第57話

 黒い視界の中に、キラリと輝く、光が見えた。

 気が付くと、そこは見慣れた天井があった――。

 というわけでもなく、僕は大地に背をつけ、満天の星空を見上げていた


「ユ、U?」


 上げた手の平から、バラリと砂塵が散る。

 既視感の強い風景に、頭の中を激しく揺すられた。


「レイさん、あなたいっつも他の女の名前呼んでますね」

アイ⁉」


 僕が寝転ぶ砂上の少し前の場所。

 灰色の砂の海の上に、木の机と長い背もたれの椅子が浮かんでいた。


「しかも、Uって、あなた。空間の空気感が女神特有で似てるから? とりあえず、私の前で他の女の話をするの、止めましょうか?」


 そのえらく立派な木椅子の上に居たであろう、小柄な少女が、僕の目の前で頬を膨らます。


「僕はさっきまで、Uとお茶会して、別れて。それからマイの膝の上で……」

「ええ、だいたい分かります。察しが付きます」


 アイの後ろで星が流れる。

 僕はその場に立ち上がって、周囲を見渡す。

 どこまでも続く砂と常夜にたなびく無数の星々。

 僕はこの光景を、この場所を痛い程よく知っていた。


「また僕は、死んでしまったのか……?」

「あははは、そんなわけないでしょう!」

「な、何がそんなにおかしいのさ」

「だってレイさんが変なことを言うから! もうレイさんを生き返らせる程のリソースなんて、どこにも無いんだから」


 アイが腹を抱えて、口をあける。

 そんなに笑うことか?

 今のIなら豆腐の角に頭を打っても笑い出しそうだ。

 ――うん? 頭を打つ?


「ああ……。僕はマイの石頭で失神させられたのか……」

「笑うなって言う方が無理でしょ」

「うん……。はずかしいよ……」


 Iが意地悪く右頬を斜めに上げる。

 僕はその小悪魔のような微笑にさらされ、恥で頭がギョッとした。


「こうやってIと話していると、出会った頃を思い出すよ」


 Iが両手を後ろに組んで、口を横に引く。

 ニコリと笑う彼女の視線が僕を真っすぐに貫いていた。


「そっか。ここは、僕とIが最初に会った場所だ」

「やっと、思い出してくれた」


 Iが椅子の方を向く。

 僕に背を向け、幼い足が砂をへこまして、くしゃりと小さな穴をつくる。


「今、私はレイさんの意識に直接話し掛けています。いわばこれは、夢です。私達が一緒に見れる最後の夢なんですよ」


 Iが歩いて行く。

 僕よりもずっと狭い歩幅で、後ろに確かな足跡を残して、僕の元から、踵を返す。


「レイさんとの日々は、私にとっては、それこそ夢みたいで。こんな場所で、一人でずっと誰かを見送るだけの円環から、まさか私が送り出されることになるとは、本当に星回りって不思議です」


 Iが幸せに頬を染めて、遠のいていく。


「レイさん、私達が最初にした約束を覚えてますか?」

「何があっても後悔しないって……」

「ええ、私とレイさんが交した最初の契約です」


 Uとの会話でも触れられた楔のような文言。

 僕はこの、ある種呪いのような一言の真意を図り切れずにいた。


「Iが、君が、僕らが住んでいた街の、バイトの先輩や店長、僕とマイが暮らした世界の人間を消したのか――――?」

「女神にはそれぞれ、レイさんに与えた対価のような力があります。浄化の女神であるナナが、均一とは正反対の水上都市を愛したように。収集の女神たるUが、誰かに異能の譲渡に才能を発揮するように。私にだって、与えられた運命と反する願いがあるんですよ」


「Ⅰ、どうして君がここで、こんな話をするのか、僕は分からない」

「私、自愛の女神が抱いた願いは誰かの重みになること。レイさんの記憶の中で、レイさんが死ぬまでずっと、生きさせてください」


 Ⅰの姿が、大人に変わる。

 スラリと伸びた足で、一本道のように、僕の元から、距離を広げる。


「私の権限――《質量掌握願望》――は重さを自在に変えます。重さはエネルギーで、光さえ曲げて、時間さえも超えられる」

「分かりたくないんだ!」

「レイさん、今度はもう忘れないで。私があなたに言ったことを。

 私があなたにあげた――《絶対拒否権対価》――は、あなたを包む全ての不条理を祓って欲しくて。

 不都合な現実を忘れるために渡したわけじゃないんですよ」

「だめだ! アイ! 僕は君と一緒に家を出たんだ。だから、帰るときも一緒じゃないと!」


 大人になって、とIが優しく諭すように言葉を残す。


「いつでも会えますよ。この世はゲームやアニメみたいなものでしょう?」

「違うよ、これは僕らの現実なんだ。僕が、見て、聞いて、匂って、味わって、触れた僕らだけの道程なんだ」

「そうです、私達が紡いだ物語フィクションなんです。挟んだ栞のように、私を思い出して」


 満天の星空の下、流星が流れる。

 星に願いが届きそうな夜なのに、僕のたった一つの願いすら、幾多の星は叶えてくれない。


「世界はあなたの感じるままに。別れなんて、簡単なことなんです。異世界転生と同じくらい、誰もがしてきたことでしょう?」


 Ⅰの背が縮み、棒立つ僕の前方で、すんと止まる。

 僕らに続く一本の足跡が濃く、陰が暗くなっていた。


「時間が重みというのなら、今の私は、老婆に見えるんでしょう?」

「ああ。Ⅰはいつも通りに、僕の可愛い妹のままだよ」

「嬉しい」


 Ⅰがボソリと心をこぼす。

 時が折り重なった、重みが刻まれた美しい音色が眉間で爆ぜる。


「私がレイさんの世界を作ります。龍が消えた空間に、私が核となって、レイさんとマイさんが安心して暮らせる街を、元通りに、作り直しますから」


 だから、だから、と深いシワが刻まれたⅠの声が震える。


「レイさん、そんな顔で、泣かないで……」


 Ⅰに言われて初めて気が付く。

 僕は泣いているんだ。


「人が惹かれ合うように。思いもまた引かれ合う。私達は一人でも生きていけるけれど、それでも誰かを想っていたいから。八百万の全てを引き込むくらい、強い男になって」


 そしたら、もう一度、私はあなたに会える。

 Ⅰの曲がった腰がすっと伸びる。

 砂塵がふぶく。

 突然のことに驚いて、僕はまぶたを強くつむった。


「……!」

「上書きの、お別れのキスです」


 Ⅰが僕の肩を押す。

 夜空の星がすべって、光が消える。

 Ⅰと僕の唇が引き離される。


「誰も傷つかない世界なんてつまらないですよ。誰もが傷ついても、また歩き出せる。そんな優しい世界にしますから」

「I!」


 空気が歪んで、渦ができる。

 凝縮する世界から追放される。

 遠のく光に抗って、僕は必死に手を伸ばした————。




 気が付くと僕はマイの膝の上にいた。

 親の顔より見た目鼻立ちのくっきりした顔が僕を潤んだ瞳で見つめている。


「レ、レレレ、レイ!」


 感激したマイの薄い胸に視界を潰されながらも、僕の網膜には彼女が焼き付いて離れなかった。

 Ⅰの少女のような幸せそうな微笑みが、脳の奥で何度も反響する。

 雪のように積もるその大地の上で、僕は故郷の匂いを嗅ぐ。

 街には白い灰が降っていた。

 そこは、見知った風景が、僕らの街が広がっていた。

 僕はⅠを犠牲にした異世界で、義理の姉と二人、アスファルトの上で抱き合う。

 ここは、僕らしかいない、僕らが元居た場所を再現した異世界。

 僕らの異世界転生の終点だった。



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