第54話

 本名も、素顔も、肉声も、何も残さずに果てた終末帝。

 彼の結末を、僕はマイに抱かれて見送った。


「愚かです。本当に、どうしようもない」


 大人になったアイがカーペット上を見取る。

 そこには彼が返っていたであろう、いまは何もない赤が広がっている。


「そうね、全くもって、同感するわ」


 もう一人のその女神の、灰蘇芳のおさげ頭が、古い時計の振り子のように朴訥に振れていた。


「悲惨よね、死んだら骨も残らないなんだから」


 カーディナルレッドに染まったユーが、何もないその上を、愛しそうに、そっと一撫でした。


「あいつは、死んだのか。僕が知らないところで、何も残さずに」


 金糸の刺繍に挟まれた精緻なレッドカーペットには、何もなく、ほんの少しの焦げ跡だけが残されている。

 それだけが終末帝と呼ばれた、顔も知らない誰かの、僕らの宿敵が確かに存在したことを示していた。

 結局、僕は戦っていた相手が何者だったかを知らぬままに、死期を見届けることなく、異世界を三つも股にかけた因縁に幕を下ろしてしまった。


「ほんとうに、ばか。わたしを置いていくなんて。ほんとうに愚かなのだから」


 それが良いことだったのか、悪いことだったのかは、今の僕には判断できない。


「逢いたいときに逢えないなんて。ほんとうに、あほ」


 けれど、いつか分かり合えたら、彼が抱いた思いを含め、どこかに笑って出掛ける未来もあったのではないかと思う。


「きっと夢枕に立たれても憎まれ口ばかり叩いてしまうのよ、わたしは――。

 ――――この愚か者め」


 そんなフワフワとした、綿あめのような夢に胸を曇らせる僕もまた愚者なのだろう。

 選ばなかった選択肢は、存在しないのと同義なのだから。


「U、あなたはこれから、どうするんですか?」


 Ⅰの、いつもより低い、どこ寂しそうな声が問う。

 Uは少女のような肩に、成人の如く完成された目鼻を載せて、ぼーっと眉目好く、天を仰いでいた。


「カレが死んでしまったのだから、ここに留まる意味もないか」


 ぼそりと零れた少女の言葉。

 バリッ、と亀裂が入る音がした。


「あーあ、はじまった」


 Uの視線の先で、突然景色が剥がれた。

 暗闇の天蓋がぼろりと崩れる。

 夜空が空間を覆う。

 けれども、それも長続きしない。

 次の瞬間には壊れたモニターのように、天が真っ白に点滅した。


「マイ、あなたが後先考えずにカレを殺したからよ。ここは彼の異世界だったのだから。天地切断の責任をあなたはどう負うつもり?」


 激しい風が僕らを打っていた。

 姉さんが苦いものを噛んだように、口を横に引く。


「元はと言えば、あんたのせいでしょうに! 私はもうあんたの部下じゃないんだから、責任も、始末書だって、あんたの尻拭いなんて絶対しないわよ!」

「お金、いっぱいあるんだけど。いらないの?」

「い、いっぱいって。試しにいくら言ってみなさいよ」

「ほら、揺らいだ」

「これとそれとは別問題でしょう。無理強いしても、私もスーパーウーマンじゃないんだから。戦闘ならともかく、天変地異を治めるなんて専門外よ」

「そうかもね。わたしも今はマイに付与できる機能のストックもないし。人殺しの対価だけでは、自決が関の山かしら」

「いっつも誰かに押し付けてばっか。それこそ、あんたの力でなんとかしなさいよ!」

「ずいぶんと偉そうなことを言うのね」

「あんたが言うか!」


 二人がなぞに息の合った口論を繰り広げる合間にも、部屋の中は崩れ始め、赤い絨毯ごと地が割れる。

 壁に嵌められたステンドグラスが見えない力で外から膨らまされる。

 内に破裂したガラスの向こう側から灰色のナニカが、全てを飲み込まんと僕らに向かって来ている。


「そう。元上司のわたしにそんな口の利き方をするのね。ふーん」


 時間が黄昏時のように軋む。

 部屋全体が点滅し、幽霊船のように大きく揺れる。


「その手にはのらないわよ。元をたどれば全部ぜんぶ、あんたのせいなんだから!」


 空間が赤く輝く。

 そして、命の灯を燃やし尽くしたかのように、灰に染まった。


「そんなこと言いている場合じゃないだろう!」


 二度も繰り返した世界の崩壊。

 一個人がどうにかできる話じゃない。


「いまは逃げるしかないんだ。とにかく! みんなでここを離れなきゃ!」


 僕は大人になったⅠに手を伸ばす。

 細く長い指が、僕の思いに応えるように、全身全霊で開かれる。


「レイさん――」


 僕はIと手を繋ぎ、マイと抱きしめ合う。

 異世界へ初めて移ったあの日と同じように、僕はIとマイと、この世界を後にする。


 その、つもりだった――――。


「え?」


 Iと手の平が重なる、その瞬間。

 パンッ、という上品な手鼓が鳴った。


「え、ここは、小高い丘、か?」


目の前の景色がグレーから青々しい生命溢れる緑に変わる。


「ボーナスステージよ。ご褒美がなくっちゃ」


 すべての元凶、Uの美声がそよ風と共に心に沁みた。


「さ、始めましょうか――」


 そう言って、Uは自分自身が世界で一番高潔だと言わんばかりに、傲慢に笑ってみせた。


「――――二人っきりのお茶会を」


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