第45話

 空っぽになったシンクの水滴を払い、拭いたタオルを下に干す。

 マイが玄関で低めのヒールを履くために床に座って、膝を曲げる。


「じゃあ、そろそろ行くわね」


 紺のスーツに薄い青色の、短めのネクタイを締めたマイが僕を見た。


「うん、いってらっしゃい」


 僕はマイとは対照的に、だぼだぼの部屋着で姉と目を合わす。

 家の中でのルーズなマイも柔らかくて好みだけど、仕事着のときの少しヒリついた姉さんも、美人なバリキャリって感じがして、何だか違う家のおねえさんのようで、ちょっぴり惚れてしまう僕がいた。


「もう、なんでレイが照れてるのよ。だらしないんだから」


 僕は右手で首を搔きながら、なぜだかモジモジしてしまう。

 そんな僕の両肩に長い指を載せて、マイが僕の襟元をきれいに直してくれた。


「不甲斐ない義弟なこと」

「ごめんよ、姉さん。でも、ありがとう」

「まぁ、私はレイちゃんのお姉ちゃんだからね」

「うん、そうだね」


 こういう時、僕はどうしようもなく姉さんの弟なのだと思う。

 マイがいてくれて、残ってくれて嬉しいと、心の底から思ってしまう。

 僕はキマリの悪い視線を前に戻して、正面を見る。

 マイの端正な顔が思った以上に近くて、互いの鼻先が触れ合う。

 ヒールを履いているせいで、僕らの目線の高さが一致する。

 淡いマイの吐息が僕の鎖骨を変に舐めるので、なんだかとてもこそばゆかった。


「マイ、さすがにこの状況は、僕でも照れる」


 美人な義姉に僕は完全に、やられてしまっていた。

 耳の先まで真っ赤に茹で上げられてしまう。

 そんな僕を至近距離で眺めながら、マイはいたずらっぽく笑うのだった。


「なにー、レイちゃん。思春期なのー?」


 ここまでがセットで僕らのいってらっしゃいのルーティンだ。

 僕の大切な何かは、この義姉によって、完全に壊されていた。

 マイの白い指がすっと、僕から離れる。


「じゃあ、本当に行ってくるわね」


 マイが仕事道具の入った嫌に長いバックを担ぐ。

 ゴルフクラブでも入っているのかというぐらい長細い直方体の鞄が、華奢なマイには不似合で、それでいて、いつもその格好を動きにくいだろうに、と思う僕がいた。

 姉さんがキュッとしまった腰を回す。


「じゃあね、本当にほんとうに、いっちゃうから」


 マイが後ろに振り向いて、玄関の扉に吸い込まれるように歩いていく。

 僕はその、もう僕にとっては小さくなった背中が、さらに離れて小さくなっていくのを見送る。

 無機質な銀のドアノブに、マイの薄いピンク色の爪が添えられる。

 キー、と油の切れた歯車が音をたてる。

 ドアの隙間から漏れ出た冷えた空気が、群青色のツインテールを風に変える。

 なんてことはない、いつもの景色だ。

 ただ僕の頭の中で何かが引っかかっていた。

 その違和感に脳みその奥を、ギューっと掴まれているようで、僕は綺麗な気持ちで見送ることができなかった。


 ――そうだ、僕は姉さんに聞きたいことがあったんだ。

 マイの背中に回った嫌に細長いバックの中身がカチャリと鳴る。

 ――姉さんが何の仕事をしているのか。

 深夜に破れたストッキングを履く、マイの姿を思い出す。

 ――どうしていつも傷だらけで帰ってくるのかを。

 記憶の中で、僕の姉はボロボロで夜を背負っていた。

 ――どうして家に帰ってくるとき、血と火薬の匂いがするのかを。

 髪留めを片方だけなくしたマイの姿を思い出す。


「姉さん、あのさ……」


 バタンッ。

 そんな僕の未練を置き去りに、ドアが閉める。

 また僕は一人、家の中に取り残されてしまった。

 マイのいない、一人っきりのか玄関で僕は下を向く。

 マイのいない、一足少なくなった玄関を、無意識に見つめていた。

 ガチャ。


「あ、言い忘れていたわ。レイ」


 はっと、顔を上げると、そこにはいつものドアの間から顔を覗かせるマイの姿があった。


「レイ、卒業おめでとう」


 何度も繰り返し聞いたはずの言葉をいま僕は思い出す。

 その声を、温度を――。

 なぜか僕は、血と硝煙を香りの中で――。

 終末帝と噛み千切られクラックを目の前に思い出したのだった。

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