第30話
「あら、遅かったわね」
僕が外へ出たとき、姉は庭先で仰向けになって、空を見上げていた。
「星がとっても綺麗よ」
マイがぽんぽんと地面を叩く。
「二階に服を取りに行ってんだ。あと、
「あら、そう。紳士ね」
僕も夜空を眺める姉に誘われて、マイの右隣に寝そべった。
「こんなにたくさんの銀の粒つぶ。きっと星の数だけ世界があるのでしょうね」
「全く、姉さんはロマンチストだなぁ」
「こら、ちゃかさないの」
満天の星空を夜の風がすべっていく。
草木が重なる囁きが聞こえる。
「静かね。まるでこの世界に私たち二人だけみたい」
「いい雰囲気にしようとしても、キスはしないから」
「もー、本気で言ってるんだけど」
虫も寝静まった深い夜。
森に僕らの二人の声だけが響いていた。
「ほら、私たちの住んでいた所って古い住宅街だったじゃない。こんなに澄んだ空気でも、閑静な場所でもなかったでしょう」
「道は大型のトラックばっかりで、明るい内は、若い人は皆な働きに出てて、昼間はみんな家を出て、公園なんて、おじいちゃんおばあちゃんたちのゲートボール大会で貸し切りだったっけ」
「いま考えると、さびれた街ね。それでも私達二人にとっては故郷そのものだけど」
ほんの少し前のことなのに不思議と、遠い昔のことのようにも思えた。
マイが部屋から出られなくなったことも、深夜から早朝までのコンビニバイトも、ゴミだらけの部屋だって、もう、この異世界にはない。
「私達、随分遠くに来たのね」
「あ、うん」
マイは顔を右に傾け、僕の横顔を覗く。
すっと、僕のスウェットの、空っぽになった袖を握る。
「レイ。腕、どうするつもり?」
「どうするって言われても。義手でも付けるのか、このままか」
「ふーん、そう。知らないのね。それとも、忘れちゃってるのかしら」
その反応は、まるで、いつかのⅠの囁き。
ミノタウロスと対峙したときの、女神の反応に似ていた。
マイが僕の左肩を撫でる。
「あなたは、その身に宿した対価の使い方も、知らずにいるのね」
あんなにも多くのものを支払ったのに。
「姉さんは一体、何を言っているのさ。ずっと花になった、意識がなかったはずなのに。何を知っているの?」
「いまはあなたの腕の話をしていたのでしょう」
「そうだけどさ。姉さん、ずっと眠っていたはずなのに、話が通り過ぎるよ」
目覚めたマイと出会ったときから、ずっと気掛かりだった。
知らない家、知らない場所で急に意識が戻っても、マイは嫌に冷静だった。
異世界転生のことを知っているようだった。
「レイ、いまは自分のことに集中しなさい」
マイが身体を回し、僕の上に重なる。
長い群青色の髪が、カーテンのように、僕とマイの顔を包む。
「いまから私があなたの体の使い方を教えてあげる」
目線と目線が間近でぶつかる。
熱い視線が僕の脳を焦がしていく。
「姉さん、ずるいよ」
姉の丸い瞳に奪われた、僕の心は、もう何も言い返せなくなった。
「こら、目をそらすな」
「いやだ、照れくさい。それに姉さんの匂い、いい香りすぎて頭がおかしくなる」
「もう、思春期なんだから。お姉ちゃんの言うことは?」
「絶対、です」
僕は再び横にそらした顔を元に戻し、僕の上で四つん這いになった姉の目を覗いた。
薄く緑がかったマイの瞳の中に、赤くなった僕が囚われている。
「じゃあ、目を閉じなさい」
「なんだよ、視線を逸らすなって言ったくせに、姉さんはいつだって、亭主関白なんだから」
「表現は古いし、早くしなさいな。こっちは時間が惜しいのよ」
「もう、分かったよ」
僕は目をつぶる。
瞼の裏の暗い世界。
何もかもが寝静まった夜の世界では、虫の声も水上都市の喧騒も聞えて来ない。
マイの息と僕ら二人の鼓動だけが耳の中でこだましている。
「深く息を吸って。今のあなたを思い浮かべるの」
鼻で呼吸をする。
自然の草木の中に、金平糖の匂いのような、甘い香りがした。
「いままでの不幸だった記憶。つらかったこと、悲しかったこと、不甲斐なかったことを思い起こすの」
マイの手の平が僕の両耳を塞ぐ。
「己の情けなさで、いまの自分を満たしなさい」
ぴたりとおでこが重なり合う。
額を伝って、マイの静かな声が、脳内で鈴の音のように、反響する。
「後悔の念で心を折って、自責の念で思いを潰して。恥の意識で魂をすり減らすの」
僕は思い返す。
深夜のバイト返り、何もできずに命を失ったこと。
恥を捨てて、生き返った現世で、マイを失ったこと。
何も分からず血だらけになった初めての戦い。
何もできずに片腕を失った先の戦闘を。
いつも、誰かに、手を差しのべられて、助けられ生きて来た自分の姿を、生き恥を思い出していた。
「消えて無くなりたい」
誰かを守りたいと、大見得を切り、ピンチに陥れば、誰かに助けてもらう。
ただ、成り行きにまかせて運良く生きて来られただけ。
「僕なんて、ただの大ホラ吹き。噓つきの無能だ」
自尊心が粉になって砕け散っていた。
自己評価が地に落ちていた。
「可哀そうに。レイ、いいのよ。あなたはそのままで。私の言う通りにして。今から言うことを、繰り返すだけで良いの」
私は不思議でしょうがなかったわ、とマイが言う。
僕はもう、彼女が何者なのか、何を言っているかが分からずにいた。
「どうして、他者を拒絶できて、自分を否定しようとしないの」
僕は、マイに言われた言葉を、意識もはっきりしないままに、ただただ反すうした。
「僕は『僕を』――《拒絶する》」
自分の中で何かが崩れる音がした。
自分が自分じゃなくなる予感がした。
「その気持ちを忘れないで、だってさ」
心がすっと軽くなる。
僕が瞼を開いたとき、彼女の瞳は菫色に染まっていた。
「ほら、簡単なことでしょう。今の自分に満足していないなら――――」
東の空が真っ赤に燃えていた。
燃えるように赤いツインテールが月の影に弧を描く。
「――今の自分を殺せばいいのよ」
地面に背を付けた僕の上に乗る少女はもはや、マイではなかった。
マイによく似た、全くの他人。
「返すわよ、あなたの記憶。血染めの思いなんて、私のコレクションにはそぐわないもの」
姿形は一緒でも、目の奥に宿す何かが、変わってしまっていた。
音の無い風が、僕らの間を区切る。
大地が割れる匂いがした。
「帰ろう。花なんて、いつでも取れるだろう」
森の奥から、突如として、男の声が響く。
「ティアラはとってきてくれた?」
「ああ。水上都市の一番目立つ建物に置いてあったよ。外側から潰して回ったから、少し時間がかかったが」
「素敵! ずっとわたし、黒いティアラをかぶってみたかったの!」
赤い髪の彼女が、燃えた空に走り出す。
森の奥に誰かが立っている。
「レイ、いつか、お前の美人な姉ちゃんも、貰いに行くからな」
炎の逆光で影になって姿が分からない。
けれど、その男の声は聞き馴染みのあるものだった。
「さようなら、弟くん。お姉ちゃんごっこ、意外と楽しかったわよ」
彼女が駆けて行く。
僕の姉だった何かが、再び僕の元から離れていく。
仰向けの僕は身を起こせず、必死に手を伸ばして、叫んでいた。
「君は、一体誰なんだ! マイは、どうなったんだよ!」
赤い、殲滅の光の中に黒い穴が開く。
彼女は、その円の淵に、男に手を引かれ、足を掛ける。
「大丈夫よ、レイ。心配しないで。いつか、また会えるから」
その声は、口調は、すでにマイのものではなかった。
闇に吸い込まれながら、彼女が言葉を記す。
「わたしの名前は、
ゆっくりと姿が円の中へ消えていく。
「マイに言っておいて。あなたの対価を取り立てに来たって」
「人を殺しておいて、自分だけ、家族ごっこはないでしょって」
円は、
残ったのは僕の片手だけ。
空を掴んだまま、離さない、元通りになった僕の左手だけが、視界の中で止まっていた。
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