第十七話


「……そういえば、最近、そっこうふたが壊れたんだってね」

 お力が言い出したことについて、「何の話だい?」と女達が首をかしげる。

「あの方はいつも車でくるからねえ。人力車ならまだいいけれど、馬車なんて立派なものに乗ってくる時は、道の状態が悪いだろうから直してもらわないと。ああ、でも、どうせなら道路の整備からしてもらいたいものだ。こんなドブ板のがたつくような店の前へ、それこそ、店の品格も女の性格も酷すぎて、横付けにもされないじゃあないか。なたたちもそんな風にだらけていないで、もう少しお行儀の悪さをただす努力でもして、食事の世話係としてくらいには、人前に出られるように気をつけておくれよ」

 横目に笑いながらお力が言うと、女達は一瞬ほうけた顔をしたが、すぐに意味がわかり、勢いよく怒り出した。

「ちょっとお力。アンタ、私達を馬鹿にしてるのかい。そりゃアンタに比べれば客はいないし、稼ぎだって少ないよ。でもね、雑用をさせられるほど落ちぶれちゃあいないんだ。アンタこそ、その憎らしい性格をどうにかしなよ」

 一人の女が怒り出すと、「そうだよ、アンタに言われたくないね」と次々に吠え出した。

 女の一人が「ええっ、憎らしい。ほんとしゃくさわる女だね」と言うと、お力は「お褒めの言葉をどうも」とらんかお

 終わらないやり取りに嫌気がさしたのか、最初に声をかけた女が軽く咳払いをして話を止めると、改めてお力を睨みつけた。

「アンタが憎らしいのはいつものことだけど、その物の言い方は少し直した方がいいよ。こんなことばかりしていると、奥様にふさわしい言葉遣いには聞こえないからね」

「それはどうも。まったくもって余計なお世話だよ。口の悪い奥様だって、世の中にはたくさんいるだろうに。男が原因だと、もっとだろうね」

 そう言って皮肉だと笑うお力に、女は胸の前で両腕を組み、フンッと鼻を鳴らした。

「だから、アンタには言われたくないってんだよ。このことは、結城さんがきたら思う存分教えておくよ。あの人だって、アンタのそんな一面を見たらどんな顔をするんだろうね。まあ、小言の一つや二つは言わせてみせようじゃないか」

「それはそれは、楽しみにしているよ」

 余裕の笑みを浮かべて明後日のほうを向くお力に、女達はまだ何か言いたそうだ。

 それでもこれ以上は時間が許さず、次第に増えていく表の人だかりに、彼女達も今宵の稼ぎを求めて外へと出ていく。

 人がまばらになる店先には、支度を終えて帰って行く男達と客を捕まえた女が数人。

 彼らもそれぞれに動き回ると、思い思いの場所へと行ってしまう。

「……それこそ、余計なお世話だよ」

 小さくつぶやいたお力は、横に置いていた盆の上の酒を一気に飲み込み、大きく一息。

 湯呑みには半分以上残っていたが、それではまだ足りないと二杯目を注ぎ、それもまた一気に飲み干した。

 酔うに酔えない感覚が不愉快で、もう一杯とばかりに湯呑みへ酒を注ぐと、外から女達のはしゃぐ声が聞こえてきた。

 近づいてくる声に混じり、ここ最近で最も聞き慣れた声が耳に届く。

 声の主は顔を上げたお力に合わせるように敷居を跨ぎ、両側に女を引き連れて中へと入ってきた。

「お力」

 ニコリと笑って声をかけてきた結城へ彼女が向けたのは、笑顔ではなく不愉快な顔。

 その原因である女達は、お力の視線に気がついてニヤリと笑うと、結城にしなだれかかり、甘えた声を出して色っぽく目を細める。

「ねえ、結城さん。聞いてくださいよ」

 お力に最も敵意を向けていた女が、結城の腕に体を寄せる。

「なんだ」

 真面目な彼は、胸が当たっていることに気がついているのか、いないのか。

 澄ました顔で女に返事をした。

 女はさらに体を寄せると、お力に視線を向けつつ「あのですね」と甘えた声で、結城の耳に唇を近づけていく。

「さっき、りきちゃんと話してたんですけど、彼女、私達にひどいことを言ってきたんですよ。『稼げない女はきゅうくらいできないとダメだ』って。急にそんなことを言い出して、鼻で笑ってきたんです。ひどいですよねえ」

 真っ赤に彩られた女の唇が、深く薄暗いを描く。

「どうやっても、私達には手に負えないヤンチャな娘ですので、結城様から叱ってあげてください。第一、湯呑みでお酒を飲むのは体に毒でございますよね。せっかく心配してあげたのに、ひどいわ」

 悲しげにそう言った女の目に涙は無く、挑むような視線が突き刺さる。

 他の女達はクスクスと笑うが、ちょうど手に持った湯呑みをとがめられたお力は、眉をひそめて女達を睨みつけた。

 いつもならば何も言ってこないのに、これ幸いにと、お力の悪いところを突くつもりなのだろう。

 結城の視線がお力の手に移ると、彼は心配そうな顔になり、それでも酒を飲もうとする彼女を止めようと声をかける。

「お力、酒だけは少し控えろ」

「これは水ですよ」

「嘘を言うな。腰の辺りにある瓶が酒のものだということは、お前に尋ねなくてもわかることだ。お力。タバコを吸うな、口の悪さを直せとは言わない。だが、酒だけは今すぐやめろ」

 いつも穏やかな結城の言葉に、取り巻く女達の笑顔が固まる。

 いつも通り「やめなさい」と優しく諭すのかと思っていた彼女達は、初めて見る結城の苛立ちに背筋が寒くなってきた。

「……それは、命令ですか」

 しかし、結城の苛立ちをものともしないお力は、湯呑みを置いて彼を見上げる。

 見つめ合いながら睨み合う二人に、誰も口を挟めない中で、唇を固く閉ざしていた結城が「そうだ」と答えた。

「自分で自分を痛めつけるな」

 結城は本気だ。

 いつもの笑顔が消えた結城に、女達は静かに離れていき、二人から距離を取り出す。

 何事かと見ていた女主人は、下手に口を挟むのはまずいと成り行きを見守るだけで、二人を止められる人は誰一人いない。

 しばらく睨み合う二人だったが、能面のように表情を変えなかったお力が、突然笑みを浮かべた。

「ああ、あなたがそれを言うのですか。あなたのように、立派な立場も、金もないこのお力が、無理をしてでもこんな仕事を続けられているのは、このちからだとお思いになりませんか」

 湯呑みを目の前に掲げて揺らし、結城に見せつける。

 結城は睨みつけるようにお力を見るだけで、答えはない。

「あなただって、私が酒好きだということは承知のはず。今さらですが、私から酒の香りも酔いもせてしまったら、私との酒の席は、僧が修行するさんまいどうのようになってしまいます。どれだけ楽しくやろうとも、ねんぶつきょうが聞こえるだけのつまらない座敷となるでしょうね。私を思いやるなり店の事情を推し量るなり、少しは察してくださいよ」

 そう言って酒を一口。

 結城は眉をひそめてお力を睨むが、彼女はもう、結城を見ることすらしなかった。

 だんだんと悪くなる空気を察したのか、集まってきた客も店の女達も、静かに二人の横を通り過ぎていく。

 さすがにここまでかと、女主人は息を吐いて立ち上がろうとしたが、先に結城が「そうか」と口を開けた。

「そうか、そうか。ああ、そうか。そういうことなら、わかったよ」

 表情を変えずにそう言った結城に、女主人はいぶかしむ。

 結城の取り巻きになっていた女達は一歩下がり、何も言わない彼を恐ろしげに見つめている。

 お力だけが気づいていないのか、彼女はもう一口酒を飲むと、無言で湯呑みを盆の上に戻して立ち上がり、苛立ちを払うように、足早に外へと出て行ってしまった。

 静まり返る店内に女主人の声が響く。

「さあみんな、仕事の時間だよ。ほら、お客様を待たせないでおくれ。さあさ、奥へ行った行った」

 その声に動き出す女達。

 しかし結城は動かず、置かれた湯呑みを見つめている。

 取り巻きの女達は既に別の客に乗り換え、女主人も彼をそのままにして自分の仕事を始めてしまい、誰一人彼が店を出て行ったところを見なかった。

 そうして再び二人が現れたのは、月が上に上がった頃。

 それ以降、結城の口から「酒をやめろ」の言葉を聞いた者は、お力を含めて誰もいなかったという。

 

 

 

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