第二十八話
ハッとして顔を上げれば、不機嫌そうな夫が目に入る。
「何度も呼んだぞ」
そう言われて周りを見れば、いつもと変わらない我が家。
古いだけで、何の
夫と息子と三人で暮らしてなお狭い、そんな我が家だった。
「……すみません。考え事をしておりました」
「腹が減ったと太吉が
「はい」
夫に抱きつく我が子に目を向ければ、不安そうな顔でこちらを見ている。
どれほど考え込んでいたのかはわからないが、せっかくの
「今日は、あなたの好きな
丼より小さな
そこに、買ってきた豆腐を浮かせるようにスルリと入れると、水が
庭で採った
家中を歩き回っていた太吉が、いつの間にか流しの方へ来て、私の手元を覗きこんでいた。
「もう少しお待ち。すぐに持っていくからね」
言い聞かせるようにそう言うと、太吉は大きくうなずき、立ち上がったかと思えば
ご飯用の台の前まで行くと、自分の腰と同じくらいの高さから
飯櫃――おひつには、炊いたばかりのご飯が入っているので、
親子三人の一食分ではあるが、そこは貧乏長屋。
四歳の子が持ち上げられる程度にしかご飯が入っていないため、他の子より小柄な息子でも、少し頑張れば持っていける。
それを知っているため、私は何も言わず、手伝いをしたがる太吉に運ばせたのだ。
幼い息子が
しかし、せっかく三人でご飯を食べられるのだからと、自分の中に湧き上がった暗い気持ちを無視し、夕飯の準備を終えた。
おひつを運び終えた太吉は、すでに座っていたので、その前に太吉用の膳を置く。
今か今かと食事が始まるのを行儀良く待っている姿が微笑ましく、口元がほころぶ。
涼んでいる源七の前にも膳を置くと、源七は太吉に声をかけた。
「坊主は俺の近くに来い」
暑いところにいると思ったからか、それとも我が子を可愛く思ってからか。
源七に呼ばれた太吉が、自分の膳を持って源七のそばに座ると、その頭を柔らかく撫でられた。
まだ全て
お初も口元をほころばせながらご飯を分け終えると、自分の膳の前に座った。
「さあ、いただきましょう」
少し
源七も太吉を撫でながら食事を始めるが、口元に冷や奴を運んだはいいものの、口をつけずに戻してしまった。
どうも箸が進まないようで、ご飯を食べようとしても味噌汁を食べようとしても同じだった。
(ああ、またか――)
源七は力なくそう思った。
心の中で何かが引っ掛かるということはないのに、箸を持つのでさえ
そうなってくると、舌に感覚がなくなったかのように何も感じなくなり、喉の奥が腫れたようにもなってくる。
「もう
自分自身でもよくわからない不調に気がついたのはお初だ。
「どうなさりましたか」
先ほどまでの上機嫌とは打って変わり、細めた目が源七を射抜く。
「どうも何も、見ての通りだ。もういらぬ」
源七はその視線に気づかずに、わずかに手が付けられただけの膳を前にそう答える。
再び遠い目をしようとした夫に対して、お初はギロリと夫を睨みつけ、「そんなことがありますものか」と叱りつけた。
「力仕事をする人が、朝昼晩と
「それは……」
見逃しはしないと視線をそらさないお初に、源七はため息が出そうになったが、息の代わりに「いや、そうではない」と、かろうじて声を出す。
「どこも、何とも無いようなのだけれど……ただ、食べる気にならない。口に入れても飲み込むことができないのだから、どうしようもないのだ」
その言葉を聞いて、お初は悲しい目をした。
「……お前さん。また、いつものが起こったのでしょう」
お初の口から、こぼれるように言葉が出る。
「それは、我が家で出す食事に比べれば、『菊の井』の
私の話が気まずいのか、それとも話す気になれないのか。
夫は黙ってうつむいたままだ。
「先は、
それを理解しておりますか、と聞くが、返事もない。
黙り込む夫に呆れた顔もできないまま、お初の言葉は続いていく。
「騙されたのはあなたの勝手であり、あなたの自業自得。素直に受け入れて、『ああ、俺が勝手に貧乏になったのだから、
食べるのを
昔のことを思い出しているのか、いまだに未練がましい夫に呆れているのかはわからない。
手のつけられなくなった膳の周りを数匹の蚊が飛び、縁側から流れてきた
「裏町の酒屋の若い者。知っていますでしょう? 狭い路地に面した古い酒屋で働く、
うつむいた源七へ語りかけるが、返事どころか反応もない。
しかし、それでもお初は話を続けていく。
「あの子は
お初がひと呼吸入れると、夢中でご飯を頬張っていた太吉の手が止まる。
幼いながらもよからぬ空気を察したのか、口を動かすのをやめて、うつむく父親を静かに見上げる。
何の反応もない源七を心配そうに見つめていたが、真剣な眼差しのお初に気がつくと、首を動かして母親へと顔を向けた。
太吉の心配そうな瞳は
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