第三十三話


たつさんのとっさんは歳を取った人であるし、ははさんだという人は目が悪いから、私だって気が気じゃないんだ。だっていずれは、私の親になる人達なのだからね。あの人には自分の親に心配をさせないように、気をめてもらって、一日でも早く真面目になってもらいたいのだけれど、あれじゃあねえ……」

 ため息混じりにそう言った彼女は、いつもより老け込んだ顔になった。

 人差し指から薬指の先までをこめかみに当てたまま、深く深く胸いっぱいのため息を吐き出すと、そのまま三本指に頭を預ける。

 悩み過ぎてどうしようもないのだろう。

 これ以上は話したくないと眉間にシワが出来ているが、誰も「それでどうした?」とは口に出さず、おらくの話が続くのを待っていた。

 つまらなそうに聞いていたお力は、これで話は終わりかと思ったのだけれど、彼女の話はまだ続く。

「なんやかんやと口やかましく言ってきたけれど、私はこれでも、あの人のはんてんを洗濯してももきのほころびを縫ってみたいと、心からそう思っているんだ。それなのにあの人ときたら、自分の気持ちを優先させて遊んでばかり。あんな浮かれた気持ちのままでいるんじゃあ、これからどうしていくつもりなのかと、疑いたくもなってくる。このままじゃ、いつ嫁にしてくれるのかなんてわかりゃあしない。考えれば考えるほど、気持ちが落ち込んできちまうよ……」

 痛むわけではないが、頭を押さえていなければ倒れそうだ。

 お楽は疲れ始めた心を吐き出すように、話を聞いてくれる女達へ言った。

「期限のないままあの人を思い続けて、甲斐のない世話するのが苦しくなってくる。この仕事を続けているのだってそうさ。あの人がいるからこそ、私は少しでも稼いで、貯金でもしておこうと思えるのに、これじゃあ仕事が嫌になってしまって、お客を呼ぶのに張り合いがなくなってしまうよ。好きでこの仕事をしているわけじゃないのに、辰さんが私をないがしろにすればするほど、つくづく嫌になってくるんだ。あの人に尽くすのも、こんな仕事で男達に媚びへつらうのもね」

 お楽は『菊の井』のことが好きだけれど、この仕事が自分に合っていないのは前々からわかっていた。

 けれど、未婚の女が就ける職業は限られてくる。

 三十を過ぎた女が真っ当に稼げるとすれば、そくさんもんの内職くらいだろう。

 それに比べれば、男並みに稼げるからとしゃくなんてものを続けてきたけれど、おんなざかりと呼ばれる二十代で出会った男は、辰さん以外ろくでもなかった。

 その辰さんだって、いつまで経っても若い気持ちをそのままに、何もかもが他人事のままだ。

 結婚する気もなければ、好きだという私のことも、遊ぶお金をくれる都合の良い存在にしか思っていないのかもしれない。

 ずっとそう思わないようにしてきたけれど、そろそろ限界のようだ。

「私だけが頑張って努力して……バカみたいじゃないか……。ああ、面白くない、くさくさする」

 そう言って髪をきむしろうとした手を途中で止め、やり場のない苛立ちを自分の太ももへとぶつけた。

 痛みよりもまさる感情があるからか、肉のない太ももを数回叩きながら、甲斐性なしへの不満を漏らすお楽。

 平気な顔で男をだまあざむくその口で、想い人からの態度や言動を恨む言葉を吐き出していく。

 こんな仕事をしていれば、恨みつらみも両手の指では足りないもの。

 悩み苦しみ、それでも思い続けられる相手に巡り合えることはほとんどない。

 ――愚痴や文句を言いたくなる相手ができる。

 そんな経験すらない女達は何も言えず、そして、何も出来なかった。

 そうやってお楽の話が一段落した頃、この中で一番年上の女がため息を吐いた。

 普段から明るく優しいと評判の彼女だが、今日は朝から難しい顔をしていたのをお力は見ていた。

 おたまという名のこの人は、愚痴ばかりを吐くもう一人とは、比べものにならないほど人気のとしおんなだ。

 若さは無くとも良い人が途切れたことのない女として有名で、色っぽさの中にある母親のような温かみに惚れる男が後を絶たないらしい。

 元はどこかの男に嫁いだ身らしいが、甲斐性のある男に恵まれなかったのか、事情があってここへ来たのだろうと、昔から噂されている。

 本当かどうかは分からないが、客の間では子供を産んだことがあるという話が広まっているため、実家へのもどりか、こんからでも逃げてきたのだろうと笑われることもある。

 そんなお玉を見ていると、お力は頭痛がぶり返してくるのがわかった。

 いつもとうとつに訪れる痛みだが、今日はやけにゆっくりとやって来て、ズキズキと静かに痛みが増してくる。

(今日はもう、無いと思っていたのに……ああ、ついてない)

 頭を振って頭痛を逃がそうとしていると、お玉も同じように頭を振り、何かを振り落とそうと必死だ。

 何か悩むことでもあるのか、何度も何度も頭を振っては考え込んでいて、何かに迷っているようにも見える。

 そういえば、今の彼女には良い人が一人いるのだと、少し前に高ちゃんが言っていた。

 よく店の周りをうろついているらしく、しつこい男だと笑っていたのを覚えている。

 そのしつこい男は店には来ないが、店の外で二人、したしげに話しているところを見たことがあった。

 てっきり彼女の息子かと思っていた相手は、ひんい優しげな男だったと思う。

 もしかすると、年の差の恋というものなのだろうか。

 そうならば、相手はずいぶんと若い男だったから、向こうの勢いに負けそうなのだろうか。

 あるいは彼女の方が、自分より二十以上も若い男に熱を上げてしまったのだろうか。

(……ふん、くだらないねえ)

 誰も彼もが「悩みたくない」と言って泣くが、悩めるうちが花だということを、どうして誰も理解しないのだろう。

 お力がそう思った時、お玉が急に話し始めた。

「ああ、今日はお盆の十六日だ。もう、七月か。早いものだね」

 視線がいっせいにお玉へ向くが、彼女は気にすることなくきょうだいひじをつき、窓の外へと目を向けて話を続ける。

「今日はおえん様へのお参りに行く日だから、どこもかしこもえんもうでの気分なんだろうね。ああほら、連れ立って店の前を通る子供達が、私らよりも綺麗な着物を着ているよ」

 彼女が指差した方向には、赤や緑の派手な着物を着た幼い子達が歩いている。

 親から譲り受けたのか、子供達の着物にはかたげが施されていて、肩の部分もお腹の部分も倍くらいに膨らんでいた。

 それを可愛らしいものだと見ていれば、お玉はフッと笑い声を漏らす。

「親からづかいをもらって、嬉しそうな顔をしながらどうに行けるのは、おそらくきっと、二人ともに、あせみずらして働いてくれる働き者の親がいるんだろ。子供に苦労などさせない、立派な親を持っているんだろうね」

 部屋の女達も揃って窓の外を覗くと、先に通り過ぎた二人の子供達の後ろに、子供特有の高い声を出してはしゃぐ数人の子供達が見えた。

 次々と通り過ぎていく人々に時折混ざる、綺麗ながらりの着物を着た子供は、同じように綺麗な格好の子供と一緒に歩いていて、下駄も髪飾りも立派なものだ。

 どこかのお嬢様か、それともお坊ちゃまだろうかと噂する中でお力は、「ふん、くだらないねえ」と小さく呟いた。

 あんな良い着物を着せて、こんな時間に子供だけを外へやる親など、きっとろくなものじゃない。

 こんなところで立派な身なりなどをしていたら、あっという間に暗がりで連れ去られてしまって、二度とふたおやに会うことなんて出来なくなるというのに。

 ああ、嫌だ。

 心の中でそう言うと、話途中のお玉を見る。

 彼女は懐かしそうに子供達を見ながら、ポツリポツリと昔話を始めた。

「……私ね、息子がいるんだ。一人息子で、ろうというのだけれど、今日は仕事先がお休みだからって雇い主からひまてね。きっと今頃、この中のどこかにいるはずなんだよ。でも、どこへ行ってどんな事をして遊ぼうとも、さぞかし周囲の人が羨ましいと感じるのだろうね」

 ――噂は本当だったのかい。

 誰も口には出さなかったが、思ったことは同じなのだろう。

 皆が皆、驚いた顔で彼女を見ていた。

 その視線に気づかないのか、お玉は寂しげに目を細める。

「あの子のととさんはけで、酒ばかりを大事にするろくでもない男だった。あちこちにフラフラしていたから、いまだに帰る家すら決まっていないのだろう。加えて、はははこんな仕事に就いていて、ひとさまには話せないべにおしろい姿すがたなんだ。仮にどころがわかったとしても、あの子は会いに来てもくれないだろうね……」

「あんた、そんなに大きな息子がいたんだ。……それは、辛いね」

 涙を拭いたお楽の言葉に、お玉は寂しげな微笑みを返すだけだ。

「去年、むかうじまってところで開かれた花見に、誰かの女房にでもなった気分で若い格好をして、化粧も派手めにして、夫持ちの女が結うまるまげにして行ったんだ。丸髷といえば、元は遊女のかつやまが結っていたかつやままげが由来だって言うし、ちょっとしたしゃも込めてね。同じ髪型にした店の仲間と一緒に、あちこちを遊び歩いて回って、としもなく浮かれていたんだ。あの時は、楽しかったよ……」

 お玉は年若く見える微笑みが魅力的で、心も若く、仲の良い年下の仕事仲間とよく遊びに出かける。

 何か行事があると休みをもらい、遊びに行ってはお土産を買ってきてくれる気前の良さもあり、女主人も何も言わなかった。

 しかしそういえば、今年の花見については話を聞かなかった。

 お力が思い出すと、お玉はグッと唇を噛み締めて何かを飲み込み、すぐに話を再開した。

「桜が咲くに置かれた茶屋で休憩していたら、偶然あの子に逢えた。離れて暮らしていたけれど、やっぱり自分の子供の顔は忘れなかったんだろう。すぐに与太郎だってわかったんだ。嬉しくてつい、『これこれ』と手招きで呼んだのだけれど、若く着飾った私の姿でわからなかったんだろうね。呆気にとられた顔で、『おっかさんでありますか?』と、驚いた様子で尋ねられたんだ」

 思い出すのも苦しいのだろう。

 化粧をほどこしたばかりの顔は苦々しいとけわしくなり、開けた口は段々と細くなっていく。



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