第二十一話


 おかくに助けられた日から少し経った、ある夜のこと。

 夜空に浮かぶ月が眩しいくらいに輝く中で『菊の井』は、いつも以上に賑やかな宴を開いていた。

 一階の奥にある大広間では、どこかの工場からやって来たというこういんの一団が、日頃の疲れも忘れて派手に飲み食いしていて、店の外にまで大声が響く騒ぎとなっている。

 酒も料理も次々と消えてなくなり、久しぶりの団体客に喜ぶ女達は我先にと、精一杯のもてなしをしている。

 男達は礼儀作法など気にせず、丼を箸で叩きながら、みんようの『じん』や、りの『かっぽれ』などを大声で歌いわめく。

 きょうってくれば、ただ歌うだけではつまらなくなり、踊り出す者まで出てきて騒ぐ騒ぐ。

 それだけ騒げば怒られるものだが、手の空いた女達も出てきてもてなすので、店の大部分の女達が大広間へと集まっている状態だ。

 他に客のいる女達はすみに寄り、いい雰囲気になったところで別の場所へと移っていく。

 酒だけを飲んでさっさと帰る男を見送った女達は、もうひと稼ぎとばかりに、大騒ぎの中へと入っていく。

 いつものように二階のしきにいるのは、ゆうとお力の二人だけ。

 静かな空気を台無しにする歌と笑いが、静まり返る二階ではっきりと聞こえていた。

「今夜は、ゆっくり出来そうにないな」

 そう言って結城は寝転ぶが、その顔は面白そうに笑っている。

 この状況を愉快にさえ思っているようで、黙り込むお力に話しかけては、下から響く声に小さく笑うのだ。

 しかしお力はうるさそうに、「はいはい、そうでございますね」などとなまへんをして、あれこれと何かを考えている様子。

 結城は「どうかしたか」と、見上げるように問いかけた。

「なんだ、また頭痛でも始まったか」

 尋ねると、お力は薄く笑いながら「いいえ」と答える。

「なに。頭痛も何もしませんけれど、何度も繰り返すような持病が今この時になって、表に出てきただけのことです」

 視線を合わせずにそう答えたお力に、結城は肘で体を起こし、中途半端な体勢のまま彼女を見た。

 彼女は頭を押さえずに、うつむくように下を向いていて、顔色が少し悪い。

 だが、体調が悪そうには見えず、結城は不思議なこともあるものだと、再び寝転んだ。

「お前が今抱えている持病というのは、かんしゃくか?」

 彼女は「いいえ」と答えて、「何を苛立って、怒らなければならないのですか」と笑う。

「ならば、みちか?」

 尋ねると、彼女は再び「いいえ」と答えて、「女にしか分からぬやまいなど、貴方様の口から聞くとは思いませんでした」と、苦味を交えて微かに笑う。

「それは僕だって遊び人だからな。少しは女のことをわかっていても、不思議はないだろうに」

 失礼な奴だと、少しムッとして答えると、彼女は「すみません。可愛らしくて、つい」と笑う。

 具合が悪いというわけではないようなので、医者を呼ぶほどではないようなのだが、かといって安心はできない。

 お力が隠し事をするのは、何か大変なことがあるからだとわかっているため、これは見逃せないと話を戻した。

「それでは何だ?」

 その言葉にお力は笑うのをやめ、困ったように結城を見てから、流すように視線を逸らした。

「それはどうも……言うことはできません」

 申し訳なさも踏まえた上でのことか、うつむきがちにそう答えたお力に、結城は肘をついて顔を寄せる。

「しかし、他の客が聞いたのではなく、この僕が聞くのではないか。どんな事でも話さえしてくれれば、相談くらいには乗れそうだというのに。……まあ、いい。それで、どういう病気なんだ?」

 結城が不満げにそう言うので、お力は「病気ではございません」と、薄く笑って答える。

「病気ではないと言うなら、いったい何なんだ? まさか、僕との時間が嫌な病気ではあるまいな」

「そんな大層な病があれば、胸の奥が苦しくなるだけで、それ以外に悪いところはございませんよ。いて言うならば、会えない間は、貴方様のお顔を見たくて見たくてたまらなくなってしまうでしょう。そうしてお会いしても、また苦しくなってしまい、まともにお顔が見れません、となるだけでございます。そうやって、同じ事の繰り返しになる病だというのであれば、今もそうですから、この病とは違いますでしょうね」と言って笑うお力を、結城は「らかうな」と叱るが、彼女は楽しげに笑いながら、口元をてのひらで隠した。

 よほどおかしかったのか、彼女はしばらく笑い続け、結城は不満げに彼女を見つめることしか出来なかった。

 そうして、笑いが落ち着くと、お力は目元を袖で拭いながら、楽しそうに笑みを浮かべ、「ああ面白かった。結城様が心配なさることはありません。ただ、こんな風になって、こんな事を思うのです」と言ったのだ。

 結城は首を傾げる。

「何がどうなった、と?」

 聞き間違えたかと思い聞き返すが、彼女は、「ですから、こんな風になって、こんな事を思うのですよ」と笑うだけだ。

 もう一度、「何がどんな風になり、どうしてそう思うのだ?」と聞き返すと、彼女は片手を畳につけて、上半身を支えながら、足を崩してしどけなく、最も楽な体勢になるよう体を斜めに倒した。

「……こんな仕事をしていれば、考えることは山ほどあります。そして、思うことだって砂の数ほどある、というだけのことです」

 にっこりと言い切った彼女は、そこで話を打ち切った。

「さあさ、新しいおちょうでも頼みましょうか。誰か、お銚子の追加をお願いね。お力の部屋にだよ」

 襖を開けて注文をすれば、厨房を任された老婆の返事が聞こえてきた。

 今夜は客の態度が悪いらしく、同時に、女達の文句が引っ切りなしだ。

「今夜は客の声と同じくらい文句も多そうだ。結城様、他に何か頼みましょうか?」

 振り返って結城に尋ねれば、彼は少し考えて、「つまみをいくつか欲しい」と言ってきた。

 品物は任せると言われたので、いくつか食べやすいものを追加で頼むと、盆に残るお銚子を空にしつつ、納得できない顔の結城に笑いかける。

「さて、今夜はしばらく騒がしそうですね。何か一曲、お好きなものでも弾きましょうか?」

 柱に立てかけておいた三味線に視線を向けるが、結城は起き上がらずに、首を横に振るだけだ。

「では、お酒でも?」

 それにも、首を横に振る。

 では何を、とお力が続ける前に、結城は「お前の話が聞きたい」と言う。

 ほうけたように、無防備ともとれる表情をするお力に、結城は真面目な顔で話を続けた。

「これまでずいぶんと時間を共にしてきたが、本当に困った人だ。一筋縄ではいかないところが厄介で、なのに、そこがひどく魅力的な人だ。だがそうなると、お前にはまだ、僕の知らないさまざまな秘密があると見える。そうだ、おとっさんはどうしているんだ?」

「言われませぬ」

 はっきりと告げたお力に、「では、おっかさんは?」と問うが、この質問に対しても「言われませぬ」と答える。

 しかし結城は、「ならば、今までの事を教えてくれ」と言い、「職業でも出身でも友人の話でも、何でもいいから話してみろ」と、続けて問いかけていく。

 しかしお力はうつむいたまま、「貴方には言われませぬ」と笑みも浮かべずに、固い声で答えるだけだった。

 静まり返る部屋の中では、下から聞こえるけんそうと、遠くから聞こえる犬の遠吠えだけが、会話のように続いている。

 途切れることのない外からの音だけが聞こえる中で、二人はじっと黙り込む。

 うつむくお力を見つめる結城と、かたくなに過去の話を拒むお力の静かな攻防は、先に折れた結城がため息を吐くまで、誰にも知られず続けられた。

「……まあ、今は嘘のままでいいさ。僕にだって、そういう時があるからな。今は、嘘だけのお前でいい」

 不機嫌な顔の結城に視線を戻したお力は、気づかれないようにホッと息を吐く。

 乗り切れたとでも思っているのか、その顔も、あんしたと言わんばかりの緩み方だ。

 しかし、そこで結城は身を乗り出し、お力の目を見つめ、「だがな」と続ける。



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