第十八話
酒、酒、酒。
気がつけば、酒を口にすることが増えていた。
もっと若い頃は水でもお茶でも好きに飲めたけれど、ここに来てからは酒の方が口にしやすいからか、水代わりに好きなだけ飲むようになっていた。
酒と言っても、美味い不味いのものではない。
たくさん飲めて、とにかく酔えればいいだけの
先日は
私だって何度も辞めようとしたし、水やお茶を口にするようにだってした。
けれど、場所がそれを許さなかったのだ。
私が暮らす
場所としては若いし、歴史だって浅い。
夜になれば昼間のように明るくなり、しおれていた女達が赤い唇に笑顔を浮かべて客達を出迎える裏で、恋や喧嘩、客の取り合いで負けた奴らが物言わずに去って行く。
金を払わずに逃げる男がいれば、女を物として扱って死なせてしまう男だっている。
前の場所では考えられないくらい酷い場所だけれど、それでも私には、ここしかなかった。
収入は低く、まともな食事もないし、客層が若いから将来は期待できない。
人の入れ替わりが多い場所だから、一晩経てば赤の他人、なんてこともしょっちゅうだ。
慣れない頃は、高ちゃんと二人でヤケ酒をすることがあったので、勢いのままに先輩の酌婦に相談しては大笑いされて、馬鹿にされることもしょっちゅうだった。
今はもう、そんなことはないけれど、だからこそ私には酒が必要だったんだろうね。
酒を飲んでいれば客に愛想を振りまけるし、飲む姿が色っぽいと常連ができた。
宴席でも酒を飲めと勧められるし、私にとって酒というものは、商売道具であり、相棒のようなものでもある。
それほど酒と縁のある『菊の井』のお力が酒を飲まないなんて、評判を落とすにはもってこいの状況だろう。
結城様が心配してくれているのはわかっている。
だけれどこれは私の生活に関わるものだ。
今は体よりも、とにかく仕事を優先したかった。
一口二口と、考え事をすればさらに進むのが酒というものだ。
昨日は夕方に顔を出しただけの馴染みが客だったから、夜中は珍しく枕を高くして眠れた。
それでも寝覚めは悪く、気がつけば酒を口にしている。
周りの女達は見て見ぬ振りだが、女主人は睨みつけるように視線を向けてくる時があるから、そろそろ店先では飲めなくなりそうだ。
最後の一口を飲み切って
数回振れど、一滴も落ちてこなかった。
「ほら、今日は
見かねて女主人が銚子を取り上げるけれど、私は飲み足りない。
「どこに行くんだい」
不機嫌を
私は「すぐそこさ」と言って外へ出ると、人気のない真昼の道を歩き出した。
後ろから高ちゃんの声が聞こえた気がしたけれど、聞こえないふりをして表通りへ向かって歩いた。
新開の町から歩いて行ける距離に、人が大勢集まる大きな街がある。
さまざまな店や娯楽が溢れ返り、連日連夜、人で賑わうこの街は、夜の仕事をしている人間には不釣り合いなほど明るい。
出来る限り身だしなみを整えて、髪を軽く撫でつけるように
この街には、いくつもの細い道と大きな通りがいくつかあるらしいが、私は新開に一番近い大きな通りしか歩いたことがない。
ここに越してきて数年。
今さら新しい場所に行ってまで買い物をする気はなく、同じ場所を行ったり来たりすることが精一杯だったので、酒を買いに奥の方まで来たのは初めてだった。
意外にも酒屋の看板は多かったけれど、どの店も綺麗な引き戸が目についた。
通りすがりにガラスを覗けば、中には身なりのいい店主と数人の小僧がいたので、どこもそれなりに良い店なのだろう。
もう少し敷居の低い店を探して通りを歩いていると、遠くから笛の音が聞こえてきた。
お
どこからだと辺りを見回すと、路地の隅で横笛を吹く小柄な男が目に入った。
この曲を吹いていたのは彼らしい。
通りを横切って近づくと笛の音は大きくなり、喧騒の中でも負けないくらいの音色が耳に届く。
少し調子の外れた音なので、気になる人には
「お上手ですね」
声をかければ、男は演奏をやめて顔を上げる。
薄汚れていてよくわからないが、目に力のある細身の人だ。
「素晴らしい音色に感謝して、お礼を差し上げましょう」
そう言って懐から財布を取り出すと、お
男は驚いたように目を見開くが、表情は動いていない。
「また聴かせてくださいね」
にっこり微笑むと、男は弾かれたように頭を下げて、お札を手にどこかへ行ってしまった。
口が
どちらにせよ、あの金は男のものだ。
人助けなんて立派なものではないけれど、少しだけ、あの笛の音に酔わされたのかもしれない。
少しだけ笑ってから、早く酒を買って帰ろうと歩き始めたその時、すれ違いざまに「お力か」と声をかけられた。
「なんだ、久しぶりだな。こんなところで何をしているんだ」
髪を短くした男には見覚えがあった。
確か昨年まで、店の常連として顔を出してきた漁師の男だ。
名前はなんと言ったか忘れたが、相手を作らないまま姿を消したからよく覚えている。
自分にも声をかけてきてはいたけれど、興味を持てなかったので断っていたため、こうして向き合って話すのは初めてだった。
「なんだなんだ、お力ともあろうものが。こんなところで何をやっている」
男は笑顔でそう言うと、上から下まで舐めるように体を見てくる。
嫌な予感がして「買い物ですよ」と視線をそらせるが、男は「嘘をつけ」とまた笑う。
顔を近づけて「男でも
「や、やめてください。こんなところを見られては、誤解されてしまいますよ」
男が結婚したことは風の噂で聞いている。
その頃から女遊びを辞めているらしいから、相手は相当なヤキモチ焼きか、良いところの娘か、あるいは男がベタ惚れな相手なのだろうと思っていた。
しかし男は腰に回した手をさらに強く引くと、笑みを深めて「かまわないさ」と言ったのだ。
驚いて顔を上げれば、男はいやらしい目で私を見下ろしていた。
「お前の身なりなら、どこかの商売女だと一目瞭然だ。ここでお前が大騒ぎしたとしても、商売女と客のいざこざだと思われるくらいで、大きなことにはならない。まあ、俺が大騒ぎすれば……わからないがな」
ニヤリと笑うその目に、喉の奥から込み上げる物を感じた気がした。
確かに自分は仕事着のままで来ている。
ここで大声を出しても、この男の言う通り、夜の女と客の喧嘩だとしか思われないだろう。
だけれど、男の
動きを止めて男を見上げれば、男はまた笑う。
「そんなに身構えるな。なに、近くの店に付き合ってくれればいい。夜まで時間はあるからな」
細めた目に浮かぶ男の情愛は、凍えるほどの熱を持って私を貫く。
それこそ、あのお力が、と大騒ぎになるかもしれない。
それはごめんだと目をつむり、落ち着けと自分に言い聞かせながら目を開ければ、そこにはもう自分の客しかいなかった。
「……いいですよ。ああでも、私も忙しい身の上。時間までには店へ戻らなければ、次の相手が拗ねてしまいますので」
「そこまでは長引かせないさ。じゃあ、行こうか」
男に誘われるように歩き出すと、軽くふらついてしまった。
しかし男にはまるで気づかれず、私は笑う。
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせて歩いて行くと、私の袖を引くように白く細い手が視界に入った気がした。
「すみませんが、少しよろしいですか」
空いた袖が確実に引かれ、私は足を止めた。
男も続いて足を止めると、機嫌を悪くした顔で私がいる方を振り返る。
引かれた袖の方を振り返ると、私の袖を掴む一人の女性が微笑みを浮かべていた。
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