第9話


 赤い獣が立っていた。僕の二倍はある体格の二本角のバケモノ。


「グオオオオオオオオ」


 雄叫びで、全身がしびれる。

 周囲の木が揺れる。


「やばい」


 本能が目の前の異形を恐れている。両足の震えが止まらない。


「いいか、お前はここで俺にペッチャンコにされて、グチャグチャになって、ダルダルになる。それこそ、トマトのホール缶みたいにだ」

「お、おまえは何者なんだ。さっきまで、僕が話してた人はどうしたんだよ」

「おいおいおいおい。トマトが許可なく喋るんじゃねぇよ!」


 獣の大きく、猛々しい手が、天に挙げられる。

 僕はとっさに左腕で顔を隠す。


「うっ」


 鈍い音とともに、僕の全身は宙に浮いた。


「人の話が聞けねぇなら、それはもう、暴力で訴え掛けるしか無くなっちまうよなぁああ」


 地面に投げ出された僕の頭から、赤い血が垂れる。


「早く、立ち上がらないと」

「トマトのくせに、勝手に動くんじゃねぇえ」


 獣が飛び上がり、大地を割る。

 僅差で身をかわすも、風圧によって、身体が飛ばされてしまう。


「ぐっ」


 大木に背を強く打った。頭蓋からの出血で、前が赤くなる。

 視界がどろりと暗くなる。

 僕は木を背に、もたれ掛かり、力無く、腰を付いた。


「ずいぶんと、こっぴどく、やられてあげるのですね」

「……Ⅰ?」


 僕の後ろ、森の奥から白い三角巾さんかくきんを付けた、エプロン姿の女神が現れる。


「とんでもない大型動物の叫び声。直後に起こる、激しい衝撃音。何事かと思えば、やっぱり、あなたでしたか」

「人がいたんだ。こっちに来て、初めて、姉さんを元に戻す手がかりで。でも、気が付いたら、いなくなって。代わりにバケモノが」


「ミノタウロス、ですかね。恐らくは、の一種かと」

「僕のことは、いいんだ。アイはそいつを追いかけて……」

「いえ、そんな人はいませんよ。私の女神センサにも何の反応もありませんし」

「そんなわけ、スーツを着た男の人が」

「ああ、なるほど。それを人と呼ぶなら、ほら。あそこに」


 アイが指さしたのは、先刻、僕を吹き飛ばした張本人。

 屈強な、赤いミノタウロスだった。


「アイツはバケモノだろ」

「はい。人の皮を被っただの化け物――――です」


 赤い怪物が僕とアイに向かって直進してくる。

 二本の狂気な角が僕らを睨む。


「私は不思議で仕方ありませんね。どうしてレイさんはボロボロなんですか」

「それは、僕が弱いから」

「いいえ、与えたでしょう。あの時」

「あのとき――?」

「やれやれですよ。本当に、やれやれです。仕方ないですね。これも、対価の代償なのでしょうか」


 アイは僕の元へ腰を下ろす。


「全てあなたが望んだことなのに」


 赤い頭が、今にも僕とアイを押し潰そうと走ってくる。


アイ、逃げ……」

「いいですか、こうやって使うんです」

「なにを……?」

「私が手の方を動かしてあげますから。レイさんは、こう唱えてください」


 巨大なバケモノは僕らの目と鼻の先に、迫っていた。



「さぁ、ほら」



 アイが僕の右手を横に振る。

 僕は何が何か分らず、ただ、アイが耳元で言った言葉を、復唱した。



「——僕はお前を《拒絶》する」



 次の瞬間、僕はなぜか、真っ赤に染まっていた。

 ミノタウロスの下半身だけが、僕らの目の前で、パタリと倒れた。


「もう、臭い!」


 血に塗られた女神の悲鳴は、一風変わったものだった。

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