第4話


「帰って来れたんだ」

 

 暗いリビングの中、天井に貼った格闘家のポスターの妙に白い歯が視界にうつる。

 いつもの家の、何とも言えない匂いがした。


「あ、ちゃんと目が開きましたね」


 ソファーに寝転ぶ僕の目と鼻の先に少女の顔が現れる。


「女神様がどうして僕の家に?」

「付いてきちゃいました!」


 びっくりした? びっくりした? としきりに聞いてくる女神は、なぜだかメイド服を着ている。


「ハウスキーパーという設定です!」


 急展開!

 僕は女神の行動力とその勢いの激しさに言葉を失う。


「というか、天界でのお仕事は大丈夫なんですか?」

「ああ、どうでしょう。うーん。なんとか?」

「職務放棄になるんじゃ」

「いいんです。いいんです、細かいことは。それに私にあなたが言ってくれたじゃないですか、一人にしないって」

「言いましたけど。確かに僕は言いましたけど。それで、生き返ったばかりの人の家に押しかけますか」

「はい、女神なので!」

「いや、そういう問題では」

「女神なので!」

「ええっ、と、正直、突然すぎるっていうか」

「女神、な・の・で!」

「これは、姉さんと要相談だな……」


 頭を抱える僕を置いて、ハイカラなスカートに身を包んだ女神は、嬉しそうにくるくる回っている。よそんち で。


 僕はとりあえずソファーから体を起こし、自分の部屋を見渡した。

 リビングには、小さな食卓と棚。そして、壁には僕が中学校卒業のときに撮った、スーツ姿の姉とのツーショットが、大切に掛けられている。


 間違いなく、僕らの家だ。


「姉さん」


 ほっと一息ついたら無性に姉の、令条マイの顔が見たくなった。


「女神様、少しだけ待ってもらっていいでしょうか」

「では、早速女神が、この狭くて古い、モノが散乱した1LKをピカピカにしてしんぜましょう」

「お願いだからソファーで座ってて」


 確かに二人暮らしにしては手狭だけど。散らかりまくりだけども。

 現世に来てばかりの、はしゃぎっぱなしの女神に家の掃除をお願いするには、いささか不安が過ぎていた。


 何より今は姉の顔を見たい。マイの顔を見て、帰ってきたことを実感したかった。

 せっかく無理を言って、異世界転生を拒否して、現世に戻ってきたのだから。


 寝床のソファーを下りて、汚れたキッチンを横に、姉さんの部屋へ向かう。


「入るよ、マイ」


 僕はノックと共に、ドアの向こうの姉さんに声をかけた。


「マイ、寝てるの?」


 振り返って、時計を見る。

 カーテンを閉め切った暗いリビングの中で、丸い掛け時計が深夜3時半をぼんやり知らせる。


「起こしちゃ悪いかな」


 そう言いつつも、こっそり部屋のドアを開ける。

 疲れたときは、いつもそうしている。学校やバイトでクタクタになっても、姉さんの顔を見れば、嘘みたいに元気になれる。

 これだから、家族というものは、不思議で、かけがえのない存在なのだ。

 扉を開けると、ベッドの上の窓から白い光が差し込んでいた。

 部屋の中が白く照らされている。


「姉さん?」


 何かがおかしい。寝息が聞こえない。

 僕は姉さんのベッドへ足をはやめる。


「マイ!」


 僕は目をむく。ベッドの上に、姉がいない。

 正確には、姉の姿をかたどった、何かが咲いていた。


「な、何が起こってる」


 ベッドに蔓があふれ、人間の形に沿って花が咲いている。


「どうして、マイが花になってるんだ」


 ピクリとも動かない姉を、冷たい光が照らす。

 僕は、訳が分からなくなって、窓の外を見る。


「なんだ……これ……」


 町が崩れていた。

 家が、ビルが、建物が、ボロボロと白く崩れていく。空へ散っていっている。


「何で、世界が消えていくんだ」

 まるで、地球が丸い入浴剤になって、お風呂の中に急に入れられたように、何もかもが、シュワシュワと跡形もなく消えていっている。


「どうして」


 僕は、花に変わった姉を残して、外に出た。玄関をくぐって、消えていく街の中を走り抜けた。

 そして、間もなくして、力尽き、地面にしゃがみ込むのだった。


「何が起こっても後悔しないって、言いましたよね」


 気が付くと、赤い傘を片手にさした少女が立っていた。


「姉さんが、世界が」

「ええ知っています。分かってます」


 女神は僕の前に小さくしゃがみ込み、灰が降る世界で僕に傘を差しだすのだった。


「落ち着きましたか?」


 優しく女神さまに、話し掛ける。


「女神様、僕は――」

「ええ、どうしてこうなってしまったのでしょうね。私にも何が起こっているのか。なにせ人を現世に戻したのは、私もあなたが初めてなので」


 僕は女神を見る。すると、そんな顔で見つめないで、と、涙を袖でふかれた。


「あなたはただ、お姉さんと一緒に居たかっただけでしょう」

「でも、姉さんは、花に」

「花? それはおかしい」

「ええ、昨日までは、ちゃんといたのに」

「いいえ、そういうわけではなくて。この世界には、私とあなたしか居ないはずでしょう。みんなみんな人間は、私たちの周りの建物みたいに、どこかは溶けて、消えてしまったはずですよ」

「じゃあ――」


「あなたの姉さん、マイさんは助かるかも、って、わっ!」


 僕は女神様に勢いよく抱きついた。


「ありがとう、女神様。本当に」

「もう、びっくりしたじゃないですか」


 傘がぼてっと、地面に落ちる。

 少女が僕の頭をなでる。


「それに、私は女神様じゃないでしょう。名前をちゃんと読んでください」


 僕は少女に問う。


「何と呼んだら」

「そうですね。あなたがレイで、お姉さんがマイさんでしょう。どうしましょうかね」


 少し悩んだ後、灰降る二人だけの世界で、少女はいたずらっぽく笑うのだった。


「私はアイと呼んでください。レイさん」


 これが、僕とアイと、そしてマイの旅の始まり。異世界転生を拒否した僕の、僕らの異世界転移への幕あけだった。

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