第十九話

 

「久しぶりだね、おりきさん」

 女性は男を無視し、袖を掴む手はそのままに、私に向かってにこやかに挨拶をする。

 職業柄、人を無視するのはどうも気味が悪いので、何も言わずに頭だけ下げたが、この女性に覚えはない。

 思わず眉をひそめてしまったが、女性は微笑んだまま表情を変えず、「まあ、ご存知ありませんよね」と、あでやかにニコリと笑った。

「お前の知り合いか」と男が聞いてきたけれど、なんと答えればいいのかわからず、「さあ、どなたでしょう」と微笑み、曖昧にする。

 もしかすると、昔の男の女房か恋人かと思ったが、それにしてはやけに穏やかな顔だ。

 前にいた場所で顔見知りだったのだろうかと思い、その顔をじっくり見てみようしたら、彼女は男へ視線を向けた。

「おや、いい男じゃないか。お力さんの馴染みかい?」

 向けた笑顔は美しいが、どこか棘のある言い方だ。

「お前には関係ないだろう。さっさと失せろ」

 男が不機嫌な顔で答えれば、女性は「おお怖い」と、茶化すように笑うだけで、逃げる素振りもみせない。

「何がおかしい。お前、俺を馬鹿にしているのか?」と、苛立ちを交えて男は尋ねるが、彼女は「馬鹿になどしていませんよ。ただねえ、いい男がまっぴるから、ずいぶんとお盛んなことですねえと思っただけです。モテる男は、さすが違いますねえ」と、さらりと言い返して笑みを乗せるだけだ。

 どこか、自分と同じ匂いを感じる。

 昔の同僚にしては手慣れ過ぎていると思い、新開の方の女かと考えた瞬間、ハッと思い出した。

「あんた、『ふた』のおかくかい?」

 その言葉に、満足そうな笑みを浮かべた女――お角は、「やっと思い出したのかい」と、艶やかな笑みを私に返した。

 新開にある『双葉屋』は、私が働く『菊の井』と同じくらい有名な店だ。

 人気こそ『菊の井』の方が高いけれど、人の多さでは『双葉屋』に敵わず、女を選びやすいからという理由で、客が流れていくことが多かった。

 いい女が多いと噂の『双葉屋』で、とりわけ有名なのがこのお角。

 他にはない色気と大人びた雰囲気を目当てに、何度も通う男が多いのだという。

 つい最近も、若い男が熱を上げて貢いでいるようだと聞いたことがあり、私とはまた違った人気のある女だ。

 そのお角が、どうしてこんなところにいるのだろうか。

 からかいに来たにしては少し様子がおかしく、邪魔しに来たにしては目が真剣だ。

「人気者がお出ましとは、私も偉くなれたものだね。それで、お角姉さんは何のご用で?」

 もしかするとこの男は、彼女の馴染みだったのかとも思い冷や汗が出たが、「あんたに用があって来ただけさ」と言われ、呆気にとられてしまった。

 思わず「は?」という、間抜けな声を出してしまったが、彼女は「買い物に付き合ってくれる約束だっただろう?」と笑う。

 話に入れない男は「どういうことだ」と、苛立ちをあらわに私の腕を引くが、私の方こそ聞きたいくらいだ。

 けれど、ここでに「知りません」とは言えず、かといって突っぱねるわけにもいかない。

 そんなの知らないから帰れ、などと言ってしまったら最後、どんな噂を流されるか。

 想像もしたくなかった。

 いったい何のつもりだと彼女を見るが、彼女は相変わらず笑顔のままだ。

 これはもう、強引に行くかと、男の腕に手を添え、彼女から離れようとした時、お角は「さあ、行くよ」と、袖ごと私の腕を掴んだのだ。

「何を……」

「お、おい!」

 するんだい、と私が言う前に、お角は走り出し、虚をつかれた男の手が私からスルリと離れる。

 その隙に男から距離を取った私達は、お角に引っ張られながら走る走る。

 よくこれほど走れたものだと、自分で自分に関心する走りを見せた私は、人通りの少ない裏道まで走り切り、ようやく止まった。

「な、何、するん、だい……」

 息も絶え絶えに尋ねたが、彼女も息が整わず、二人揃ってろうこんぱいだ。

 まだ若いとはいえ、まさかこの年で、ここまで走ることになるとは思わなかった。

 今にも倒れそうなくらい疲れたが、男を巻くことはできたようで、後ろから聞こえていた怒鳴り声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。

「あんたが、悪い男に、引っかかってた、から、ねえ。同輩の、よしみで、救って、やったんじゃ、ないか……」

「ああ、そう、かい。でもね、救うとか、言うん、なら、もっと、上手く、やりなよ、ね……」

 どこかの建物に寄りかかり、二人して息を整えると、久しぶりにおおあせをかいていることに気がついた。

 まだ夏には遠いのに、昼過ぎには汗が滲む時期には入っているから、それも当然と言えば当然だ。

 店に戻ったら着替えなければと顔を上げると、隣に立つお角が、ふふっと笑い出した。

「……何がおかしいんだい?」

 自分のみっともない姿を馬鹿にされたのかと睨むが、彼女は「いや、あんたのことじゃないよ」と答えて笑う。

「逃げる時に見たあの男の顔、思い出したらおかしくてねえ。つい笑っちまうんだよ」と、今度は声を出して面白そうに笑った。

「そんなに面白い顔をしていたのかい?」と聞けば、「ああ、間抜けな顔をしていたんだから、笑うしかないさ」とお角は答える。

「私は見逃してしまったから、もう一度拝みに行こうかねえ」と、冗談半分で言うと、「やめときな、やめときな」と、彼女は大げさに、手のひらを顔の前で振った。

「あんな間抜けな怒り顔をするような奴だ。戻ったら殺されちまうよ」

「ずいぶん、物騒な言い方をするね。今まで笑い転げていた女の台詞せりふじゃないよ」と言えば、「本当のことだからさ」と、笑顔で言い切ったのだ。

 二人の息が整ったからか、辺りは急に静かになる。

 蝉の時期には早く、裏通りに人の気配はないため、薄暗い裏路地は不気味に思えてくる。

 隣の女を見上げているのが急に怖くなり、さっさと立ち上がったところで、「あの男には気をつけなよ」とお角は言った。

「あの男、元から女の金で遊び歩いているような奴だ。『菊の井』じゃあ、女主人の目が厳しかっただろうから、馬鹿な真似はできなかったみたいだけど、ウチではやらかしてね。同僚が一人、連れて行かれちまったんだよ」

「連れて行かれたって? どこへさ」

「町の外れにある、ひどい場所へさ。あそこに行っちまったら、女一人じゃあ、どうにもならない。最後は骨と皮だけになって、それでも客をとって、それで終わりだったって話だよ」

 町の外れ――。

 新開と同じくらいの時期にできたという、肥溜めみたいな場所だ。

 他の町にもあるというその場所は、どうしようもない連中がたむろする、本当にひどい場所だという。

 私は行ったことがないが、物好きな男が一度遊びに行き、骨の髄まで搾り取られそうになったと言っていた。

 その時は「酷い目に遭ったねえ」なんて、お愛想の慰めで言ったけれど、それくらいで済んだならマシな方だそうだ。

 一般の人間が興味本位で行けば、男であればゴロつきの手下に、女であれば遊び相手にされ、元から住む連中の言いなりになるしかないのだという。

 そんなところへ連れて行かれたという『双葉屋』の女は今頃、魚の餌にでもなっていればいい方だろう。

 悪ければ、骨すら残らないように処理されているはずだ。

「……あんた、やっぱり知ってるんだね」

 ハッとして彼女の顔を見れば、「やっぱり」と言って私を見つめている。

「あんたの過去を知っているから、もしかするとって思ったけれど、やっぱり、そうだったんだねえ」

「……いったい、何のことやら。私にはさっぱりさ」

 誤魔化すように言うが、相手は同業者。

 すぐに嘘だと見抜かれ、「強がらなくてもいいよ」と返される。

「あの場所は、新開にとっては縁遠いところだけど、町のお偉いさんとかには縁があるんだろう? あんたがげんさんと別れる時に、あの場所の連中が押しかけたって話があるんだ」

 それは本当かい?

 その問いに答えるべきか、否か。

 それはもちろん、否だ。

「……知らないよ、そんな連中。あの人が、前の店にゴロつきを連れてきたって言うけれど、それは、あの人の悪いお仲間のことさ。あの場所のことは、この町に住んでいれば嫌でも耳に入るし、元はそれなりの地位を持った私だよ。一人や二人、あの場所のお偉いさんを相手にしていたんだから、当てにならない噂の一つや二つ、好き勝手に広められたりもするよ。それを本気にしたところで、馬鹿を見るってだけの話さ」

「でも」

「それよりも、その子はどうしたんだい? そのままで終わったとは、言わないんだろう?」

 無理矢理に話を変えると、彼女はまだ何かを言いたそうにしていた。が、やはりそこは同業者だ。

 余計なことを言って話をこじらせるよりも、私の話に乗った方が得策だと見抜いたのだろう。

 すぐに「どうにか遺体は引き取れたよ」と、苦々しく、忌ま忌ましいという顔で答えてくれた。



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