第二十一話
お
夜空に浮かぶ月が眩しいくらいに輝く中で『菊の井』は、いつも以上に賑やかな宴を開いていた。
一階の奥にある大広間では、どこかの工場からやって来たという
酒も料理も次々と消えてなくなり、久しぶりの団体客に喜ぶ女達は我先にと、精一杯のもてなしをしている。
男達は礼儀作法など気にせず、丼を箸で叩きながら、
それだけ騒げば怒られるものだが、手の空いた女達も出てきてもてなすので、店の大部分の女達が大広間へと集まっている状態だ。
他に客のいる女達は
酒だけを飲んでさっさと帰る男を見送った女達は、もうひと稼ぎとばかりに、大騒ぎの中へと入っていく。
いつものように二階の
静かな空気を台無しにする歌と笑いが、静まり返る二階ではっきりと聞こえていた。
「今夜は、ゆっくり出来そうにないな」
そう言って結城は寝転ぶが、その顔は面白そうに笑っている。
この状況を愉快にさえ思っているようで、黙り込むお力に話しかけては、下から響く声に小さく笑うのだ。
しかしお力はうるさそうに、「はいはい、そうでございますね」などと
結城は「どうかしたか」と、見上げるように問いかけた。
「なんだ、また頭痛でも始まったか」
尋ねると、お力は薄く笑いながら「いいえ」と答える。
「なに。頭痛も何もしませんけれど、何度も繰り返すような持病が今この時になって、表に出てきただけのことです」
視線を合わせずにそう答えたお力に、結城は肘で体を起こし、中途半端な体勢のまま彼女を見た。
彼女は頭を押さえずに、うつむくように下を向いていて、顔色が少し悪い。
だが、体調が悪そうには見えず、結城は不思議なこともあるものだと、再び寝転んだ。
「お前が今抱えている持病というのは、
彼女は「いいえ」と答えて、「何を苛立って、怒らなければならないのですか」と笑う。
「ならば、
尋ねると、彼女は再び「いいえ」と答えて、「女にしか分からぬ
「それは僕だって遊び人だからな。少しは女のことをわかっていても、不思議はないだろうに」
失礼な奴だと、少しムッとして答えると、彼女は「すみません。可愛らしくて、つい」と笑う。
具合が悪いというわけではないようなので、医者を呼ぶほどではないようなのだが、かといって安心はできない。
お力が隠し事をするのは、何か大変なことがあるからだとわかっているため、これは見逃せないと話を戻した。
「それでは何だ?」
その言葉にお力は笑うのをやめ、困ったように結城を見てから、流すように視線を逸らした。
「それはどうも……言うことはできません」
申し訳なさも踏まえた上でのことか、うつむきがちにそう答えたお力に、結城は肘をついて顔を寄せる。
「しかし、他の客が聞いたのではなく、この僕が聞くのではないか。どんな事でも話さえしてくれれば、相談くらいには乗れそうだというのに。……まあ、いい。それで、どういう病気なんだ?」
結城が不満げにそう言うので、お力は「病気ではございません」と、薄く笑って答える。
「病気ではないと言うなら、いったい何なんだ? まさか、僕との時間が嫌な病気ではあるまいな」
「そんな大層な病があれば、胸の奥が苦しくなるだけで、それ以外に悪いところはございませんよ。
よほどおかしかったのか、彼女はしばらく笑い続け、結城は不満げに彼女を見つめることしか出来なかった。
そうして、笑いが落ち着くと、お力は目元を袖で拭いながら、楽しそうに笑みを浮かべ、「ああ面白かった。結城様が心配なさることはありません。ただ、こんな風になって、こんな事を思うのです」と言ったのだ。
結城は首を傾げる。
「何がどうなった、と?」
聞き間違えたかと思い聞き返すが、彼女は、「ですから、こんな風になって、こんな事を思うのですよ」と笑うだけだ。
もう一度、「何がどんな風になり、どうしてそう思うのだ?」と聞き返すと、彼女は片手を畳につけて、上半身を支えながら、足を崩してしどけなく、最も楽な体勢になるよう体を斜めに倒した。
「……こんな仕事をしていれば、考えることは山ほどあります。そして、思うことだって砂の数ほどある、というだけのことです」
にっこりと言い切った彼女は、そこで話を打ち切った。
「さあさ、新しいお
襖を開けて注文をすれば、厨房を任された老婆の返事が聞こえてきた。
今夜は客の態度が悪いらしく、同時に、女達の文句が引っ切りなしだ。
「今夜は客の声と同じくらい文句も多そうだ。結城様、他に何か頼みましょうか?」
振り返って結城に尋ねれば、彼は少し考えて、「つまみをいくつか欲しい」と言ってきた。
品物は任せると言われたので、いくつか食べやすいものを追加で頼むと、盆に残るお銚子を空にしつつ、納得できない顔の結城に笑いかける。
「さて、今夜はしばらく騒がしそうですね。何か一曲、お好きなものでも弾きましょうか?」
柱に立てかけておいた三味線に視線を向けるが、結城は起き上がらずに、首を横に振るだけだ。
「では、お酒でも?」
それにも、首を横に振る。
では何を、とお力が続ける前に、結城は「お前の話が聞きたい」と言う。
「これまでずいぶんと時間を共にしてきたが、本当に困った人だ。一筋縄ではいかないところが厄介で、なのに、そこがひどく魅力的な人だ。だがそうなると、お前にはまだ、僕の知らないさまざまな秘密があると見える。そうだ、お
「言われませぬ」
はっきりと告げたお力に、「では、お
しかし結城は、「ならば、今までの事を教えてくれ」と言い、「職業でも出身でも友人の話でも、何でもいいから話してみろ」と、続けて問いかけていく。
しかしお力はうつむいたまま、「貴方には言われませぬ」と笑みも浮かべずに、固い声で答えるだけだった。
静まり返る部屋の中では、下から聞こえる
途切れることのない外からの音だけが聞こえる中で、二人はじっと黙り込む。
うつむくお力を見つめる結城と、
「……まあ、今は嘘のままでいいさ。僕にだって、そういう時があるからな。今は、嘘だけのお前でいい」
不機嫌な顔の結城に視線を戻したお力は、気づかれないようにホッと息を吐く。
乗り切れたとでも思っているのか、その顔も、
しかし、そこで結城は身を乗り出し、お力の目を見つめ、「だがな」と続ける。
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