第二十七話


 ようやく正気を取り戻したのか、しっかりとした動きで振り返り、「おお、そうだな」と、思い出したように帯を解き始めた。

 太吉も父親にならって帯を解くと、裸のままがりがまちを下りて、並ぶようにぎょうずいを始める。

 一杯二杯と、なみなみと入っていたお湯は、あっという間に半分なくなった。

 太吉には充分な量だが、大人の源七には少なく、父子二人で使うにはどうしても足りない。

 それでも源七は文句一つ言わずに、手拭いで体の泥をぬぐい落としながら、タライの中へ入った太吉にお湯を汲んでやる。

「お父さん、ありがと」

 つたない声でそう言われ、我が子の可愛さに笑みがこぼれると、なんとなくではあるが昔の自分を思い出してしまった。

「……幅が二・七メートル、奥行きが三・六メートルほどしかないしゃくけんの貧乏なうらなが。女子供がやっと立てるほどしかない台所の隅で、タライ一杯のお湯を使い、行水することになるとは、夢にも思わなかったものだ。ましてや、土木作業の労働者としてかたごとの手伝いをし、ぐるまの後ろを押したりするなどとはな……。そんなことをさせるために、親は俺を産んでくれたわけではないだろうに……。ああ、つまらない夢を見たばかりに、こんなことになるなんてなあ……」

 水面に映る自分の顔を見ながら、抑えきれない感情が身に染みたのか、源七はそのまま動かなくなる。

 またぼうっとし始め、タライの中でお湯をかけられるのを楽しんでいた太吉が振り返ったことにすら気がつかない。

 声をかけても返事がない父親の顔をじっと見上げた太吉は、小さな唇をぎゅっと閉じ、お初が気づく前にニコリとした。

「父ちゃん。背中、洗っておくれ」

 遠い目をする源七の手を握り、太吉は無邪気にさいそくをする。

 その声にお初が顔を上げると、夕食の準備を進める手を止めて振り向く。

「ねえ、いいだろ? ねえ」

 甘えるように源七の手をブラブラと動かすが、源七は気づかずぼうっとしたまま。

 またかと、お初の口からため息が出た。

 夫の肩に手を置いて、「お前さん」と声をかけるが、反応はない。

 このままにしておくわけにもいかず、何度か肩を揺さぶると少し大きな声で、「蚊が刺してきますから、さっさとお上がりなされ。いくら暑いとはいえ、太吉が風邪を引いてしまいますから、どうかお早く」と、言い聞かせるように言った。

 そこで源七も、ようやく太吉が手を引っ張っていることに気がつき、自分を見上げる息子と目を合わせた。

「おい、おい」と返事をしながら桶をタライにれ、「どれ、どこにかける?」と太吉に聞けば、「あのね、背中を洗っておくれ」と嬉しそうに振り返り、子供特有の丸いお尻を父親に向ける。

 足踏みしながら「まだ? まだ?」と待つ息子を微笑ましく思ったのか、源七はフッと笑い、少しだけ冷めたお湯をゆっくりとかけてやる。

「気持ちいいね」と笑う太吉を横目に、源七の様子にも気を配るのがお初の癖になっていた。

 源七が正気を失うのは、何も今に始まった事ではない。

 あの女と別れた直後など、手がつけられないほど暴れたこともあるし、周囲から気が狂ったと言われるほどに奇行を繰り返したことだってある。

 店を手放し、家具を売り、着物も装飾品も売れるものはなんでも売って、生活費にてていた頃が一番苦しかった。

 その生活費ですら、夫はお構いなしに使い切っていたからだ。

 逃げたお力を追いかける夫は、金があればお力に会うためだと惜しみなく使い、私の嫁入り道具まで金に換えた。

 夫の行動を叱ってくれていた義父母が相次いで亡くなると、私では止められず、夫の散財はますますひどいものとなった。

 一年も経たずに売れるものが無くなると、数代続いた布団屋は潰れ、私達はのまま家を追い出されたのだ。

 この裏長屋に流れ着いた時にはどうなるかと思ったが、この最低限の生活が、夫を正気に戻してくれたのかもしれない。

 最初こそ、夫はあれこれと昔を思い、過去を懐かしむことがあったが、あの女の影が薄れていくのが最優先であったから、何度も叱っては現実に戻させていた。

 次第に正気に戻る時間が増えていくのを見て、ようやく一息つけるようになった今、どれほど生活に苦しもうが、金を使われようが、あの女を忘れようとする気持ちがあるからこそ耐えられる。

 そうやって穏やかな雰囲気の中、お湯がほとんどなくなるまで行水をした源七は、太吉にも桶を渡して自分でお湯を浴びさせ、自分も最後にひとすくぶんだけ浴びると、手拭いで水気を拭き取って上がり框を上がった。

 太吉は半分濡れた状態だったが、狭い部屋ではすぐに捕まえられるため、「お前さん、頼みますよ」と言うと、源七が息子を片手で抱え込む。

 多少乱暴な手つきではあったが、久しぶりに父親に構ってもらえたからか、不満げだった太吉はすぐに上機嫌だ。

 そんな様子を見ていたお初も、キリの良いところで手を止めて部屋に上がると、古い浴衣ゆかたを二人分出す。

 洗いすぎて白くなった浴衣を「お着替えなさいまし」と言って夫に差し出すと、源七は慣れた手付きで着替え始める。

 太吉も父親にならって一人で着ようしたが、「やってあげるからお待ち」と母親に言われて、しぶしぶ帯を差し出した。

 お初は慣れた手付きで太吉の帯を締め、振り返ったお腹をポンと軽く叩いて終わりだと告げる。

「ご飯だから、大人しくしているんだよ」と言うと、太吉は嬉しそうに「うん」と大きくうなずいた。

「今日は暑いですから、冷たいものをお出ししますね」

 夫に声をかけると、「ああ」と返事がある。

「今日は庭を見ながら食べましょうか」

「ああ、わかった」

 源七の素っ気ない返事を背に流しへり、上がり框の隅に置いたどんぶりを出す。

 それから流し近くに置いたしろぜんを三つ並べ、夕飯の用意を始めた。

 しろというところで作られたこの膳は、まいのような板状の脚が二つ、四角い台の両端に付いているのが特徴だ。

 嫁いでからずっと使っていたので思い入れが強く、最後まで手放さずにいたものだ。

 食器を入れた桶から茶碗やしるわんを取り出し、一つずつ膳の上に載せていくと、あれほどしっかりしていた脚がよろめき、ゆらりとフラつく。

「……そろそろ壊れそうだけれど、買い換えるにしても直してもらうにしてもお金がかかってしまうし、もう少し使えるかしら?」

「これだけは」と今まで意地で使ってきたが、少しずつ壊れていくのを見て、だんだんと嫌な気持ちになってくる。

 美しかったうるしげかけているし、かなり前からぶつと呼べるほどボロボロになっているから、見た目だって悪い。

 いっそのこと脚を取って、平らな盆にでもしてしまおうかと考えたりもするが、きっと捨てるまでこのままなのだろうなと、何もせずに使い続けている。

 そっと指先で膳を撫でると、つやのない自分の爪が目に入る。

 肌も髪もボロボロで、化粧など何年もしていない。

 自分よりも家族のためにと必死だったのだから、仕方がない。

 こんな貧しい暮らしでは、おしゃれなど恥ずかしいだけだ。

 そっと爪を隠すように手のひらでおおうが、それでも時々は考えてしまう。

 自分はこの膳のように使い古され、いつ捨てられてもおかしくないのではないのか、と。

 若くもなく、綺麗でもない自分に魅力はない。

 金さえあれば、女などいくらでも買うことができる今、女房がいようと子供がいようと、恋する男には関係のないことなのだろうか。

 父の言うことを聞いて結婚し、嫁いでからは夫の言うことを聞いて義父母に尽くした。

 男の子を産んで跡取りができたと言うのに、今の自分は何なのだろう。

 むなしいとも悲しいとも言えない感情に駆られ、唇を強く噛み締める。

 振り返る過去のつらさに、頭がおかしくなりそうだった。

 もう、いっそのこと――。

「お初」



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