂に入って出て着替えただけなのに、なんでこんなに精神的に疲れたんだろう……。わけがわからないよ。


 俺は髪を乾かすと、ヘアゴムでまたツインテールにして脱衣所から出た。


「はぁ……」


 ちょっと自室でゆっくりするか……。


 俺がそう思った瞬間、タイミングを見計らったかのようにすぐそばで腹の鳴る音。

 振り返ると、同じく脱衣所から出てきたみやびが、苦笑いしながら腹をさすっていた。


「えへへ……お腹空いてきちゃった」

「……そういえばもうすぐ夕食の時間だね」


 現在時刻は午後六時一分三十秒。あまり意識していなかったが、普段だったらそろそろ夕飯の時間にするところだ。


 ちなみに、この家の料理担当は俺だ。両親は家にいないし、この時間帯にみやびは研究所にいることが多いからだ。もし、みやびが家にいたとしても、料理の腕は壊滅的なレベルなので、結局俺がやることになる。


「夕飯の支度でもするか……」

「やったー! 久しぶりのお兄ちゃんの料理だー!」


 こうしてみやびが喜んでくれるので、俺も自然とやる気が出てくる。妹パワーだ。

 早速台所へ向かう。一週間ぶりなので、腕が少しなまってしまっていないか心配だ。


 俺は腕まくりをすると、何を作るか考えるために冷蔵庫の扉を開ける。


「さて、冷蔵庫には何があるか……な……」


 冷気とともに、俺の目の前に広がっていたのは、大量の細長い黒色の缶。側面には緑色の雷のようなマークがプリントされている。間違いない、エナジードリンクだ。それが幅広く、奥の方まで大量に突っ込まれている。


 こんなことをするのは、家には一人しかいない。

 俺は隣に立っている妹を見る。


「みやびさん……? これはいったいどういうことですか……?」

「~♪」


 みやびは口笛を吹いて、素知らぬふりをしていた。


 はぁ……。いくら研究が忙しいからといって、エナジードリンクばっかり飲んでいたら体を壊す、って前々から言っているはずなんだけど……。こんなにストックを用意して、いったいどんだけハードな研究をするつもりだったんだ。


「とりあえず、全部どけるよ」

「ああー……私のエナジードリンクが……」


 俺は冷蔵庫からエナジードリンクの缶をすべて出していく。

 結局冷蔵庫には、奥の方に、辛うじて中身が少し残っている味噌と、豆腐が一丁入っていた。俺はそれを引っ張り出す。

 あとは、下の段に入っていた少しの冷凍食品、もしものときに、と思ってとっておいた冷凍ご飯、そして調味料類。


「……まともな食材はこれだけかよ!」


 夕食を作れることには作れるが、このままだと明日から本当にエナジードリンク生活が始まってしまう。今からでも買い出しに行きたい気分だ。


 そういえば、事故に遭う前に、冷蔵庫の中身がないから買い出ししなくちゃな……と考えていた気がする。その時すぐに行動に移しておけばよかった。

 まあ、過ぎたことを後悔しても仕方がない。とにかく、今はこれだけで夕飯を作らなければ。


 俺は早速包丁を片手に、夕飯の支度にとりかかる。


「とりあえず、みやびは食器の準備しといて」

「あいあいさー! あ、念のため言っておくけど、作るのは私の分だけでいいからね」

「え? なんで?」


 一瞬意味がわからず、動きを止める。


「だって、お兄ちゃんアンドロイドじゃん」


 そういえばそうだった。いつもの癖で二人分作るところだった。あぶねあぶね。


「でも、食べられないのは嫌だなぁ」

「どうして? 食べなくてもいいんだよ? 食べる時間が節約できるじゃん」

「確かにそうだけどなぁ……」


 食事を取らなくていいのは、確かに楽なのかもしれない。食事を用意する手間が減るし、食べる時間を他のことをする時間に充てることができる。けれど、俺としては食べる喜びが減ったり、おいしいものを食べられなくなったりすることの方が嫌だ。


 仕方なく、匂いだけで我慢する。ただ、いくら嗅げども食べられないから、相当きつい。


 そうこう考えているうちに、早速いい匂いが漂ってきた。

 あぁ……作れはしても食べられないのか……。本当に残念だ。


 そして、あまり時間をかけることなく、今日の夕食が完成した。

 冷蔵庫にまともな食品がなかったので、かなりの手抜きご飯だ。本当ならもっと栄養のあるものを食べさせてやりたいが、今はこれが限界だ。


「おまちどうさま」

「わーい! いただきます!」


 早速みやびは夕飯を食べ始める。俺は、向かいの席に座ってその様子を眺める。


「おいしい……! やっぱりお兄ちゃんの作る料理は最高だよ!」

「それはよかった」


 褒めてくれるのは素直に嬉しい。それにしても、本当においしそうに食べるよな、みやびは! 俺までもお腹が空いてくる……気がする。

 代わりに、俺はヤケになって水を飲んだ。


「ううぅぅ……くそぅ」

「そんなに水を飲んだらトイレが近くなるよ」

「そんなの知らない……」


 すべてはおいしそうに食べているみやびが悪い! これは新手の飯テロだ!

 コップ一杯の水を飲み干したところで、虚しさを感じた俺はコップを静かに机の上に置いた。


 とりあえず話を逸らして、気を紛らわせよう……。


「そういえばみやび、この体の最大のメリットって何?」

「突然どうしたの?」

「いや……この体になってもそんなにメリットないな、って……」

「握力が強くなったり、体が柔らかくなったり、食事の必要がなくなったじゃん」

「そりゃそうだけど……。でも、それに対するデメリットが大きすぎるっていうか……あまり便利さを感じないんだよね」


 身体能力は一部を除いてほとんど落ちた。身長も二十センチほど低くなったし、体を動かしにくくなった。おいしいものも食べられないし……考えれば考えるほどテンションだだ下がりだ。


「うーん……お兄ちゃんがその体になったメリット、ね……」


 みやびはその言葉を聞いて、少し考えこむ。

 そして、数秒後に何かを思いついたように顔を上げる。


「お兄ちゃんに、目を瞑って」

「どうしたの突然?」

「いいからいいから」


 俺はみやびに言われるままに目を閉じる。もちろん、目の前は真っ暗で何も見えない。

 みやびの声がする。


「今何時何分何秒?」

「午後六時二十八分七秒」

「現在の気温は?」

「二十二度五分」

「湿度は?」

「五十二パーセント」

「気圧」

「千二十四ヘクトパスカル……」


 ……いや、なんでここまですらすらと言えるの⁉ 時計も温度計も湿度計も気圧計もいっさい見ていないのに。もしかして……。


「全部正確な値だよ。つまり、お兄ちゃんはいつでもどこでも時刻とか気温とかを、何も見ずに計測できるんだよ」

「なんじゃその機能……」

「それに、この豆腐だけど」


 そう言って、みやびは箸で器用に味噌汁から豆腐を摘まみ上げる。


「この豆腐、見事に立方体に切られているんだけどわかる?」

「……確かに」


 綺麗な立方体だ。みやびが別の豆腐を取り出すが、それもまったく同じ大きさ、形。合同だ。一辺が二センチちょうどに切られている。


 みやびはひょいぱく、と豆腐を食べると言った。


「まあつまり、お兄ちゃんは寸分違わず正確に計測したり、作業したりできるんだよ」

「なるほど……」


 思い返してみれば、感覚で推しはかった数字が、妙に細かかった気がする。そのとき、無意識にその計測機能を働かせていたのかもしれない。

 でも、体内時計が正確になったのはいいけど、気温や気圧って使う機会はあるのかなぁ?


「やっぱり、あんまりメリットを感じない……」

「そっか……ま、そのうち使い道は見つかるよ! そもそも、お兄ちゃんの体の機能はまだ五パーセントくらいしか解放していないから」


 五パーセント⁉ 今の段階でもかなりいろんな機能があったと思うんだけど、まだ五パーセントしか使っていないのか⁉ 残りの九十五パーセントが解放されたら、俺はいったいどうなってしまうんだ……。というかこの体にそんな余地が残っているのも驚きだ。


「それだったら早く解放してよ!」

「えーやだよー、面倒くさいもん」


 面倒くさい、の一言で片づけられた。俺の体のことなのに、ずいぶん適当だな!


「ま、お兄ちゃんが体を使いこなせるようになったら、そのうち解放するよ、ごちそうさま」

「うー……」


 この体の調整ができるのはみやびのみ。悔しいことに、俺はこの体に慣れきっていないので、その他の機能を解放してもらうにはまだまだ時間がかかりそうだった。

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