第二十六話


「もう日が暮れたというのに、きちはどうして帰って来ない。げんさんもまた、どこをほっつき歩いているのかしら」

 くたびれて低くなった声をこぼしながら、おはつはさっさと今日の分の仕事を終わらせる。

 いつもと変わらない仕事量のため、慣れた今では平気だろうと思っていたのだが、タバコに火をつけ煙を吸うと途端に、目の前が急にぼやけた。

 お初にとっては、これこそが慣れたことで、疲れが溜まり体が苦しいのか、しきりにまばたきをしてしまう。

 それでも、やることはまだまだある。

 火を入れたばちばしを突っ込むと、びんを置いているとくしたをほじくって、白くなりかけの炭を取り出し、ばちに火を取り分ける。

 使い古されて黒ずんではいるが、まだ使えるからと使い続けているものだ。

 それに、どんなに貧しくとも、蚊遣り火鉢は夏に欠かせないものだ。

 せんこうという、便利で手間のかからないものは高価で買えないため、が今でも主流であり、庶民にとっては夏のふうぶつのままである。

 その歴史はとても古く、千年以上もあるのだと誰かに聞いたことがあった。

 とは、蚊を追い払うための煙や、その煙を起こすための火のことで、蚊遣り火をくための道具がばちと呼ばれている。

 いぶばちともいうが、火鉢型の小柄なかなもので、もう少し良いものだと、可愛らしい豚の形などがある。

 しかし、値段の高いものを手に出来ないお初の家では、昔ながらの蚊遣り火鉢が使われていて、家の雰囲気によく合っていた。

 蚊遣り火鉢には、見た目が綺麗で比較的扱いやすいとうせいのものもあるが、そういったものは壊れやすく、値段もそれなりにするので、庶民が使うのは主に金属製のねんはいったこっとうひんがほとんどだった。

 この家では、それよりさらに古い時代のものが使われていて、家から持ち出したのか、元からこの家にあったのかすらも覚えていない、蓋付きのびたものだ。

 蓋には煙を出すための細かい穴が空いていて、煙のせいか火のせいか、中に入れる松ヤニが大量にこびりついている。

 いつ壊れてもおかしくない物ではあるが、我が子が火傷しにくいからと、とてもちょうほうしていた。

 日が落ちてからは、よりいっそう蚊が出てくるため、外した蓋の穴を指で軽く掃除しながら、三尺の縁側に持ち出し、定位置に置く。

 山から拾ってきた杉の葉を赤く燃える炭の上にかぶせて、フウフウと強く息を吹きかけて火を燃え移らせれば、フスフスと音を立てて白い煙が立ちのぼっていく。

 たちまちのうちに高く上がった煙の中からは、慌ててのきのがれる蚊の声が聞こえ始め、われさきにと生き残るために、プンプン、ブンブンと音が重なりやかましくなる。

 昔ながらのやり方ではあるものの、その効果は絶大で、いっこうまない蚊の声の凄まじさがその威力を物語っていた。

「……今日も暑いね。汗をかいているからか、ますます蚊が寄ってくるようだわ」

 家の中にも煙を充満させ、ほころびを見せる団扇うちわで家中を仰ぎながら蚊を外へ追いやると、ようやく家の中が静かになった。

 匂いが強く、狭い長屋では息苦しくなる蚊遣り火だが、少しの間でも蚊がいなくなるだけでありがたい。

 寝る頃にもう一度焚けば、後は縁側のしょうを閉めるだけで十分だ。

 お初はくわえたままのタバコを吸い終えると、火鉢の中へ入れ、燃える炭の下に入れて証拠を消す。

 女性がタバコなんかを吸っていれば、どこぞのしょうわるねこのようにしょうばいおんなだと陰口を叩かれて噂になるため、こうして無かったことにするのもじょたしなみだ。

 幸いにもタバコの匂いは杉の葉の煙にかき消され、残りのタバコも綺麗に燃えてくれたので、今日も我が子にバレることはないだろう。

 日々の苦労と夫の態度から、少しでも気晴らしになるようにと始めたものだけれど、キセルに比べればやはり質が落ちる。

(綺麗なキセルを手に、こっそりと楽しんでいた時間が懐かしい……)

 今でこそ慣れたが、慣れてしまったからこそ悔しい。

 せめて夫が――あの人さえしっかりしてくれれば、やり直すことはいくらでもできるというのに。

 あの人だって若いし、私だってまだ若いのだ。

 私の内職だけでは、子供の食事すら満足に用意できない今、これほどまでに苦労しなければならないのは、あの人が女にうつつを抜かし続けているからなのであろう。

 女の手練手管でダメになる男など、今も昔も星の数ほど居よう。

 自分自身がその一人になったというだけで、女房子供に苦労をさせ、自分一人だけが不幸だと思うのはあまりにも勝手すぎる話だ。

 立ち直る男がいるのだからお前さんも、と言い聞かせてはきたが、もう諦めてしまった方がいいのかもしれない。

 そう思うようになってから、つらいと感じることが増えてきた。

 何もかも無くしたというのに、それでもなお、私達を苦しめ続ける女がいる。

 あいつさえいなければ、今頃私は綺麗な服を着ていものを食べ、家事も何もかもをやとにんに任せ、友人や婦人仲間に囲まれながらちやほやされて、夫の隣で何不自由ない生活ができていたというのに。

「……あの女さえいなければ」

 口からこぼれた瞬間、外でガタリと音が鳴った。

 ガタガタとドブいたを鳴らす音が聞こえ、重なるように子供の高い声が聞こえてくる。

 近づいてくるその声に、慌てて炭を綺麗に直すと、少しでも匂いを逃がそうと団扇を手に取り、外へ向かって大きく仰いだ。

 縁側ではいまだに蚊の声がうるさいものの、部屋の中はだんだんと落ち着いてきていて、煙の量も軒下を覆うほどになっている。

 後で追加の杉を被せようと火鉢から離れると、夕食の準備をするためにと立ち上がったところで出入り口の戸が開き、息子――太吉が可愛らしい顔を覗かせた。

かかさん、ただいま。おとっさんも連れて来たよ」

 嬉しそうに出入り口から大きな声で父親を呼ぶので、「そんな大声を出さなくても聞こえているよ」と叱る。

 まだ小さいが、昔の家の感覚が抜けていない息子は、こうしてたびたび家の大きさに似合わないことをしてくるのだ。

「それとね、太吉。かかさんじゃなくておっかさんだよ。おとっさんじゃなくて、ととさんだからね」

「うん、おっかさん」

 言葉遣いも昔のままなので、貧しくなり始めた頃は陰口がひどかった。

「落ちぶれているのに、まだ金持ち気分が抜けないのかねえ。あんなボロ切れ着た子供に、裕福な家の呼び方なんてさせてさ」などと、息子を通して私を悪く言う人達の話が、あちらこちらから聞こえてくることがあったくらいだ。

 ものごころもつかない子供相手に何を言う、恥ずかしいのはお前達だ、くらいは言ってやりたかったが、お初に対しても、「気位ばかり高いから、夫が他の女に夢中になるんだよ」と陰口を言われたことがあるため、思い当たってしまった彼女は、言い返すことができなくなってしまったのだ。

 どの家よりも貧しくなってからは、陰口を言われることこそなくなったが、代わりにとばかりに、夫の行動と我が家の家計状況を憐れむ目が増えたのはつらかった。

 けれど、私だけでもしっかりしないとと思い直し、出入り口に立ったままの太吉へ笑顔を向ける。

「あまりにも遅い帰りではないか。お寺のけいだいへでも行ってしまったのではないのかと、どれほど心配したことか。さあ、早く家の中へお入り」

 優しい声でそう言うと、太吉は元気よく「うん」と答えた。

 するとげんしちが太吉を先頭にして、元気なく出入り口をくぐって来たのだ。

 うつむいたまま、がりがまちを軽い動作でぬっと上がると、音もなく姿を現した夫に驚いたお初が「おや」と声を出す。

「お前さんもお帰りか。今日はどれほど暑かったことでしょうね。おそらく帰りが早いだろうと思いまして、ぎょうずいのお湯を沸かしておきました。ざっと汗を流したらどうでございますか。さあさ、太吉も。父さんと一緒におぶうに入りな」

 夫に声をかけていると、太吉も汗だくのまま上がり框を上がってくる。

 そのまま奥に行こうとしたので、片腕で軽くとおせんぼをし、「着物を脱ぎな。おぶうが先だよ」と言えば、太吉は「あい」と素直にうなずいた。

 そのまま出入り口の近くでおびはじめたので、「お待ちお待ち」と慌てて止めに入る。

「今おの加減を見てやるから、帯を解くのはお待ち」

「あい」

 今にも裸になりそうな息子を止め、お初は台所の流しの方へ大きなタライを持っていく。

 太吉が余裕で入れる大きさの物を古びた流しの横に置くと、あらかじめ沸かしておいたかまの湯に小さなおけを入れた。

 洗い物に使った桶ではあるが、風呂や掃除用に使う釜だからと気にすることはなく、タライの中へ次々お湯を入れていく。

 若干ゴミが浮いていたが、これくらいなら平気だとかめに貯めておいた水を入れ、大きなゴミを取りながら何度も何度も水を入れる。

 まだまだ熱いが、ちょうど良い温度になるまでの我慢だと、手を赤くしながらかき混ぜ続けた。

 しばらく水を足していくと、お湯から手を出して涼しいくらいに冷めた。

 太吉に合わせた温度に調整し直すと、タライと一緒に持ってきた手ぬぐいを中へ入れ、狭いへと下ろす。

 待ち構えていた太吉が帯を解いたので、奥の部屋で背中を丸める夫を呼ぶ。

「さあ、お前さん。この子も一緒におぶうへ入れてやってくださいな」

 返事のない夫に呆れることはなく、強い口調でさらに呼びかける。

「何をぐったりとしていらっしゃる。暑さにでもやられて、ダルくなってしまいましたか? そうでなければ、お湯をタライいっぱい浴びてサッパリしたなら、食事を召し上がってくださいな。太吉が待っていますから、さあ、お早く」

 源七が、ハッとした顔を上げる。



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