第十六話


 太陽が真上に差し掛かる時間帯になっていたが、不思議と腹が減らないため、二人は『菊の井』へと戻るため歩き出す。

 男は気にしていないが、気位の高いお力にしてみれば、ほとんど初対面の客に弱みを見せてしまったことを気にしているのかもしれない。

 むしろ「可愛いところもあるものだ」と思う男の気持ちなど知るよしもないお力は、小さくため息を吐きながら、この場で思う存分落ち込みたくなっていた。

 無言のまま、店までの道を真っ直ぐ歩く二人は、どちらからともなく隣を歩き出す。

 男はお力を見ないが、お力は男を横目に見上げながら「いったいどんなお方なんだか」と、不審がる目つきをし始めた。

 平日の真っ昼間から自由に外を歩き、ふところには道楽息子が持つには多すぎる大金を入れた財布を持っている。

 今日だって、支払いの時に出した財布の厚みから察するに、この前以上に大金が入っているのは間違いないだろう。

 どこかのボンボンかと思ったが、もしかすると隠しているだけで、名のある資産家の跡継ぎなのだろうか。

 自由に金が使えるのかどうかは知らないが、あれだけの大金を惜しみなく持ち歩けるなんて、並の神経ではできないことだ。

 あれこれと考えに没頭していくお力だったが、なかなか答えが出ないまま店の前まで来てしまい、考え事はそこで終わった。

 二人を見つけた店の女が中へ入り、開店準備を始めていた女主人を呼び出したが、男は中へ入るのを断って帰ってしまった。

 何だか拍子抜けだとお力は思ったが、店先から顔を出したお高は安心したように息を吐く。

 釣られて何人かが息を吐いたが、それは残念だという重いものだったことは、本人達しか知らないものとなった。

「なかなかに律儀な旦那だったんだねえ」

 お力から外出理由を聞いた女主人は感心し、「また来たら呼ぶよ」と笑って仕事に戻って行ったが、また来るかどうかはさすがに怪しい。

 お力は「金持ちの若旦那が気まぐれを起こしただけさ」と笑うが、女達は「いいや、あれはアンタに気があるからだよ」と茶化す。

 お高は「金持ちのボンボンのことだ。三度目はないよ」と不機嫌そうに話に参加するものの、本音が「二度と来るな」だとは誰も思わない。

 そうやって一日二日と経った三日目の夜。

 珍しく人がまばらな店の敷居を例の男が跨いだ時、男が常連になることが確定したのは言うまでもないだろう。

 女主人は上客を捕まえたお力を褒め、店の女達は羨ましがる者と半信半疑の者に分かれた。

 半信半疑の女達は、「どうせすぐに飽きられるだろうよ」と笑っていたが、男はこの夜から三日と空けずに来るようになった。

 酒を飲み、語り合い、夜遅くに帰ることが多いものの、短い時間でもお力に会いに来るようになったのだ。

 最初は男の本気を疑っていた女達も次第に認めていき、三ヶ月も経つ頃には二人の仲を本物だと疑う人の方が少なくなっていた。

 男はゆうともすけと名乗り、無職の遊び人で妻も子もいないと言っていたが、彼の生い立ちや実家に関してはいっさい教えてくれなかった。

 馴染みとなった夜に、自分は怠け者でどうしようもない奴だと自ら説明してきたのだけれど、真面目で正直なところが時々でもかいえるため、お力は彼の話をいまいち信用できなった。

 何か隠していることは確かだが、せっかくの上客を嫌な気持ちにさせるのは嫌だったので、すぐに気にすることをやめ、彼女は結城との仲を深めていくことにした。

 これまで相手にしてきた男と違い、彼には誠実なところがある。

 下品なことは言わず、かといってだというわけでもないため、お力にとっては話しやすく対応しやすい客だった。

 自らどうらくものだと名乗っておきながら、酒を飲んで話をするだけの夜がほとんどで、求められることはあるものの、けして無理強いはしてこない。

 大切にされているような錯覚に揺さぶられでもしたのか、気がつけば結城のことが気になり出していたのだ。

 今までの男とは違う、ということが大きいのだろうが、何より自分を気遣ってくれるところがあるため、その優しさにほだされたのかもしれない。

 最初は裏があるかもしれないと警戒していたお力も、今ではすっかり好意を抱くようになり、気がつけば手紙のやり取りをする仲にまでなっていた。

 彼は自由気ままに遊ぶにはちょうど良い年頃ということもあってか、改めて夜に訪れた日から週に二、三回、客として寄り道してくれるようになった。

 それも手伝ってのことだろう。

 上客であってもそれほど興味を持たなかった彼女が、何となく気になってしまうのか、それとも愛おしく思ってしまうのか、三日も姿を現さないと手紙を送るようになったのだ。

 そんないつもと違う様子の彼女を見た仕事仲間の女達は、幸せそうな彼女を妬みながら嫌味を言う者もいた。

 いつも男に興味がなく、自分から恋愛を遠ざけるような美女が、ある日から急に恋する女のような振る舞いをするようになれば、当然のことだと人は言うだろう。

 相手がげんしちのように、仲間同士の相手と似たような立場の男であれば、冗談を交えつつ「どうせ振られるんだから」と、陰で笑って終わりだったのかもしれない。

 しかしお力が捕まえたのは見るからに裕福な男で、整った容姿と高い身長、加えて眩しいほどの若さに、見た目に似合わない大人の落ち着きがあるのだ。

 下品なことも言わず、目の色を変えて女を見ることもなく、手を出さずとも金だけはしっかり置いていく。

 そんな男を常連の馴染みにしたお力に、形だけでも嫉妬しない女の方が少ないくらいだ。

 これが自分だったら……などという「もしも話」をし出せばキリがないものの、確かな馴染みが得られない女達にしてみれば、今の彼女は羨ましさを通り越して憎らしいくらいだろう。

 それでもねたそねみを口に出さないのは、ひとえに彼女達にも自尊心があるからだ。

「これも時の運ってだけさ」

 どれほど妬もうと結城の心は変わらないと、見ていることしかできないのだと理解している者がいる。

 あの時お力の代わりに自分が飛び出していれば……と考える者もいたが、彼女のように捕まえられたかといえば、それは無理だと首を横に振って諦める者もいた。

 いちいち気にしていては仕事にならないと、女達の大半は既に切り替えているものの、それでも受け入れられない者が一人や二人はいるもの。

 結城を待ちながら、店先で酒をあおるお力に女が数人近づいて、ぎこちない笑みを浮かべながら話しかける。

 ある日暮れ間近の時間帯のことだった。

「力ちゃんは、今が一番楽しいんだろうね。そりゃあ、相手は顔がいいし、支払いの気前だっていい。そのうち仕事で出世するのは間違いないよね。そうなった時には、結城様はアンタのことを『奥様』とでも言うようになってるんだろうねえ。私達も今から練習しておかないと。ああ、そうそう。今から少しずつでも言動に気をつけて、あの方に恥じない女になっておかないとね。だからさ、着物から足を出したり、湯呑み茶碗ばかりを使って酒を一気飲みしたりするのだけは、今すぐにでもやめにしなよ。下品に見えるからね」

 一人の女がそんなことを言いながら、妬みを込めた目つきでお力に言った。

 それを見ていた別の女は、嫌な笑みを小さく浮かべてお力の隣に座ると、「そうそう。偉い方の奥方様になられるんだから、今から礼儀作法を身につけておかないとね」と、クスクス笑い出す。

 さらにもう一人の女が「ちょっとお、そんなこと言ったらげんさんがかわいそうよお」と猫撫で声で一緒に笑う。

「あんなに熱心に通ってくる源さんが、自分以外にいい男がいるなんて聞いたら、どうなるのかしらねえ。ふふ、もしかしたらぐるいになって、大暴れしちゃうかもしれないわよ」

 ねえ、と女達は顔を見合わせ、声を出して笑った。

 クスクス、クスクス。

 器用に笑う女達に囲まれながらも、お力は冷めた顔で店の外を見ている。

 一応は心配もしているらしい女が「源さんのことは気をつけなよ」と言ってきたが、彼女の耳には入っているのか、いないのか。

 他の女達はお力を冷やかす目的で源七の話を出したのだろうが、それくらいで揺さぶられるようなお力ではない。




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