第38話

「ねえねえ、マネージャー。ワタシ、びっくりしちゃった! 人間って、心臓を抜き取られた後も動けるのね。爆弾を自分の手で掴んだまま、マネの顔面を殴っちゃうのだもの」


 フフフ、と黒いメイド服の肩が、上下に揺れる。


「な、何が……」


 クラックの返り血で浮かび上がった人影が、空気に溶けて、見えなくなる。


「敵が、もう一人、いた、だと……!?」


深紅の絨毯の真ん中に、どろっとした血の池ができていた。


「……クラックが、死んだ?」


 気づけなかった。敵が二人もいることに。

 本来の僕ならば、変わり者から鳴る地響きに似た心臓の音で、存在を察知できたはずだ。


「レイさん、どうして、これって。あなたが居ながら、どうして私達は奇襲されているんですか!?」


 それが、僕のアドバンテージだったはずだ。


「聞こえない。この大聖堂に入ってから、ずっと、音が、聞こえないんだ」


 会話はできる。だけれど、それ以上が何一つ、認知できない。


「レイさんに身に、異変が起きていると?」

「僕にも、何が起こっているのか、分からないんだ」


 この部屋は、僕にとって、静かすぎる。

 まるで、繊細に描かれた水彩画が、白くぼやけていくように、聴覚がぼやける。


「ねぇ、二人とも、言い争ってる場合! レイ、とにかくクラックは生きてるの? それだけでも私に教えて!」

「分から、ない」


 この大聖堂に入ってから、変わり者のゾンビの登場から透明人間の急襲までずっと、命の音が、人間の脈動が聞こえない。

 僕の鼓膜には、凪のようにずっと、輪郭のないホワイトノイズだけが、耳鳴りのように垂れ流されていた。


「あーあ、荒れてるわよ、アナタのお仲間たち」


 メイド服姿の少女が両手に顎を載せる。

 男の背中はピクリとも動かない。


「アナタ、クラックさん……、だっけ? いるわよねー、大口を叩くだけ叩いて、結局何も遂げずに消えていく人って」


 黒い少女が見下すように瞼を細める。

 じんわりと広がる血の池は、少女の足元まで迫っていた。


「――――アナタ、なにがしたかったの?」


 誰も答えなかった。

 誰も応えられなかった。

 この薄暗い、天井すらも見えない大聖堂に足を踏み入れてから、どこかずっと、不安な空気が僕の胸を満たすように、ずっと、何かがおかしい。


「ねえねえ、マネ。あのウザい女神二柱とザコの男の子も殺っちゃおうよ」


 黒く蠢く微小生物の集合体であるゾンビを一体、地べたに這わせ、その背中に乗っかる、自称・この大屋敷のメイド長は足を愉快そうに組み直す。


「あーあ。こんなドロドロの死体、誰が片付けると思っているのかしら」


 名前も知らない、僕が変わり者と呼称するその少女が楽しそうに、後頭骨から赤白い液を流し、左腕を失い、背広に暗い穴をあけた――――元・ファティーグ・クロックだった何かを見下ろしていた。


「さ、さっさと片付けちゃいましょう」


 少女が視線を上げる。

 その先には、Ⅰとナナ。

 そして、花に変えられたままの枯れかけのマイの姿があった。

 恐怖心が僕の全身を支配しようとする。


「誰がみんなを守る! 僕だろう!」


 腹の底から声を出して、僕は不気味なステンドグラスの光を抜け出す。


「僕が守らなくちゃ、いけないんだ!」


 クラックの敗北をただただ見送った壁際からダッシュで、カーペットを強く踏む。

 黒い変わり者の少女と入り口の大きな扉の前に割って入る。


「アナタに何ができるというの?」


 その通りだと思った。

 彼女に僕の対価は通じない。

 身体が無数の微小生物でできた彼女の首を切ったところで、また何処ともなく、頭を再構築し、再生してしまう。

だけれども――。


「手駒を失って、何もできないのは君も同じだろう?」


 はったりだった。

 だけれど、僕はとにかく時間を稼ぎかった。

 絶望的なこの敵地の中枢にいるという状況から、攻略の糸口を、起死回生の一手を、探り出す。

 そのための時間が、僕には必要だった。


「ハ? たしかに、スーツ姿のくたびれ男に沢山ゾンビを燃やされちゃったけど、ワタシの従業員はここだけじゃないんですけど」


 扉の外から地響きが部屋を揺らす。

 何かが濁流となって、僕らの元へ迫って来ている。


「Ⅰ!」


 僕は咄嗟に叫ぶ。


「分かってますって、レイさん」


 Ⅰが小さな背中で入口をおさえる。

 古い金具がキチキチと小刻みに震える。


『ウウゥゥオオオオオオオオ』


 怪物たちの絶叫が、分厚い扉を突き抜ける。

 荒々しいノック音が雷雨のように、僕らを威嚇した。


「ち、厄介な女神ね」


 しかし、それだけ。

 外部から新たなハウスキーパー型ゾンビ達の進入は、Ⅰの怪力による扉のストッパーで完璧に防がれていた。


「マイさんを維持するために両手の使えない私でも、お役に立てて良かった。城っていうのは古来から、敵に門を勝手に開けられないように内開きになってますからね」


 軽い雑学すら披露してくる。


「にしても、塵ひとつ入らないとは、随分と質のいいドアをお使いのようで」


 しおれ始めた花弁を両手で抱えた少女の女神は、大きな扉の前に、へたりと腰を下ろして、小さく片手でピースをした。


「ちびっ子女神風情が、調子に乗って!」


 黒い少女の叫びとともに、赤い絨毯に足跡が走る。


「透明人間だって、自分自身を消せやしないんだ!」


 正面から迫り来る誰かの足跡を、その進路を、僕は両手を広げ、全身全霊で塞ぐ。


「アナタ、何が見えているの?」

「何っ⁉」


 地面に浮かんだ残痕が突然消える。


「違う! カーペットごと透明に! クラックの返り血が消えたのと同じように! 触れたものを見えなくしたんだ!」


 僕の目の前には、古い石畳と血溜りのクラック。

 そして、不敵に笑う黒い少女のみが映る。


「震えるといいわ! 見えない敵と戦う恐怖に! 気付いたときにはアナタの後ろ! 全てが終わった後の祭りなんだから!」


 僕は必死に頭を回す。

 脳と五感をフル動員して、この空間に潜む透明人間のか細い実像を手繰る。が。


「見えないなら嗅覚で、だめだ。虫が焦げた匂いしかしない! 耳はずっと、何か響いている音しかしない! 敵の心音も足音も、衣擦れの音すら、僕には分からない! 聞き取れないんだ!」

「アハハハ、焦ってる。慌てふためいている。良いわ! 格好悪くて、超不様!」


 まるで、暗闇の中で、見えない糸を探しているようだった。


「せめて、ナナとⅠの元に近付くべきなのか?」


 違うだろ、それじゃあ今と変わらない。

 どこから来るか分からない敵の攻撃におびえるだけだ。

 じゃあ、僕がすべきことは、見えない相手に的を絞らせること。


「つまり――」


 僕は足に力を入れる。


「前に進むことだ!」


 黒い少女の変わり者。

 ゾンビである彼女に僕の対価は効かない。

 なら、どうして自分で殲滅しようとしない。

 自分の手で僕らの命を刈り取ろうとしない。


「君だって、弱ってるんだろう。ゾンビ達を燃やされ、自分すらも焦がされて!」


 僕は前を向く。


「クラックが残してくれたものが、僕らの答えだ」


 硬い石畳を蹴る。

 見えないけれど、そこには絨毯が敷かれていて、フワッとした感触が足裏に伝わった。


「あーあ、残念ね」


 駆け出した手前。

 僕の鼻先が何かに触れる。


「――っ!」


 額が何かに打ちつけられる。


「判断が遅すぎるのよね、アナタ」


 僕の視線の先で少女が笑う。


「ま、この場合は関係ないのだけど」


 抜けた視界の中で、彼女がニヤける。


「マネはね、ずっとアナタといたのよ。アナタの目の前に」


 僕の心臓が止まる。

 息ができなかった。


「サヨウナラ、キミに会えて、ワタシは楽しかったわよ。まるで昔の自分を見ているみたいで」


 全身の血管が膨れ上がるのが分かった。


「僕はずっと、目の前の敵を必死に探していたと――」


 大気がゆらぐ。

 頬を湿った空気が触る。

 それは、きっと、透明人間が片手を振り上げたということなのだろう。


「あー、何て、ダサいのでしょう。キミという存在は」


 再び空気が動く。

 手が振り下ろされる。

 グシャリ――、というにぶい音と共に、木片がくだけ散る。


「え? ええ? え?」


 血が舞う。

 けれど、それは僕の血ではなかった。


「回復まで、アホほど時間を食っちまったな」


 大聖堂の奥に鎮座された王の椅子。

 その木製椅子が壊れていた。


「な、――」


 声がでなかった。

 そのタバコのにおいの混じった乾いた声が、彼を本物のファティーグ・クラックだと教えてくれる。


「言っただろぉ、顔、覚えたからってなぁ」


 透明人間は、復活したクラックの手によって、一瞬で、部屋の奥の、王の間まで、投げとばされた――らしかったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る