第56話

「昼間の月が好き。夜空に浮かぶ満月は嫌い。茜に暮れる夕日が嫌いで、わたしだけしか気づいていない洗い立ての朝日が好きよ。田舎の満天の星空より、都会を照らす一番星が独り占めしているみたいで、好きだったの」


 丸テーブルに両手の平を付いて、お尻を振る彼女は、まるで母親に今日あったことを話す幼い子どものよう。

 世界の仕組みを説くときよりも、明らかに、表情豊かで、喜々としている。


「なんだかユーは、たんぽぽみたいに笑うんだね」

「なによ、それ。ほめてるつもり?」


 わたしを口説きたいならもっと気が効いたことを言いなさいよ、という彼女は全く話し足りない御様子で、それでねそれでね、と言葉をとめどなく乱立させる。

 僕は、分かったわかった、と言ってあしらいつつも、内心では華やかに口ずさむ彼女のお話にずっと耳を澄ましていたかった。


「わたしは、わたしだけのものが欲しいの! そこがアイと違うところなのよね!」

「それが君の、たった一つの望み?」

「わたしたちが子供たちに、唯一与えられるものはね、その祝福異能なの。その代わりにもらうモノ代償であって、わたしたちにとっての願いなのよ」

「それが終末の龍と変わり者たちを生み出し続けた君なりの理由、なのか?」


 嫌でも脳裏に染み付いた恐怖と悲しみの記憶。

 龍に轢き殺され、姉を花束に変えられ、現世を漂白された。逃げた異世界でさえ、平穏なく、変わり者という化け物に追われ、お世話になった師匠も、街の人々も、その世界の女神さえ殺害された過去の因縁を今、清算する。

 人が死ぬに足る理由を、彼女の弁明を、聞いてみたかったから。


「まさか、逆よ! 言ったでしょ、わたしが何を司る女神なのかを。破壊なんてしたら、思い出の中にしか残らなくなっちゃうじゃない」

「ナナは浄化で、ユーは、収集の女神、だったっけ」

「そして、アイは、自愛の女神。みんなそれぞれ、夢があって生まれてくるのだわ」

アイが、じあい……?」


 僕にとって、その言葉は予想外で、アイを語るにあたって、最もかけ離れたラベル付けのように思えた。


「わたしはあなたが欲しいの! わたしだけの、わたし以外は必要ないあなたが欲しい」


 Uの瞳にキラリと星が輝く。


「だって、わたしは一人しかいないのだもの。あなたにもわたしだけを見て欲しいの」


 Uは僕よりもずっと長く生きてきたはずの女神なのに、まるで、初めて与えられたウサギのぬいぐるみを抱きしめる赤子のように、純粋無垢な目でこちらを見て来る。


「それが、〝愛〟というものでしょう?」


 その意見に、僕は同意できない。


「僕は、そんな風には思えないよ。君たちが壊した街も、失った命も、きっと誰かの大切なものだったんだ。君が欲しがった僕の姉さんだって、僕の大切な、たった一人の家族だった――」

「え?」


 Uの急激に熱を失った声が、僕の抗弁を打ち消す。


「わたしにお説教するつもり?」


 それでも、今までの旅路が僕の喉を強い言葉で熱くさせる。


「君が欲しがった水上都市の黒いティアラも、僕の姉さんが成った乙女の薔薇も、全部だ。きっと誰かの掛け替えのない、思いと時間が積み重なった大切なものなんだ。君が欲しいからって奪っていいほど、他愛のないものじゃないはずだろう」


「わたしを縛れるのはわたししかいないのに。そんなことを言われる筋合いはないではずでしょうに」


 ――平然とした、聡い口調だった。


「どうして、君はそんなに傲慢になれるんだ」


 ――まるで、マナーを説く親のように。


「どうして、どこの誰が作ったかも分からないルールに従う必要があるのよ?」


 ――常識を教える大人達のように。


「君は、管理者だから、女神様だから、そんなことが言えるんだ。ただの弱い僕にはそんなこと……」


 ――その水が僕にはどうしても合わない。


「どうして? 生きてるだけで特権階級でしょう?」


 その一言に僕の心を鋭く抓った。


「僕はアイと異世界転生をして、初めて誰かと食べるご飯が美味しいと思えた。水上都市で暮らす人々を見て、初めて、何かを作ることを、仕えることが格好いいと思えた。ナナとクラックを見て、初めて、あんな風に生きてみたい、って思えたんだ」

「そう。辛かったのね、ずっと。うん、それはきっとわたしのせいなのよね。ごめんね、あなたを辛くさせてしまって」

「違うんだ、そうじゃなくて……」


 本当は分かっていた。

 僕が現世であのまま暮らしていたらどうなっていたか。

 マイはUとさえ出逢わなければ、本当に潰れていなかっただろうか。

 僕が終末帝に殺されなくても、温かいご飯の味を知ることができたのだろうか。


「レイちゃんは立派だわ。誰に頼られたわけでもないのに働いて。ちゃんと社会の言うこと聞いて、真っすぐに育ってきたのでしょう」


 今度はUが温かい言葉で満たしてくれる。

 この少女のような女神は、どこまでも純朴で、純真で、自分の世界に生きている。


「僕は誰かの笑顔が好きだから」

「そう、それなのよ。わたしがあなたを誘ったのは」


 Uの声が急激に熱を取り戻す。


「誰かのために生きる、あなたがいいのよ!」

「そんな姉さんみたいな顔で、アイみたいに惚れ込まれたら、僕は君を憎めなくなってしまうよ」


 わたしは、マイでも、ましてやアイでも無いわよ、と釘を刺されたけれど、それって家族みたいってことよね、っと一人で勝手に機嫌を直す彼女に僕はもう、やられっぱなしだ。

 僕は、ユーを嫌いになれない。


アイは自分が欲しいのよ。わたしは〝わたしが知らないわたし〟を見せてくれる誰かが恋しいの」

「それは、何が違うの?」


 二人とも自分を探しているってことだ。

 互いに自分が持てないから、何千年という時を過ごしても、何かで躓く。


「大違いよ」


 Uはあどけないけれど、整った、大人な顔で僕の瞳を深く覗く。


「あの子には自分がないのよ。真逆よ、わたしとは」


 僕の瞳孔に写る彼女の姿が、Uの目の中に囚われた僕の黒目の中に反射して、ニコリと笑う。

 合わせ鏡のようになった視線を通して始めて、僕は自分が好きな人を目の前にするとこんなに怠けた顔をしているんだな、と赤くなった自分のその表情を確認した。


「僕は夢を見ているみたいなんだ、ずっと。現世に生き返ってから、人が誰も居なくなって、姉さんも、生活も失って」

「かわいそうに。あなたのお姉さんと暮らしを壊したのはカレの仕業だわ。大好きなわたしを喜ばせたかったね。Iも酷よね、あなたに黙ってマイ以外の人間を消してしまうのだもの」

「え……?」

「? 世界を壊したのは終末帝カレだけど、人を亡くしてのはアイだって、言ったのだけれど……」

「な、なん、で?」

「なんで? って、分からないの――」


 鈍器で頭蓋のハチを殴られたような衝撃に脳の奥から血圧が下がっていく。


「――自分のためよ」


 Uの言葉は無感情で、無情で、それでいて味気ない。

 その無味乾燥した彼女の口調に、僕の口唇が青く染められる。


「Iが、僕らの義妹が、自分のエゴだけで、世界中の人々を消すわけがないだろう! そうだ! 僕のせいなんだ。僕なんかが力を望んだから仕方なく……」

「あー、ほんとうに分かってないんだから」


 僕の記憶の中で、ずっと底に沈めておきたかった何かが、Uの語りで泡を吐いて浮かび始める。


「誰かが誰かにつくすのは、自分のためでしょう。自分がないから、誰かに認めてもらわないと、自分で立つこともできなくなるのよ」


 僕がアイと初めて出逢った場所。

 星降る天界で交わした言葉が、記憶の鍵をこじあけた。


「〝何があっても後悔しない〟って。Iが最後にそう言ったんだ」


 失楽のような、戸惑いのような、生き返ったときに見た誰もいない灰色の街を思い出しながら、重責で肺が潰れる。


「あなたは、どうなの?」

「え?」


 取り返しのつかないことをしてしまった寒さに両肩を抱え込む僕に、優しい声が掛けられる。


「レイの好きなことって、何?」


 Uの丸い瞳が不安そうに僕を眺めていた。

 温かい彼女の視線に、少しだけ自分の温度を取り戻す。


「僕は、ただ家族が幸せで、誰も傷付かなくて、ただ平穏であれば、それで良かったんだ」

「自分を犠牲にしてでも?」

「誰かの心に残れば、それでずっと生きていけるから。……いや、これは本心じゃないな」


 Uがニコリと笑う。

 静閑と机に頬杖し、太陽のように、何も言わず見守ってくれていた。

 そのお陰で、僕の真意をうまく整頓できたのだと思う。


「きっと、僕は別れたくないんだ。誰とも。心の奥底が、ギュッと寂しくなるから」


 実の両親に置いて行かれたときに感じた不安。

 死んだときに感じた、マイへの渇望。

 恩返しだの、心配だのと言って現世へ固執したのもきっとそうだ。

 僕はマイと、家族と別れたくない。

 Ⅰと出逢って、話して、吹き飛ばされて、抱きしめたときもそうだ。

 きっと、寂しくなりたくなかった。

 ただ、それだけなんだ。


「答えはでたんじゃない」

「ああ、僕をマイとⅠの元へ戻してくれ」


 小鳥が囀る。

 最初はむせて、濃いと思っていた薔薇の香りも、いつの間にか慣れて、紅茶と茶菓子、小麦と砂糖のいい香りを楽しめるようになっていた。


「あーあ、しょうがないか。しょうがないわね」


 追うのは専門外なのだものと、Uが笑う。


「ごめん、Uの願いを叶えられなくて」


 きっと今まで、たくさんの人に追われ、焦がれてきたのだろう。


「いいのよ、そんなの」


 意外と、サッパリしているんだなと、短く切れた彼女の語尾に、僕はほんの少し淋しく思った。

 後腐れなく、彼女と別れられそうだった。

 けれど、僕は愚か者なんだ。

 全て欲しい、傲慢な人間なんだ。


「そうだ、U。僕は君とも別れたくないんだ」

「え⁉」


 Uのパチリとした目が丸くなる。


「僕と一緒に行こう。皆の元へ」


 繋いだ手を離したくなかった。

 紡いだ思いを、無為にほどきたく無かった。

 だって僕らは、出会って、話して、互いを知ってしまったのだから。

 心を交わしてしまったのだから。


「はぁ?? なんて、都合の良い人なの。まるで、物を知らない赤子のよう。わたしは、あなたたちの言うところの黒幕で、ラスボスちゃんなのよ!?」

「僕が生きていて、君が居るなら。そにに、姉さんだって、Iだって、Uがいた方が喜ぶだろう! 何より僕が嬉しいんだ、君と出逢えて」

「はー、本当にあきれた」


 そう言って、Uが白い机に手を突く。

 大きく、身を僕の元へ乗り出す。

 暗くなる視界の中で、僕は鳥の歌を聞く。

 僕の額にそっと、くちびるを重ねた。


「嬉しいお誘いだけれど、ごめんなさい。わたしは一緒に行けない。だって、他人の幸せを見ていると、わたし、イライラしちゃうのだもの」


 Uが僕の肩を手で押して、離れていく。


「わたしはいつだって、わたしだけを思ってくれる誰かだけのものでありたいから」


 鳥々の歌が止む。

 空気が軋んで、景色が白に溶けていく。


「U、君はこれからどこへ⁉」


 冷えて乾いた空気が、光とともに無感情に満ちていく。


「どこへだって行けるわ。わたしがわたしである限り。自由よ、わたしは」


 あんなに香った薔薇も、机に置かれていたティーと、茶菓子の匂いも、まるで何も無かったように、感じれなくなっていた。


「最後にわたしの本当の名前を教えてあげる。カレだけが知っていた秘密をあげる。それを再会の合図にしましょう。もう、わたしとレイしか知らない特別なものなのだから」


 彼女の言葉だけが耳元ではじける。

 そして、全部ぜんぶ、何もかもが薄れて、消えてしまう。


「そんなどこにでもあるような平凡な名前、早く会わなきゃ忘れちゃうだろう」


 気がつくと、僕は何もない空間で一人、椅子の上に座っていた。

 それでも――。


「U、いつか、きっと、どこかで、君を見つける。僕らは分かり合えるはずだから」

「本当にあきらめの悪いガキだこと」

「U!」


 呆れ顔で腕を組んだUが、僕の目の前に姿を現す。


「そろそろ、ほんとうにお別れ。あなたがわたしに恋焦がれるみたいに、きっとIも、あなたとの別れを待っているはずだから」


 次の瞬間には、彼女は遠のき、僕に背を向ける。

 粒のように小さくなった彼女に手を伸ばそうとしても、ビデオデッキが一時停止したように、座った椅子の上から身動き一つ、とることができなかった。


「U! 僕は君を!」


 僕はUを、名前すら今は言えない彼女―《■■■》―を拒絶する。

 ・・・・・・そんなことは当然できず、僕はただ、消える少女を見送る。


「じゃあね。せいぜい幸せで」


 軽蔑にも似たUの言葉で、僕の旅路は終息する。

 目の前が真っ白になって、何も聞こえなくて。

 なぜだか全てを忘れてしまそうで。

 僕は怖くて眼を閉じた。




「レイ、レイ! 起きなさい!」


 気が付くと僕は、マイの膝の上に寝そべっていた。


「マイ!」


 僕は見慣れた姉の顔にほっとして、勢いよく身を起こす。

「もう、レイとUがいきなり消えたと思ったら、Ⅰちゃんが。色々大変だったんだからって。痛っ!」


 僕のおでことマイのおでこが衝突する。


「あ゛ぁ˝――」

「イッタいわねー」


 勢いあまって忘れていたけれど、そうだった。

 星が回って、意識が薄れる。

 朦朧とした視線の中、僕は古への姉弟の記憶が蘇える。


「マイは、鉄が曲がるほどの石頭……」

「なにが、このくそ! レイのばか!」

「――ッ!? なんでッ!?」


 マイの小さな拳が顎をかすめる。


「゛ウッ――!!」

「レイ? レイ?」


 強烈な右ストレート。

 それが決め手だった。

 僕は心配そうな姉の声を子守歌に、意識の底へ泥のように沈む。


「ア、アイ……?」


 倒れる上半身と、消える視野の中で、僕の瞳に最後に写ったのは、いつものⅠと同じぐらいの背丈をした、白い老婆の姿だった。

 どさっ。

 視界が黒に切り替わる。


「レイ? レイ? レイ⁉」


 マイの大腿骨を背骨が打って、軽いショックで身が跳ねる。


「レイ――――!?」


 そして、僕の意識は、そこで途切れた。

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