第49話

 ティロリロリロリン。ティロリロリロリン。


 まだ俺が人の形をギリ、保てていたときの話。

 俺が育った街は、汚れたビルが生えそろった、巨大な墓地のような街だった。


 色落ちしたアスファルトの上に、嫌い濃い汗をかいたサラリーマンが流れては消えていく。

 店の入り口の前では、いつからいたのか、おやじ狩りに狩られた小おやじが横たわり、度数が高めのカップ酒が、お供のように置かれていた。


 そして俺はというと、何度目かという程に、店の商品を万引きした女子高生と、パイプ椅子に座って向き合っていた。


「何でしたんだ、万引きなんて」


 倉庫のようなバックヤードで黒いセーラー服を着た彼女を見る。


「……」


 黙秘だ。

 しかも、俺を親のカタキの様に睨み付けてくる。


「はぁーー。どうしたもんかね」


 俺は俺で、彼女に掛ける言葉が見当たらず、ばつが悪い。

思わず、金具のかみ合っていない長机の上で頬杖をついてしまった。


「……」


 女子高生からの視線が痛い。

 黒髪で大人しそうな見た目だが、中身はかなり傲慢らしい。

 話がないなら、早く帰らせろと、ギュッと寄った眉間が叫んでくる。


「駄目だ。俺じゃ説教もままならねぇ。だいたい、俺は誰かに正しさを説く程、思慮も思いやりも深くねぇんだ。ここは役者が違う店長にお願いするか。うん。そうしよう」


 とにかく、この黒い少女の前だと居心地が悪く、俺は彼女の目線から身を守りたかった。

 俺は今いるバックヤードのさらに奥。使われていない機材が集められた半個室の部屋を覗く。


「店長、すみませ……、って。おっとっと」


 椅子を傾けて覗き込んだ先には、俺達の座るパイプイスを二つ並べて眠る、小さいおじさんの寝背中があった。


「うぇ、店長疲れすぎて気を失ってんじゃん」


 零細なのか、オーナー店長のおじさんはいつも、倉庫の隅で目を閉じている。

 いつか本部のマネどもをうならせてやる、と言っていた威勢も鳴りを潜めたハゲ頭。

 俺は今見た哀愁にそっと蓋をした。

 目の前の少女は依然俺を黒い目で睨んでいる。


「ハー」


 人前で駄目だと思いつつも、ため息が漏れる。


「本当、ここはゴミ溜めだよ」


 やれやれ、という言葉も出ない程、いつの間にか俺は全てをを諦めていた


 ティロリロリロリン。ティロリロリロリン。


 仕事終わりの冷えた空気。

 二人分のお弁当とサンドイッチにビール、それと、うずらのたまごを袋に入れて、俺はやっと帰路につく。

 ビルの間から朝目が差し込む。

 湖の向こう側から日が昇る。

 夜九時から働き、明朝五時にはシフトを交代する。

 疲れはそれ程もないが、この生活を維持できているのも彼女のおかげだと思う。

 そろそろ家で、アイツが目を覚ます頃だ。

 アイツがいるから俺は夢のない日々を、それでも生きていける。

 黒闇の中で、胸を張れる。


「はやく、アイツの顔が見てぇな」


 程なく帰り道を終えて、二階建ての古びた木造アパートの階段を上がる。

 色褪せたアスファルトとは違い、錆びた鉄が靴底と響いて、朝だというのにカンカンと音を鳴らす。


「今日は面倒に会ったから、うずらを買ったんだ。アイツもきっと喜ぶはずだ」


 黄色い声が頭に浮かぶ。

 身体が軽くなる。

 無愛想な廊下を蹴って、部屋の前に着く。


「ただいま、――《■■■》――」

「もう。その名前は滅多なことでは呼ばないでって、言っておいたはずよ」

「あー。すまんすまん」


 わざとらしい、っと叱る声に棘はない。

 俺もそんな彼女の愛想に甘えて、何度もこのくだりを繰り返していた。


「秘密なのだから。あなたとわたししか知らない、ナイショのことなのだから」


 そう言いながら深窓に寄り添って、薄明に染まる空を眺めていた。


「わたしは、この空の色が好き。黒と青と紫が、燃える色が好き」


 湖から澄んだ風が朝の匂いを運ぶ。

 俺は、涼風に流れる、その彼女の横顔が好きだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る