第二十話
「店の主人がツテを使ってくれて、どうにか引き取らせてもらえたんだ。けどねえ。痩せすぎていて、もう……あの子だとはわからなかったよ」
涙声で話す彼女に、少しだけ同情する気持ちが湧き出る。
あの男の見てくれはそこそこだし、最初から優しくされてれば、私だって落ちていたかもしれない。
素行の悪さを目の当たりにしていたからこそ、あれくらいで済んだのかもしれない。けれど、だからこそ分からない。
「そんな男だと知りながら、どうしてその子は付き合いを続けていたんだい」と話を振れば、彼女は涙を拭いた。
「……惚れちまったんだってさ。もう、どうにもならないくらい惚れちまったから、逃げられなかったんだそうだ。最後に話した時、泣きながらそう言ってたんだよ」
「そんなにいい男だったのかねえ。私の店では
「だからさ。『菊の井』以外の店でもやらかしてたから、いよいよ金が無くなったんだ。だからやり方を変えて、優しいあの子に目をつけたんだよ。ほんと……馬鹿な子だよ」
亡くなった子を相当可愛がっていたんだろうけど、その子もまた、この仕事らしい最後を迎えたんだ。
それを自業自得だと言ってしまうには、お
私だって、源さんとのことで危ない目に遭ったことはあるけれど、あの場所の連中と関わったことは一度もない。
繋がりのある客を数人相手にしただけで、噂話でしか知らなかった。
(違う店の子とはいえ、知り合いの口から聞くのは、いい気分じゃないねえ……)
亡くなった子には悪いが、それが『菊の井』で起こらなくてよかったと思う。
お角はひとしきり泣いた後、「すまなかったね」と頭を下げて謝ってきた。
「あんたを助けるためとはいえ、思い切り腕を引っ張ってしまったし、こんなところで気分の悪い話をしてしまった。本当に悪かったよ」
「気にしないでいいよ。あんたが来てくれなきゃ、私だってどうなってたかわからないんだ。むしろ、感謝してるくらいさ」
そう答えると、彼女はハッとした顔になり、艶やかに笑った。
「さすがは『菊の井』のお力だね。惚れちまいそうだ」と口説かれたので、「あんたこそ、さすがは『双葉屋』のお角だよ。本当に、ありがとうね」と返すと、どちらからともなく笑みがこぼれる。
謝罪と礼の言い合いはそこまでで、気持ちが落ち着いたところで、裏道を出る。
外は静けさを取り戻し、相変わらず私達には無関心なようだった。
「ところで、私を助けるためにあそこにいたわけじゃないんだろう? 何か用でもあったんじゃないのかい」
表通りへ戻り、歩きながら思い出したことを聞くと、彼女は「もう終わったよ」と言った。
「買いたい物があったから出てきたんだけど、そうしたら、悪い男に引っかかろうとしている間抜けな人が見えたからねえ。ついでとばかりに声をかけたってわけさ」
すっかり元の調子に戻った彼女と二人、表通りを歩きながら笑い合うが、こうして人の目を気にせず、口を開けて笑えたのは久しぶりだ。
店ではよく
他の同僚も同じで、今日の稼ぎや馴染みの有無、ひどい時には失恋話を延々と聞かされるため、自然と会話が減っていたせいもあるのだろう。
ここ最近は酒ばかり飲んでいて、まともに会話した人がほとんどいないことを思い出してしまった。
高ちゃん達と話すのは、それはそれで面白い時もあるため好きだが、こんなふうに楽しいと思えたことはない。
前の店では競い合うことばかりで、客以外の人と話すことはほとんどなかった。
それを寂しいと思うことはあったけれど、辛いと思ったことは一度もない。
あの人との時間だけが、私を救ってくれていたんだと思う。
それでも、
どれほど好き合ってもそれ以上にはなれず、ひどい別れ方をしてしまったのだから、救いようがない。
別れたあの日のことを思い出すと今でも鳥肌が立つし、思い出したくないほどには、あの人への気持ちが冷めてしまったのかもしれない。
そう感じることが恐怖なのか不安なのか、今でもわからないけれど、あの頃に比べれば自由だ。
店主にどやされることはないし、同僚達からの妬みはあれど、これといって恨まれることはない。
好きに仕事ができて、客を選べて、外出だってできる。
普通の女みたいな人生ではなくとも、彼女と二人、道の真ん中で笑い合いながら、あれこれと話をするのは楽しかった。
お角という人は、気難しくて扱いにくい女だと聞いていたけれど、とても話しやすい人だ。
以前、道ですれ違った時には、きつい目を向けられたのに、仕事以外で話してみると、気の合う友人のように思われる。
高ちゃんは「いつも澄まし顔で、自分以外はみんな馬鹿だって思ってるのさ。仕事以外じゃ、あまり喋らないみたいだからね」と言っていたが、彼女は仕事に真面目で、私生活との
だから誤解されてしまう。
私のようだと思ったことに気づかないフリをして、「売れっ子になる技があるのかい?」と聞いてみたら、「この笑顔さ」とにっこり微笑まれた。
女も惚れちまいそうな艶やかな笑みは生まれつきで、それを武器に売れっ子になれたそうだが、私はハッキリと物を言うところが好感を持てた。
そういったところも男達に人気なのだろう。
私のように我儘なわけではなく、きちんと自分を持っているところに惹かれ始めた頃には、お互いのことを普通に話すことができていた。
途中、酒を買いに来たことを思い出して酒屋を探したけれど、入りやすそうな店が見つからず、付き合ってくれたお角と二人、残念がりながら表通りを戻る。
お角には「喋りすぎて悪かったねえ。後で何か詫びをするよ」と言われたけれど、「助けてもらったんだから、自分が礼をするよ」と返し、表通りを出るまで、その言い合いは続いた。
外はもうタ闇だ。
黒い空が自分達を追いかけてくるような
幸い、何事もなく新開へ戻ってこれたので、ホッと胸を動かした。
遠くに見える『菊の井』の明かりは相変わらずで、どこよりも明るく、優しく見えた気がする。
「じゃあ、私はこれで」
ひと足先に自分の店へ戻っていくお角に、「ああ」とだけ返事をしたが、互いの顔に浮かぶのは満足そうな笑みだった。
空は黒くなり、あちこちから客引きの声が聞こえてくる。
そろそろ『菊の井』も、店を開ける頃合いだろう。
手ぶらで敷居をくぐれば、渋い顔をしていた女主人が驚いた顔を見せ、続いて、心配そうに私を迎えてくれた高ちゃんも同じ顔を見せる。
何も持っていない手をヒラヒラと見せれば、二人は呆気に取られたように、顔と手を見比べた。
「さあさ、店を開ける時間だよ。ほらほら、高ちゃん。早く支度をしよう。今日は久しぶりに、あんたの馴染みが来るって言っていただろう?」
「あ、ああ、そうだけど……珍しいね」
「何がだい?」
「何がって、最近の相方がいないじゃないか」
そう言って私の手を見る彼女は、疑うように上目遣いになった。
「どこかで飲んできたんだろう、とでも言いたげだねえ」
「そこまでは言わないけど、手ぶらなものだから少し……驚いただけさ」
尻すぼみにそう言うと、気まずいのか頭ごと視線を下げた。
確かにここ最近は酒ばかりを飲んで、酒を相手に仕事をしていたようなものだ。
それを何度か注意してくれたのが高ちゃんで、
気づかなかったとは言わないが、彼女達なりに心配してくれていたことに気がつくと、少しだけ嬉しさが込み上げてくる。
「……今日はいいことがあったから、酒はしばらく控えることにしたんだ。心配をかけたね」
そう言うと、高ちゃんは私を見て「いいことって?」と聞いてきた。
「いつか、話すよ」
それだけ答えると、彼女の腕を引いて奥へ行く。
支度を終えた女達が横を通り過ぎていく。
客への不満を口にしながら、彼女達はさっさと表へ出て行ってしまった。
準備部屋には、支度が終わっていない女達が半分以上残っていて、みんなくたびれた顔をしている。
彼女達の間をかき分け、空いた鏡台の前に座り、準備を進めれば、高ちゃんはもう何も言わず、私を見ることもなかった。
それをありがたいと思いつつ、少しだけ、薄情だな……と思ってしまった。
肩を出し、鏡の前の自分を見る。
少しずつ変わっていく鏡の中に、『菊の井のお力』が姿を現した。
お力は妖艶に、かつ無邪気に笑うと、緩めた胸元を輝かせて私に言う。
「さあ、今日も仕事の時間だよ」
暗くなった夜の街に明かりが灯り出せば、迷い込むように男達がやって来る。
それらを出迎えるのは、町で評判の女達。
彼女が笑えば、男も笑う。
彼女が
そうして今宵も、男女は闇の中。
それを見つめるのは、淡く輝く月だけだ。
……どこか遠くで狼が吠える。
気高く、悲しく、何かを求めるように。
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