第二十九話


 視線の合わない夫への不満を飲み込み、噛んだ唇から続きを話し出す。

 我が子の前で話したくはなかったが、今は仕方がない。

「そんなところにいる者達など、到底まともではありません。を囲むことになった男達と知り合ったことで、サイコロが入ったつぼ以外にも興味が湧いたのでしょう。だんだんと悪いことをするようになってしまい、しまいにはぞうやぶりまでしたそうです。忍び込んだ蔵から金目のものを盗んだということで、若者はすぐにかんごくり。今頃は牢獄の中で、はかり用のうつわに盛られたもっそうめしでも食べているのでしょうね」

 裏道にある酒屋の若い者は、真面目で優しいと評判の男だった。

 幼くしてほうこうに出された子ではあったが、よく働く良い子で、源七が継いだ布団屋があった頃には、何度も顔を合わせたことがある顔見知りであった。

 主人の覚えめでたく、わかしゅと呼ばれるようになってからは、金を扱う仕事を任せられるようになったとかで、布団屋がなくなる前に、笑顔で教えてもらったことを今でも覚えている。

 そんな男が、自分と同じように女で落ちぶれているとは知らず、源七はお初に視線を向け、先をうながす。

 ようやく話を聞いてくれるとあんしたお初は、小さく息を吐き出し、話を続けた。

「未来ある若い者が、人生を棒に振ってまで自分に尽くしてくれていたというのに、恋仲にまでなったおかくは平気なもの。牢にまで入った男のことなど他人とばかりに、今も面白おかしく暮らしているのだそうですよ。それなのに、彼女を非難する人など一人もおらず、今でも『ふた』の看板娘として、男達から金をむしり取っては高笑い。監獄入りさせるほど男を魅了するなどとはやされて、店も彼女もはんじょうしているというのですから、監獄に入った若い者は報われません。哀れなことでございます」

 お初はうんざりした様子で話を終え、冷めたしるをひとすすり。

 源七も食べかけのやっこを一口食べると、続くように、太吉もご飯をひとくちほおった。

 これで終わりかと源七が思った時、お初は真っ直ぐに彼を見て、強い眼差しをぶつける。

「そんな二人について考えてみたのですが、お角のやったことは商売人のいっとくです。金を払ってお角に会いに行ったのは若い者の判断ですし、金を盗んだのも、ぞうに侵入したのも、若い者が自己満足のためにしでかしたこと。お角にとっては、『相手が勝手にやったことです』と言うだけで済む話なのですよ。あんな女達にだまされてしまったのは、いろまどわされた男側の罪。罰を受けるのも、その責任を取るのも、全ては騙された方なのです。そんな無責任で心のない相手のことを考えたとしても、都合の良いことが起こるわけではありませぬ」

 そう言って源七を睨みつけたお初は、箸を置いて姿勢を正す。

「お前さん。今が大事な時なのですよ。『菊の井』のことはもう言いません。あの女のことを責めるのも控えます。ですからもう、あの女に会いに行くのはやめてくださいませ。あの女のことで悩むくらいなら、気を取り直し、今やっているかたごとに精を出して、わずかな資金でも貯められるように心掛けてください。お前に弱られては、私も太吉も、どうすることもできないのですから、大変です。かせがしらを失った私達は、間違いなく、とうまよわなくてはなりません。今この時が、男らしく思い切る時。あんな女のことなどさっさと諦めて、まとまったお金を稼げるようになったのなら、お力はもちろんのこと、むらさきでもあげまきでも口説き落として、別荘でも建てて、好きに世話でもしたらよろしゅうござりましょう。私だって鬼ではございません。太吉ともども、暮らしに困らないようにしていただけるのならば、それくらいは目をつむります」

 視線を合わせながら話すお初だが、最後は軽く視線を外した。

 物分かりの良い女房ではあるが、「夫が愛人を囲うという面で潔癖なところが、まだまだ妻らしくない女だ」と、源七が遊び仲間に愚痴っていたことを彼女は知らない。

 それに、お初が口にした小紫と揚巻は、どちらもで有名な美女の名前だ。

 小紫は実在の人物で、同じく実在したというしらごんぱち――本名はひらごんぱちの愛人であり、吉原で有名な遊女だったという。

 うらという大きな店の遊女であったため、かなりの金持ちであっても、通い続けるのは難しい相手だったそうだ。

 小紫と権八は、恋人として思い合っていたそうだが、地元で父の同僚を惨殺したことが原因で江戸に逃げてきた権八にとっては、とても逢い続けられるような女性ではなかった。

 そのため、生活にこんきゅうした権八はつじりを行い、百三十人もの人を殺して金品を奪っては、小紫に逢うための金に換えていたが、罪悪感からか、それとも罪から逃れるためか、とある寺にかくまわれ、びととしてそうになる。

 大勢を辻斬りした殺人犯が虚無僧になるのは難しかったが、彼を匿った寺の者が便べんはかり、故郷の両親に逢うことを条件にしゃくはちを教え、半分はぞくに属する虚無僧にしたのではないかと思われる。

 そのまま虚無僧姿で尺八を吹きながら、故郷へと帰ったが、父母はすでに死亡していたため、彼は間もなく自首したという。

 強盗殺人の罪で死刑を言い渡された権八は、かぞどしの二十五歳でけい

 その遺体は、どこかの寺に埋葬された。

 その知らせを受けた小紫は、吉原を抜け出した後、彼の後を追ってぜんがいしたとされている。

 二人がいたというあかしは、権八の墓が建てられた寺の中にある『よくづか』でみられるが、その寺がはいとなったため、現在の移転先は不明とされている。

 もう一人の揚巻は、歌舞伎ものに登場する女性の名前で、すけろくという人物の相手役として有名な遊女だ。

 助六は歌舞伎における演目の一つの通称で、決まった人物を指すわけではない。

 しかし、てんを代表する作品の主人公が最も有名で、助六といえば、たいていはこの人物を指すことが多い。

 現在では『すけろくもの』などと呼ばれ、助六という主人公が登場する作品をひとくくりにされることもあるが、全ての作品で助六の登場する場面を、荒々しく演出することで有名だ。

 そういったことも踏まえ、いちがいに、「これが助六だ」と言えるものは一つしかなく、その作品に登場するのが、はなかわすけろくと呼ばれる人物で、彼が揚巻の相手役である。

 この作品で助六は、げんほうとうともきりまるひげきり)』を探すために吉原に通っているのだが、本名をろうという。

 さまざまな男達に喧嘩をふっかけては刀を抜かせ、『友切丸』かどうかを確認しようとするが、そこで登場する花魁おいらんの揚巻と、彼に言いよるひげきゅうという男のやり取りから、意休が『友切丸』を持っていることにかんづく。

 揚巻は頭が良く、とてもじょうあつい人物として演じられることが多いため、下心がある意休の話をうまくかわしたり、意休がわざと嫉妬させようとしたりする言葉にも上品に返し、助六にいちであった。

 助六は、自分の愛人である揚巻に言い寄る意休と接触し、どうにかして意休に刀を抜かせようとするがうまくいかず、しろざけりに身をやつした兄のじゅうろうの登場で、いったん話は変わる。

 兄との喧嘩、男装した母・まんこうとのやり取りがあり、兄との和解後、母と兄は共に故郷へと帰り、助六は短い再会を果たした家族と別れた。

 そうして一人残された助六は、自分の正体に気づいていた意休に、「源氏を裏切れ」とそそのかされるが応じることはなく、実はへいざんとうであった意休を切り、「友切丸」を取り返して吉原を抜け出すというのが大まかな話の流れだ。

 どちらの女性も美人でありながら情に厚く、一途で優しい女性として知られているが、最後には男を破滅させる原因となる。

 だからこそお初は、お力と並べて、たとえに出したのかもしれない。

 しかし、そんなお初の考えに気づかない源七は、まだ金があった頃に食べたすけろく寿のことを思い出し、少しだけ顔をうつむかせる。

 現在でもその名が残る助六寿司は、遊女・揚巻の名前から取られている。

 いなの「油げ」と「き寿司」に通じる名前であることから、「いなり寿司」と「き」で作られた寿司が入っているのだという。

 そんなしゃた言葉遊びで命名をされた、有名な組み合わせのすしめなのだ。

(いずれはお力にも、腹一杯食べさせてやろうと考えていたなあ……)

 源七が昔を思い出しかけた時、お初が「お前さん」と、厳しい声を出したのだ。



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