第二十四話
「僕のことを夢に見てくれるほど嘘偽りのない想いがあるのならば、『奥様にしてください』くらいは言いそうなものなのになあ。そんなことをまったく何も言われないのは、どんな理由からか。一度教えてもらいたいものだ」
「そんなこと……。私の口からは、とても……」
困り顔でお力は言うが、彼女の珍しく弱気な姿に、結城の話は止まらない。
「古い考え方に頼った表現になるが、
微笑んで言い切った結城を、お力は困り顔で笑う。
「貴方の言う通り、こうやって出会えたのも、前世からの縁なのでしょうね。ですが、それだけで全てを語れるのならば、とっくの昔に、語る相手などおりましたよ。それでも駄目だったのですから、やはり私は、縁というものがとんと無いのでございましょう」
しかし結城は真面目な顔で、「またお前は」と叱りつける。
聞き分けのない相手を諭すように「何度も言わせるな」と言った彼は、浮いた腰を下ろして
「僕はまた、お前のような
じっと目を見つめ、そらすことを許さない結城。
これまでは誤魔化されてきたがもう、お力の返答次第でその態度を変えるつもりはないようだ。
雨の日からの縁でここまで付き合いが続き、互いに悪い感情もなく、男女としても相性は悪くないと思っていた。
しかし、いつまで経っても身の上話をしてこないお力に
今さら女の誤魔化しについて、あれやこれやと文句を言って怒るほど、彼自身、若くはないと実感しているものの、それでもお力には、少しでも
彼女に恋人がいたこと、今でも縁があること、相手が今でも会いに来ることなど、この店に来れば嫌でも耳に入る話ではあるが、結城が気になるのはそこではない。
「お前の話を、聞かせてはくれないか」
ただ、それだけだった。
見つめ合う二人の沈黙を破ったのは、小さく息を漏らしたお力からだった。
「……
「なぜだ? どうしてそんなことを言うのだ」
結城が問いただすと、お力は「なぜと言われても話せません」とはっきり答える。
「これは、私が自分勝手であるのが原因のことですので、お話しするまいと思ってしまう時は、どうしても嫌なのでございます」
そう言ってサッと立ち、隣部屋とつながる廊下のような縁側へ身を入れると、静かにガラス戸に手を置く。
一階へつながる廊下とは別に、店の二階には屋根付きの広い縁側があり、ガラス戸越しに夜の街が見下ろせるようになっているため、角部屋の窓から見るよりもずっと眺めが良い。
店の女達からは昼間でも薄暗いからと人気がなく、客も好んで利用しないため使われることは少ないが、外を通りかかる男達には大人気だった。
昼でも夜でも通りかかると、たまにこうして、外を眺める『菊の井』の女が見えると評判の場所になっているため、見下ろす道にはすでに数人の男達がこちらを見上げている。
手でも振れば満足するだろうが、今夜はそんな気分でもない。
見つめる空には雲一つなく、月が出ているだけだ。
全てを青白く照らす月明かりは、ひたすらに
月明かりの下で見下ろす町には、どこからか、カラコロと駒下駄の音が響く。
とりわけて見えるのは、道を行き交う人々の姿。
はっきりと見える彼らの姿は、二階からでも顔が見えるほど、残酷なくらい綺麗なものであった。
「――結城さん」
「なんだ?」
答えた結城が立ち上がって、彼女のそばへ行けば、「まあ、ここへお座りなさい」と、優しく手を握られた。
お力と共に、板敷きの縁側に座った結城は、月で輝く町を珍しそうに眺めていたが、その視線を遮るように、お力はある方向を指差した。
「あの
指差す方を見ると、店の近くにある果物屋の前に、幼い子供が一人いる。
他に客はおらず、横を通り過ぎていく人々にぶつかりそうになりながらも、桃を一つ、店主から受け取っている小さな子だ。
「あれか?」
指をさすと、「そうです」とうなずいて返事がある。
「小さくて愛らしい、四つばかりの子です。あれが先ほど私に会いたいと、店先に来た人の子でございます」
「なんだと。あれがそうなのか?」
まだ歩くのもおぼつかない幼い子。
見たところ男の子のようだが、本当に小さな子だ。
男に妻子がいるとは聞いていたが、まさか子連れで来るとは思わなかったと、結城は指さした手で開いた口を覆った。
「驚くことではありません。妻子持ちの男なら、それくらい誰でもなさいます。前に来ていた三十過ぎの客など、
「それなら、遊んでなどいられないだろう」
「いいえ。その客が帰るまで、手の空いた女達で面倒を見るのです。中には赤子の扱いに慣れた女もおりますから、喜んで子守りを引き受ける人もおりますし、腹さえ膨れていれば、寝ているような時期ですからね。あとは、おしめを替えさえすれば、大人しいものですから」
お力は当たり前のように笑うが、結城は信じられないと目を開ける。
赤子を抱えて女遊びなど、彼には予想外だったのだろう。
驚く結城を見ながら、お力は視線を外へ戻した。
「……まだ幼いですが、賢い子です。あれほど小さな子供にも、ひどく憎いと思える心があるのでしょう。私のことを見るなり、いつも『鬼、鬼』と言うのです。あの愛らしい口で、『鬼、鬼』と……無邪気に、真っ直ぐな目で言うのです……」
お力の手に力が
握られた手は熱く、離れないようにと強く握りしめられているが、そこに自分への熱がないように感じられた。
結城が握り返せば、お力は安心したように微笑むがこちらを見ることはなく、桃を
結城の方が堪えきれなくなって視線をそらすと、「ねえ結城さん」と声をかけられる。
静かに視線を向けると、月明かりに輝くものを目尻に浮かべて彼女は言った。
「私は、まあ……そんな悪者に見えますか? 貴方の目からも」
輝くものが、
彼女自身が気がついて空を見上げた時、一粒が手元へ落ちた気がした。
結城は何も言えず黙っていたが、彼女はホッと息を吐き、きつく唇を噛み締めてうつむくと、何かに
しかし、唇の隙間から漏れ出す声は抑えきれず、だんだんと、握りしめる力が増していく。
月明かりの下で、並び座る男女が一組。
この夜のことを、のちに結城は「若さは言い訳にならないのだと今ならわかる。悔やんでも悔やみきれない」と言って涙したと伝えられている。
そんな二人の心までを知っていたのは、誰であったのだろうか。
それを知るのは、蒼白く輝く月のみであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます