第5話


「私たちがしなければならないことは三つあります」


 縮む世界に追われながら、アイが僕へ、優しく語り掛ける。

 僕は、猛烈に過ぎ去る景色を、女神の腕の中で見送る。


 雪が降っていた。


 世界がバラバラに砕けていく亡骸なきがらが、スノードームのように、しんしんと僕らの元へ降りしきる。

 破れた空間の奥には何もなく、宇宙とはまた違う深淵が僕らを覗く。

 白でも黒でもない、何もかもが無くなったその空間がグイグイと僕らに迫ってくる。


 この世界の余命は、もう、幾ばくも無い。


「あのー、私の話、ちゃんと聞いてます?」

「すみません、見惚れていました」

「え? 私に?」

「灰が降る景色に」

「あぁ、まぁ。そうですか」


 僕は、倒壊していく建物の間を、F1カーよろしく、影を縫うように走り抜ける天界の女神様、アイに甲斐甲斐しくも、割れ物を扱うかのような丁重な扱いで、両手で抱きかかえられていた。

つまるところ、 ありていに言うところの、お姫様抱っこ、を、女神様にしていただいていた。


 彼女の腕は僕よりずっと細いのに、軽々と僕を担いで、真っ白の世界を走っていく。

 僕は、文字通りのお荷物になって、自分よりも一回りも小柄な少女の腕の中で揺られていた。

 底が抜ける程の無力感で、自分で自分が嫌になるほど、あまりにも、情けなかった。


「故郷が壊れて消えようとしているのに、見入ってしまうなんて。随分と不謹慎なんですね」

「女神様、申し訳ありません」

「いえ、いいのですが。あの、その変に仰々しい話し方、やめてもらっても構いませんか。それに、名前」

アイ

「はい、レイさん。私のことは、遥か彼方から現れた年上の妹とでも思っていただければ」

「そんな無茶苦茶な」

「少しずつでいいですから」


 ビルが倒れる。その窓たちと地面の細い隙間をアイは悠々と駆け抜けていく。


「じゃあ、ため口で」

「ですです」


 倒れた建物の風に吹かれて、僕らは大きく跳躍した。


アイ、僕らはこれからどうするの」

「とりあえずこの世界から脱出します。そのためにも、まずはマイさんと合流しないと」


 だいぶ急いでます。 と言うアイの口ぶりからも分かる通り、僕らに残された時間はあと僅からしい。


「じゃあ、また大掛かりな儀式が必要ってこと?」

「いいえ。世界を移動するだけなら、それほど。入力を切り替えるだけですから」

「僕が生き返るときは、でっかい扉とか出てきたけど」

「あー、そりゃあ、生きている世界が違うのだから、ゲートの一つや二つ、必要にはなりますよ。ちなみにレイさんを生き返らせるために必要だった門の数は、六つです。これでも輪を外れないように結構頭使ったんですからね」

「ご苦労ばかりおかけいたします」

「いえいえ、女神ですので」


 彼女は涼しげ宙を駆け、スタっと地面に着地した。

 軽く息を吸ってから、また走り出す。


「この世界はもう元には戻らない?」

「うーん。そういう訳でも無いのですが、何と言いますか。一旦、電源を落としてから再起動して、プログラムが立ち上がるのを待つ、みたいな?」

「よかった。いつかは全部治るんだ」

「まー、多分、レイさんが思っているのとは少し違いますが」

「?」

「この世界はいま、重大なバグ、何らかの要因により破綻した状態にあります。そして、そこから抜け出すために、世界自体が自己の判断で回復を試みている。グレートリセットが行われている」


 崩れゆく街はバグのせい、縮む世界は電源を落としている過程なのだと言う。


「だから、終焉の原因が分からない限り、もう一度やり直したとしても、再び壊れるかもしれませんし。なんなら、世界の記録がどこまで残っているのかも、正直私には分かりかねます」

「最悪の場合、原始時代からやり直すってコト?」

「いいえ。ビックバーンのちょっと前から、宇宙誕生前夜からって感じですかね」


 アイの言葉に熱はなく、淡々と商品の仕様説明を行うような、少しの面倒くささが見受けられる。

 一方、僕は、女神とは対照的に、事の重大さに唇が硬くなる。

 顔面が蒼白になる。


「もしかしたら、僕が異世界転生を拒否なんてしたから」

「それはあくまでも、考えられる要因の一つでしかないので」

「………………」

「きっと、悪の大王とか何かの秘密結社が全部ぜんぶ悪いんですよ」

「………思い当たる節があるの?」

「いや………、知らんけど………」

「その関西弁やめろ!」


 僕が自責の念で押し潰されそうになっているのも知らずに、アイは家路をついに走り切り、僕らの家へと帰還した。

 身体に着いた白い亡骸をパンパンと手で払い除ける。


「分からないことにクヨクヨ悩んでも仕方ないですよ、レイさん。まずは、目の前のことを一つずつ解決していましょう。ね?」

「現世からの脱出」

「ええ、私たちの異世界転生、もとい異世界転移を」


 僕は玄関先でアイの腕から下ろしてもらう。

 もう東の空から上がる太陽も、西に沈む夕日も遥か彼方。

 そこには何もない。

 何もない何かが、僕らの家に迫っていた。


「さぁ、マイさんの元へ」


 僕は段差を登り、姉の部屋へ急ぐ。

 あらゆる後悔も絶望も、思い出の匂いすらも、すべてを世界に置き去りにして。

 マイの待つ扉をあける。


「え、でも、異世界転移ってどうすれば」


 白い光に照らされる僕の姉は、依然、無機質だ。

 呼吸の音も、心音も、優しい声も何かも、今は聞くことが出来ない。

 ただの、綺麗な、泣きたくなる程に美しい、立派な薔薇が、心の臓から咲いている。


「それは私に任せて下さい。それより、もういいんですか? 最後に言い残すこととか」

「ない。だって僕らは必ず戻ってくるから。世界が一からやり直そうとも、僕は絶対、元気になったマイと一緒に、僕らの故郷に帰ってくる。それに――」

「それに?」

「独りだったら、きっと挫けてた。でも僕とマイには妹みたいに小さくて、可愛い女神様が付いてる。新しい家族のアイがね」

「寂しいくせに一丁前なことを言いますね」

「嬉しいくせに素直じゃないね」

「これはこれは、一本取られました。しかし、いくら私でも、貴方たち姉弟を前に無邪気にはしゃげないのですよ」


 Iアイは無理しなくていいですよ、と穏やかな声音で言う。

 僕は俯く。目を閉じれば、すぐに思い出の幕が上がった。


 ああ、本当は死ぬほど寂しい。

 バイトの店長も、学校の友人も、僕が何年もかけて積み重ねたあらゆるものが、土地に染み込んだ何もかもが、無かったことになるようで。漂白されてしまうようで。


 心の底から、底抜けに、寂しい。

 だけれど、前を向くしかないのだ。

 死んで、生き返って、姉を花に変えられて、世界を葬り去られても。

 前を向いて、次に踏み出すしか、悲しみを覆す方法を僕は知らない。


「行こう。Iアイ


 では、と言って、彼女は両手を広げ、腕をあげる。


「さようなら、私の子供たち」


 パン。アイが手を叩く。

 光が消えた。

 部屋が急に暗くなる。


「え」


 それどころか、部屋が変わっている。

 マイのために用意されたと思わしきこの寝室だけで、前のリビングより広い。

 幾重にも積まれた丸太でできた壁に、ぽっかり窓があいていた。


「言ったじゃないですか。異世界転移なんて大したことないって」


 外の空気を虫々が震わせる。

 空には銀の粒がたなびいて、深い緑を露わにする。


「ようこそ、異世界へ――」


 星明かりが優しく、ベッドの上の花を、つるりとなでる。


「――森とビルとプルラント・湖の世界スタージュンへ――」


 不思議と、影に潜む少女の姿が、はっきりと僕には見えた。


「――私たちの最初の異世界へ」


 ついでに、家も大きくしちゃいました。

 アイがぺろりと舌を出す。

 初めて吸った異世界の空気は、姉さんの花と清らかな何かが混じった匂い。


 そして、むせるような木材の香りがした。


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