第三十話


 滅多に聞くことがないお初の低い声に、源七はハッと顔を上げる。

 お初は重い息を吐き出しながらもう一度、「お前さん」と冷めた声で言う。

「もう考えるのはやめにしてください。食欲があろうとなかろうと、いという顔でお食事を召し上がってくださいな。太吉までが暗い気持ちになってしまい、落ち込んでしまいましたから」

 お初に言われて太吉を見れば、茶碗と箸を膳の上に置いて、あちこち視線を巡らせている。

 そうやって落ち着かない態度でいたかと思えば、父と母の顔を念入りに見比べ、何かを言いたそうにジッと見つめてくるのだ。

 不安そうに眉を下げ、話の内容までは理解できないようだが、幼いながらにも喧嘩をしているということはわかっているのだろう。

 自分のことで喧嘩をしているのか、それとも他に何かあるのかと、ひどく気になっているようだ。

 そんな息子を見た源七は、「こんな可愛い子供までいるというのに、あのようなずるがしこたぬきおんなを忘れられないとは、何のいんなのだろうな」と落ち込み始める。

 お初に向かって、「どうやら俺は、前世でよほどの悪人だったとみえる。あの女も同じだったのだろうか」と問いかければ、お初は「何を馬鹿なことをおっしゃいますか」と笑った。

「あなたほど、素晴らしいお方はおりませんよ。あの女にまどわされただけです。あの女こそ、前世で今と同じようなことをしたか、それ以上のあくぎょうを重ねた罪人だったのでございましょう」

 そう言って微笑むお初に、源七は「そうか」とだけ答える。

 自分も罪人であることに変わりはないのだろうが、それ以上に悪い者がいるというのは、こうも気持ちを落ち着かせるのか。

 そんな浅ましい考えを持ちながらも、女一人に何年もこだわる自分が情けなく思われて仕方がなかった。

 お力との関係は長かったと思う。

 結婚して子供が生まれてからも続いていた仲ではあったが、ある時から「もうやめておけ」と、いろいろな者達から止められていたことを思い出してきた。

 昔の遊び仲間からも、「これ以上は駄目だ」ときつく言われたが、それでもなお彼女に会いに行っていたのは、本当に惑わされていたからなのだろうか。

 妻の言葉を信じようとする反面、胸の中をひどくまわされるような感覚にみまわれて、「我ながら、れんがましい奴め」と自分を叱りつけると、苦い顔で笑う。

 夫の様子にお初は眉をひそめたが、「気にするな」とすぐに優しく微笑んだ源七に驚く。

「いや。俺だとて、そのようにいつまでも、過去にすがる馬鹿なままではいない。お力などと、名ばかりも言ってくれるな。その名を言われると、昔にやらかした多くのことを考え始めてしまって、どうしたって顔を上げられなくなってしまうのだからな」

「お前さん……」

 今までとは違う源七の態度に、お初は表情を緩ませ、わずかな笑みを顔に浮かばせる。

 それでも、自分をだまし続けてきた前例がある源七を相手に、本当の言葉かどうかを判断できずに困惑していると、「だが、こんなところで終わるつもりはないのだ」と彼は言い切ったのだ。

「何の、これしき。昔の俺ならいざ知らず、ここまで貧しくみじめになったうえでも、こうして生きてこられた身なのだ。今さら、何を恥だと思うのか。貧しかろうが、かたごとぜにを稼ごうが、過去の自分になど縋るものか。飯が食えぬと言っても、それは体の具合が悪いからなのであろう。何も取り立てて心配する必要はないから、太吉も腹がふくれるほど食べてくれ」

「あい」

 太吉は不安そうな顔をほころばせて嬉しそうに笑うと、食べかけのご飯を口いっぱいに頬張る。

 その様子を見てようやく安心できたのか、「ではお前さん、早くお上がりなさいませ」と、お初が声をかけるが、源七は、「いいや、今日はひどく暑い。どうも食欲が湧かないのだ」と答えるなり、えんがわ近くでコロリと横になってしまった。

「俺の分は、太吉とお前で食べてくれ」と言うと、胸元をハタハタとあおぎながら外を見る。

 あれほど頼りなかった様子の夫が変わったことに、いちまつあんを覚えたお初だったが、気のせいだろうと思い直し、食事を再開した。

 楽しげな母子の会話を耳に、りの煙が顔にかかるのも気にならないのか、彼はいっしんに何かを見続けている。

 暗くなった外には星一つなく、野犬の遠吠えが遠くから響いてくるだけの暗闇だ。

 何も見えない中で、悲鳴のように高く鳴く蚊の声が男にまとわりつき、むせぶほどに湧き上がる煙の中で、男は想いに燃えていた。

 身を焦がすほどの熱を胸に、夏の暑さのせいだと誤魔化しながら、男は暗闇の中に何かを見続ける。

 煙のように漂い、消えることなく残る何かを。



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