第四章
第二十五話
海を正面、山を背にした町の外れに、多くの建物が密集しているところがある。
そこには、八百屋という名前をそのままに、変わった品から日用品まで幅広く取り扱う店もあれば、知ったかぶりにはちょうど良いとばかりに、難しい名前の専門店を出す変わり者までいる。
その中でも、野菜や果物など、季節の食材を売るだけの小さな店と、今では珍しくなってしまった男の髪結いがいる
そのくせ屋根同士がくっつき合うことがないため、雨が降ればあっさりと濡れてしまうのに、傘を差すことができないほどの窮屈さに加えて、整備されたことのない足下には、ところどころにドブ
どこの板が開いているのか、いつ板が割れてしまうのかすらもわからない
一軒一軒が並んでいるだけなのかと思いきや、よくよく見れば、いくつかの家は壁一枚でつながっていて、一つの建物に、複数の家が入っているようにも見える。
新しく建てられた長屋には、分厚い壁があるので、隣との
あちらの家では子供達が取っ組み合いの喧嘩をしているし、こちらの家では若い新婚の夫婦が身を寄せ合い、真昼間から甘い時間を過ごしている。
お熱いことで、とうんざりしている間もなく、
他人の家のことが丸聞こえの場所なので、何かが起こればすぐに噂の
かといって家に引きこもっていられるほど、人間関係を希薄には出来ない場所なので、ご近所付き合いは避けて通れないのだ。
戸を開けて出てくる人々が顔を合わせれば、困った顔で笑いながら頭を下げ、「うるさくてすみません」と謝りながら「いえいえ、こちらこそ」と笑顔を返す。
そうやってお互いに、いい距離感を持ってお付き合いをしているのだろうけれど、どこにだって例外はある。
棟割り長屋が立ち並ぶ、奥の奥。
その突き当たりには、ゴミ捨て場がある。
ここは長屋で出るゴミがまとめて捨てられる場所で、ゴミ溜めとも呼ばれるひどい臭いが立ち込める場所だ。
そのすぐそばに、横幅が約二・七メートル、奥行きが約三・六メートルある、
破れかけの障子が貼られたままの戸を横に引くと、ろくに手入れをされていない
上がり框は、床を地面より一段上げる際に置かれる横木のことだが、年数が経ちすぎていて腐り果て、見る影もないほどボロボロだ。
開けようにも開かず、閉めようにも閉まらないため、夏も冬も不用心に開けっぱなしだ。
そんなことをしていても、誰も気にならないのは、ここが他よりずっと貧しいと知られているからだろう。
そうでなければ、あっという間に家の中は荒らされるだろうし、雨戸だって開け閉めができる良いものに変えているはずだ。
その証拠に建物自体が軽く傾いていて、外から見ても金目のものがないのは、
それでも流石に出入り口のみの
九十センチ――
それなりの広さではあるものの、洗濯物を干すくらいがちょうど良いため、普通の長屋では定期的に人の出入りがある場所だろう。
しかし、何着も衣服を持っていない家庭が多いこの長屋では、ほとんどの家で使っていないような場所だ。
表側の長屋にもあるが、そちらほど生活にゆとりのある人がいないこともあり、
そんな狭い土地の端っこ――隣の敷地に入らないギリギリのところまで簡単な囲いを作り、
ゴミ溜めのすぐそば――最も家賃の安いその家の一帯は、良くも悪くも有名な場所だ。
敷地の外と区別するために、あらかじめ
それを利用して、隠元豆の蔓などを絡ませて上に伸ばしているため、外からは「あそこが
そうでなくとも、どの家よりも整えられた場所になっているため、
そう。ここは源七の家。
あの源七が住む家だ。
かつての華やかさなどない家の中には、お
今年で二十八歳か二十九歳になるであろう若い女性だが、その姿は老婆に見えそうなほどくたびれている。
人が見れば三十五か、六か。
とても、どこぞの奥方様だったとは考えられない
あまりの貧しさに身なりなど整えられず、
かつては、お歯黒と同じくらい、綺麗に黒く塗られていた眉毛など見る影もなく、洗いすぎて白くなりかけの
有名な
さらには正座をよくするので、布が薄くなってしまった膝の辺りなどには、似たような柄のもので、細かく縫われた
締めている帯も、普通の帯の半分ほどしか長さの
しかしこんな身分にまで落ちぶれては、以前のように立派な帯など締められるはずもなく、頼りない半幅帯をキリリときつく締めて、家の半分を使い、家計の足しになるようにと内職までしている有様だ。
昔の自分が知ったら倒れそうだが、今の彼女にとっては収入を得られる貴重な仕事なのだ。
お初がやっているのは、
さほど稼げはしないものの、女性の仕事としてはなかなかの収入になるため、手先が器用な女性であれば未婚でも出来ると評判の仕事だ。
茶道で有名な
水に強い竹製のものが主流で、鼻緒に足の指を引っ掛けるだけで履けるため、多くの人が利用してきた手軽な履物としても有名なものだ。
昔は
雪道で使えるものとして利用されてきたが、手軽さと通気性の良さから夏にも重宝されるようになり、今では季節を問わず幅広く使われるものとなっていた。
しかし高さがほとんどないため、昔ながらのものでは汚れやすく、雨でも降ろうものなら、あっという間に足元が濡れてしまうことが問題視されていた。
そうならないようにと、丈夫な
敷物の種類は多いが、特に細かく編まれたものを
これは模様が蝉の羽に似ているため、そう呼ばれているのだそうだ。
全体では
繊細な編み方ほど高値がつくため、少しでも家計の足しにしたいと
お初もその一人で、お盆になる前から今まで、暑さが本格的になる頃になってからも、今が稼ぎ時だと、大量の汗をかきながら大忙しで仕事をしている。
少しでも多くの物を編めるようにと、狭い部屋の幅をうまく利用し、天井を交差するように掛けた紐には、これでもかという量の籐紐がぶら下がっていて、少しでも時間が惜しいとばかりに作業場所は散らかし放題だ。
とても女性がいる家には見えないが、見栄えを気にしていられるほど余裕があるはずもなく、恥も外聞も関係ないと、いつもそのままだった。
とにかく稼ぐことが現在の目標なので、お初は特に気にした素振りを見せることはない。
すぐに仕事ができるようにと作った環境なので、ぶら下げられた籐が
一つでも多くの蝉表を作ることを楽しみに、脇目も振らず働く姿は、どこか悲しいものに見える。
そうやって、がむしゃらに働く彼女の生きがいはといえば、今は家にいない二人の男達だ。
片方の行方は知らないが、もう片方はそろそろ帰ってくる頃合いだというのに、いつまで経っても姿を見せない。
キリの良いところで手を止めると、お初は出入り口へと顔を向けた。
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