第2話


 ティロリロリロリロリン。ティロリロリロリロリン。


 自動ドアが開く音がする。

 硬い靴底の足音、鞄の金具が擦れる音。


 社会人の仕事帰りだろうか。

 他人のことを言える身ではないけれど、こんな時間までよくやるな。お疲れ様です。と声を掛けたくなる。やらないけど。


「レイくん、そろそろ今日は上りね」


 オーナー店長に声を掛けられて、僕は陳列棚の前から腰を上げる。


「レイくんは高校生なのに、よく働くね」

「いえいえ、店長に比べれば僕なんか全然です」

「いやいや、僕はお店だけだし、バイトの子もいるから。レイくんは明日だって学校があるでしょう?」


 時計は深夜三時を回っている。


 今から姉の待つ家に帰って、掃除や洗濯とか、家の色々をしてとなると、僕の睡眠時間は今日も三時間もない。


 店長、優しいな。自分だって人件費を抑えるために、できるだけお店に居るようにして。

 ろくに寝てもないだろうに。そんなにハゲ散らかして、頑張っているのに、僕の心配もしてくれるなんて。


 僕はペコリと店長に頭を下げてバックヤードに下がる。

 高校生の僕を雇ってくれるだけでも、ありがたく、その上、長時間、毎日シフトに入れてくれる。

 このコンビニエンスストアにどれだけ助けてられていることか。


 僕は、店長にもう一度、頭を下げてから、休憩所兼着替え場所でもある、従業員室のドアを開けた。


「お疲れ様です」

「よう。レイ、もう上りか?」

「先輩も、今日は終わりですか?」

「俺は一旦休憩。裏でこっそり一服しようと思って」


 先輩が指でタバコの箱をはじく。

 僕が、タバコは外で吸いましょう、と諭すと、お前はいつも硬すぎるんだよ、と先輩が笑う。

 僕は仕事終わりの、この何とも言えない緩い空気感が好きだった。


「どうして、レイはボロボロになるまで必死に働くんだ? 俺が高校生の頃なんて、ずっとギターを弾いてるだけだったぞ。欲しいモノでもあんのか?」


 僕は首を横に振る。

 きっと、自分のためだけだったら、寝る間も惜しんで働く、学業とバイトの二段構えの生活なんて、到底無理だったと思う。


「姉さんがいるんです。両親がいなくなってから、大学に行くのを諦めて、ずっと家計を支えてくれて、僕を高校に入れてくれた大事な姉さんが。仕事でズタズタになって、部屋から出られなくなるまで戦ってくれた姉を、今度は僕が助けたいんです」


 僕はコンビニの制服を脱ぎながら、できるだけ深刻にならないように言った。

 だって、自分のことを自分で何とかするのは当然のことだから。

 だけれど、先輩は、そうか、そうか、と言って、未成年の僕にタバコを一本、火を点けずにくれた。


「いつか、お前と煙草を吸う日が楽しみだよ」

「いつまでバイト店員を続けるつもりですか」

「それもそうだな」


 僕らは二人で小さく笑った。

 先輩は先輩で、誰かのために働いて、コツコツお金を貯めているという。

 どこか自分と似た境遇の、一回り上の先輩に、僕は兄のような親しみを持っていた。


「レイ、せっかくだし、お前の姉ちゃんの写真を見せてくれよ。俺もお前の大切な家族の顔を拝んでおきたくて」

「美人すぎて腰を抜かしますよ」

「そりゃ、一刻も早く、見なくちゃいけねぇな」


 僕が携帯電話の待ち受け画面を見せると、案の定、茶髪の先輩はパイプ椅子から転げ落ちた。

 中学の卒業式。

 スーツ姿の姉が、群青色の髪を二つにくくって、背伸びをしている。

 僕に身長を抜かれたのが、嬉しいようで悔しいと、僕の脇腹をぐいぐいと突きながらも、満面の笑みで写真に写る姉のマイに、僕は何度も助けられてきた。


 正真正銘、僕のたった一人の家族。自慢の姉さんだった。


「俺はこんな美人と姉弟のレイが、ただただ気の毒だよ」

「血の繋がりが無いとはいえ、僕らはお互いに、かけがえのない家族です」

「お前は自制心のバケモノだよ」


 今度は顎を外した先輩は、よちよちと赤子のように部屋の外へ向かう。

 タバコを吸うついでに、少し、夜の街を歩いてくるらしい。


「あ、そうだレイ。店長が廃棄品の弁当、誰にも言わないなら、こっそり持って帰っていいってよ」

「それは大変助かります」


 先輩はタバコの箱を片手に、ニカッと笑って、ドアを閉じた。

 お弁当があるのは、食費の面でも、時間の面でも、労力の面でも、とても嬉しい。

 これで今日は、家に帰ってから、洗濯機を回して、軽く掃除をしてから、朝に出すゴミをまとめて、マイのためのご飯を三食作るだけで済む。

 僕の分の食事の手間が省けるだけで大助かりだ。


「さてと。本日もお疲れ様でした、僕」


 ロッカーのドアをそっと閉める。

 レジの横を抜けて、店長に一言声を掛けてから店を出る。


 ティロリロリロリロリン。ティロリロリロリロリン。


 夜の冷たい空気が肺に入ってくる。

 誰もが寝静まった街は、真空パックに閉じ込められているみたいで、新鮮で、僕は好きだった。


「今日は少し、長居しちゃったかな」


 冬の澄んだ空気を肩で裂きながら、家へ向かう。


 幸い、僕と姉のマイが住む家は、バイト先から近い。

 横断歩道を渡って、住宅街を抜ければ、すぐだ。


「マイ、今日は部屋から出られるかな」


 そんなことを思いながら、道路の左右を見て、車が来てないかを確認する。

 暗い深夜。信号もあまりないこの道は、タクシーの抜け道になっている。

 何度も、物凄い速度で横切る自動車に轢かれかけた。


「よし、明日も頑張ろう。もう今日だけど」


 車がいないことを確認して、道を歩く。

 もし、ライトが消えていても、さすがに近くにいれば音で気づく。

 昔から家にテレビやイヤフォンがなかったせいか、僕の耳は異様にいい。何かが近づいていれば、すぐ気が付く。


 暗闇の中、道を渡る。

 生活は決して楽ではないけれど、姉もいるし、学校にも通えている。

 バイト先の人達もみんないい人達だ。


 ああ、僕は恵まれているな。


 ――グちゃッ。


 幸せは音もなく消え去る。

 僕は横断歩道のど真ん中で、何か大きなものに、何か大きなものに、音もなく弾き飛ばされた。


 身体が、右半身が、ぐちゃぐちゃになる。

 ブツリと切れる意識の糸。

 その直前、僕は宙を舞いながらも目をあけた。

 点滅する切れかけの街灯の明かりに、ゾートロープのように浮かび上がった何かと、目が合った。

 人を突き刺すような、月のような大きな瞳と、目が合った。


「――――――――マ、マイ」


 僕の断末魔は、姉に何も返せなかった後悔と残していくことへの心配に満ちたものだった。フッと、僕の命の灯は当然、消えた。


 僕はただのモノになって、コンクリートの壁にべちゃりと叩きつけられ、そして、ただの血溜りになった。

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