第44話

 僕と姉のマイが暮らした街は、低階層のビルが建ち並ぶ、なんて事はない地方の都市だった。


「ふわぁ」


 薄い壁の向こう側から、トタトタと、可愛い足音が聞こえてくる。

 僕ら姉弟が二人で暮らすこの家唯一の個室は姉さんの寝室だ。


「レイちゃん、おはよう」


 僕は破れたソファーの上で瞼を擦る。


「おはよう、姉さん」


 扉の奥から体操服姿のマイがひょこりと顔を覗かす。

 マイは、節約、と言って中学時代の体育着をそのままパジャマとして利用している。

太ももが厳しいのか、紺色のハーフパンツの裾を、キュッと片手で下げている。


「レイちゃん、早く起きないと。もう朝の五時よ」

「早朝すぎるよ。それにまだ太陽も昇ってないよ」

「そう? 私はもうじき出勤時刻なのだけど」

「僕は絶賛春休み中」


 部屋から出たマイは、これまた体操服がきついらしく、縦に細いおへそをチラつかせて近づいてくる。


「もう、自堕落なのだから。一体この義弟はお姉ちゃんが居なくなったらどうするつもりなのかしらね」


 マイの小さなお尻が、横たわる僕の頭をかすめていく。

 姉さんはいつもラベンダーと柑橘系が混ざったような、甘くて、さっぱりした香りを纏っていた。

 完全に朝のモードに入ったマイが、カチャカチャと手を動かし始める。


「そりゃあ、僕だっていつかは一人になるんだ。ぜんぶ一人でなんとできるさ」


 マイの音に引っ張られ、僕も渋々、寝床のソファーから重い身体を起こす。


「へー、レイちゃんに炊事洗濯、ゴミ出しまでの家事全般が務まるのかしら。お姉ちゃんはとっても心配だけど」


 僕が顔をあげると、マイがダイニングテーブルに載ったお皿たちを片づけている。

その引き締まった後ろ姿に記憶の中を刺激される。

 昨日の夕飯はなんだったっけ。

 思い出せないけど、どれもきっと、かけがえのないほど、美味しかったはずだ。

 何度も見たはずの光景。

小さい頃は、微かに入る早朝の光を吸ったマイの白いうなじにドキリとさせられたものだ。


「あーあ、気の利かない義弟をもつと、お姉ちゃんは朝から大変ねー」


 僕は、そこまで言われれば、と思い、うしろからそっと腕を回す。

 マイが重ねた昨晩の残りのお皿を背中ごしに覆い被さるようにして取り上げる。


「もう! びっくりするじゃない!」


 マイの小さな頭がぴくりと跳ねる。

 長くて綺麗な群青色の髪も、まだ二つにくくられず流れているのと、寝起きだからということもあり、つむじの辺りのはねた毛がこすれて、僕の鼻先は少しこそばかった。


「あらら、もう私と目線が合わない。本当に大きくなったのよね」

「姉さん、弟の成長をもっと喜ばないと」

「そうね。でも、やっぱり。なんだか寂しい気持ちになっちゃうの」

「ふーん、僕は姉さんより背が伸びて、大人になった気分だけど」


 僕に身長を抜かされただけなのにノスタルジーに浸るマイを後ろに置き去りにして、僕は汚れた食器たちをそっと、シンクに置いた。

 ジャー。

 勢いあまって、水滴がとぶ。

 蛇口をひねると冷たい水が威勢よく噴き出した。

 季節のせいもあるけど、朝の水は別格に冷えて切っていて、僕の眠気も洗い流して、冴えさせた。

「ねぇ、姉さん。今日も遅くなるの?」

 洗い物を僕に取り上げられたマイは、仕事を無くし、一人ぽつんとソファに腰をつく。

 お化粧がなくても分かる長いまつ毛がパサリと羽根のように、まばたきをする。


「そうね、部長次第かしら」


 僕の寝床でもある破れたソファの上で毛布をたたみ、そそくさと朝の身支度を始めるマイ。

 引き締まった右足を曲げて、きゅっと、黒いタイツを上にあげた。

 短いパンツの隙間から白い内ももが漏れて、朝の日の中でハレーションを起こす。

 窓の外から小鳥の歌が聞こえた。

 テキパキと朝支度を進めるマイが、ほのかに色づいた頬に線を引く。

 ファンデーションの何とも言えない粉っぽい香りがキッチンにも漂ってきて、一日の始まりの匂いがした。

 街が目を覚まし出す。

 僕はマイと過ごす、この何のヘンテツもない朝が嫌いではないのだった。


「あのさ、姉さんってさ。何の仕事してるのさ」

「なにー、レイちゃん。お姉ちゃんのこと、気にしてくれてるの?」


 マイが化粧鏡を傾けて、僕の表情を確認してくる。

 僕はなぜか恥ずかしくなって、マイの筋の通った横顔から、泡だらけのシンクの中に視線を逃がした。


「違うよ……」


 ガラスのコップをシンクの隣に置く。

 敷いた水気取り用のタオルが濡れて黒く滲む。

 張り付いた液滴が、コップの曲面を流れて、すっと消える。


「ただ少し、マイが心配なだけ」


 あらあら、嬉しいこと言ってくれちゃって、と、マイは視線を鏡の中の自分に戻し、前髪を整えていた。


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