第6話 帰宅

「やっほー、お兄ちゃん、元気?」

「みやび、おはよう」


 俺が部屋で休んでいると、みやびが訪ねてきた。

 そして、ベッドの縁に腰掛けると、間髪空けずに予想外のことを言ってきた。


「突然だけど、そろそろ家に帰ろう」

「本当に突然だな!」

「嫌だった? ならここにずっといてもいいんだよ?」

「いやいや、そんなはずないじゃん。帰りたいよ!」

「じゃあ帰ろう!」


 家に帰るということは、この施設を離れるということだよな? 俺がこの体になる前に住んでいたあの家に帰るということだよな?

 俺は自分の家を思い出す。どこにでもありそうな平凡な一軒家だ。ただ、周りに赤い屋根の家が多い中、我が家だけブルーの屋根で、周りから妙に浮いていた。

 あんまり意識してこなかったけど、かれこれ一週間くらい帰っていないんだよな……。


「ねえ、こんなにあっさり帰ることを決めちゃっていいの?」

「いいんだよ。だって、もうこの施設で研究できることは全部やったんだもん。体力テストとか」

「あーなるほど……って、みやびの研究対象ってもしかして俺⁉」

「え、そうだけど?」


 初耳だ。てっきり、みやびは別にロボットの研究をしていて、その縁があって俺はこの研究所で過ごさせてもらっていたのだと思っていた。

 ということは、今まで研究対象にされていることに気づかないまま、俺はみやびと接していたのか。なんだか動物実験をされていることに気づかない動物みたいだ……。


 俺の様子を見て、みやびは呆れたようにため息をつく。


「気づいていなかったの?」

「う、うん……。てっきり別の研究をしていたのかと」

「それだったら私、こんな頻繁にお兄ちゃんの部屋を訪ねていないし、お兄ちゃんの体力テストなんてやらないよ」

「そ、そっか……」


 つまり、俺が研究対象ではなかったら、この部屋にこんなに頻繁に訪ねてきていないと。

 やっぱり、俺の優先順位は研究より下なのだろうか。お兄ちゃん、悲しいぞ。


「それに、お兄ちゃんに合うように、体を毎晩調節しているんだよ」

「そうなの⁉」


 俺、知らない間に体をいじられていたのか……! まったく気づかなかった。

 だが、日に日に体が動かしやすくなって、三日でほぼ問題なく歩けるようになったのは事実だ。これは、みやびの調節のおかげなのだろう。俺が体に合わせるだけではなく、体も俺に合わせてきたのだ。


「とにかく、お兄ちゃんの体の調節はだいたい終わったよ。体力テストのデータも役に立ったし、今のままだったら日常生活はそつなくこなせるはず」

「おお! マジか!」


 これでやっと、普通の生活を送ることができる。体のせいでちょっと……どころじゃなく変化している部分もあるけど、日常に回帰できる!


「じゃ、お兄ちゃん帰ろっか」

「うん」


 俺はベッドから起き上がると、靴下と靴を履いて立ち上がる。

 この動作も、四日前は全然できなかったのに、今じゃ何事もなかったかのようにスムーズにできる。


 いつかは家に帰らなくちゃいけないのはわかっていた。けど、いざその話をされると、自分が今まで過ごしてきたこの部屋にも、なんだか愛着が湧いてくる。自宅の俺の部屋に比べれば無機質で何もない部屋なのに、不思議なものだ。


「お兄ちゃん、置いていっちゃうよ」

「ああ、待って!」


 最後に俺は部屋を振り返ると、そっと扉を閉めて、みやびの後を追う。

 今まで通ったことのない廊下を通り抜け、くねくねと曲がっていく。ずいぶん歩いているが、まだ外には出ない。それに、人にも誰ひとりとして会わない。


「この研究所、広いんだな」

「まあね。お兄ちゃんの部屋は一番奥だったんだよ」

「俺を隔離していたのか……」

「もしかしたら、そうだったのかもね」


 どういうことだ? なかなか意味深長な発言をしたみやびに、俺はそう尋ねようとするが、その前にみやびが声をあげた。


「玄関に着いたよ」

「やっとだ……」


 俺たちは日の光が差し込む玄関から外に出る。


 一週間ぶりの太陽だ。曇りなき晴天、空が眩しい! 窮屈な箱に詰められていたのが、一気に解放されたような、清々しい気分になる。


「お兄ちゃん、早く乗るよ!」

「待って!」


 そんな俺を差し置いて、みやびは玄関前のターミナルに停まっていたタクシーを捕まえて乗り込んでいた。我が妹ながら、手際がよすぎるだろ!


 俺もタクシーに乗り込み揺られることおよそ三十分。賑やかな市の中心部を抜け、住宅街に入ってしばらくすると、タクシーが停まった。子供のように俺は真っ先に降りると、目の前の自宅を見上げる。


「俺の家だ……」


 周りの赤い屋根に反してポツンとあるブルーの屋根。それ以外は普通の一軒家。表札には俺の名字である『天野』の文字。


 ようやく……ようやく、俺は自宅に帰ってきたのだ!


 後ろでタクシーが走り去る音とともに、みやびが俺の横にやってくる。


「はぁ~、この家に帰ってくるの、久しぶりだな~」

「みやびも帰っていないのか?」

「そうだよ。お兄ちゃんが事故に遭ってから一度も帰っていないよ」


 俺が研究対象なのだから、当然っちゃ当然か。

 みやびは家の鍵を取り出すと、玄関のドアを開ける。


「さ、早く中に入っちゃって」

「ただいま~……ってうわっ!」


 見慣れているが、どこか懐かしいような廊下が目の前に広がっている。家の照明がどこも点いていないせいで、かなり薄暗い。

 そんな中、玄関のマットの上で、金色の瞳が二つ輝いていた。


 あまりにも異質な状況に、俺は思わずビックリして声を出してしまう。

 家の中には誰もいないはずなのに……。まさか化け物でも住み着いてしまったのか⁉


 そんなことを一瞬思ったが、その金色の瞳の正体は……。


「なんだ、あずさじゃん」


 よく見ると、玄関のマットの上に座っていたのは一匹の黒猫だった。家の中が薄暗かったので、黒の胴体がうまく闇に紛れて金色の瞳だけがあるように見えたのだ。


 この黒猫はただの黒猫じゃない。俺の家で飼っている猫だ。名前はあずさ。雄だ。もともと家の庭によく現れていた野良猫だったのだが、一年くらい前に家で飼い始めたのだ。


「みやび、俺がいない間、あずさはどうしてたの?」

「隣の家の人に預かってもらってたよ」

「じゃあ、なんでここに?」

「さあ? 脱走したんじゃない?」


 猫は身軽だから、隣の家から我が家に侵入するのは容易だろう。隣の家との境は背の低いフェンスだけ。それに、あずさはもともと神出鬼没の野良猫だった。


「あ、もしかしたらお兄ちゃんの帰りを察知して迎えにきたんじゃない?」

「ああ! あずさ~お前も寂しかったのか~」


 俺はあずさに近寄って抱き寄せようとする。


 だが、あずさは俺が一歩近寄ると、突然立ち上がって一歩下がった。さらに近づくと、フシャーと威嚇して毛を逆立てる。


「……あずさ、どうしたの?」


 俺が近づくのをやめても、あずさは毛を逆立てて威嚇し続ける。何かに怯えているようにも見える。


 俺はそんなあずさを落ち着かせようと、さっと近づいて抱き上げようとする。

 そして、俺が抱き上げようと屈んだ次の瞬間、あずさは俺の手をすり抜けて、頭の上へと大ジャンプした。そのまま俺の頭を踏み台にして、後ろの方へと跳んでいく。


「あ、あずさ⁉」

「おー、よしよし」


 振り返ると、あずさはみやびの腕の中にすっぽり収まっていた。みやびが頭を撫でると、ゴロゴロと気持ちよさそうに喉を鳴らす。


 これで確信した。俺は……猫に嫌われている。


「嘘だろ……。みやびにはほとんど懐かなかったくせに……」

「あ、お兄ちゃん、これ以上近づくとあずさがまた逃げちゃうよ」


 その言葉が示すとおり、俺が一歩を踏み出した途端、あずさが毛を逆立てて戦闘態勢に入る。


「あずさ……いったいどうしてしまったんだ?」

「たぶん、お兄ちゃんの見た目が変わったせいじゃない?」

「あー……」


 なるほど。確かにあずさからしてみれば、見慣れた人がいなくなって、その代わりになんだかよく知らない女の人が家にやってきて、親しげにしてくるんだもんな。そりゃ警戒感を抱くわな。


 みやびはあずさを抱き直す。


「そういうわけだから、お兄ちゃんは元の体に戻るまであずさには懐かれないかもね」

「そんなぁ……」


 これからしばらくあずさに触れ合えないとわかって、俺はちょっと、いや、かなり落胆した。

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