第二十四話


「僕のことを夢に見てくれるほど嘘偽りのない想いがあるのならば、『奥様にしてください』くらいは言いそうなものなのになあ。そんなことをまったく何も言われないのは、どんな理由からか。一度教えてもらいたいものだ」

「そんなこと……。私の口からは、とても……」

 困り顔でお力は言うが、彼女の珍しく弱気な姿に、結城の話は止まらない。

「古い考え方に頼った表現になるが、そでうもしょうえん、というものさ。もしかすると、君と僕は、前世やその前の世界でも、顔くらいは合わせたことがある相手なのかもしれないだろう? そう考えれば、こうやってお互いに話ができるあいだがらになったというのは、かなりの深い縁が出来上がっているからだと思わないか。お前がこんな商売を嫌だと思うなら、遠慮なく、隠してきた胸の内を僕に語るといい。それくらいの信用はあると思っているからね」

 微笑んで言い切った結城を、お力は困り顔で笑う。

「貴方の言う通り、こうやって出会えたのも、前世からの縁なのでしょうね。ですが、それだけで全てを語れるのならば、とっくの昔に、語る相手などおりましたよ。それでも駄目だったのですから、やはり私は、縁というものがとんと無いのでございましょう」

 しかし結城は真面目な顔で、「またお前は」と叱りつける。

 聞き分けのない相手を諭すように「何度も言わせるな」と言った彼は、浮いた腰を下ろしてふとももひじをつくと、お力の目を見ながらもう一度言う。

「僕はまた、お前のようなしょうぶんではむしろ、このような生き方が気楽だとかいう考えで特定の相手など求めずに、一人で生きていくのだろうと思ったのだがな。それでは、何かお前なりの道理があって、仕方なくというわけか? つかえがないのであれば、話を聞かせていただきたいものだ」

 じっと目を見つめ、そらすことを許さない結城。

 これまでは誤魔化されてきたがもう、お力の返答次第でその態度を変えるつもりはないようだ。

 雨の日からの縁でここまで付き合いが続き、互いに悪い感情もなく、男女としても相性は悪くないと思っていた。

 しかし、いつまで経っても身の上話をしてこないお力にれたのか、こうして強引な手を使うことが増えてきたことも事実だ。

 今さら女の誤魔化しについて、あれやこれやと文句を言って怒るほど、彼自身、若くはないと実感しているものの、それでもお力には、少しでもしんに向き合いたいと思っている。

 彼女に恋人がいたこと、今でも縁があること、相手が今でも会いに来ることなど、この店に来れば嫌でも耳に入る話ではあるが、結城が気になるのはそこではない。

「お前の話を、聞かせてはくれないか」

 ただ、それだけだった。

 見つめ合う二人の沈黙を破ったのは、小さく息を漏らしたお力からだった。

「……じつを申しますと、貴方には私の話を聞いていただこうと、つい最近から思うようになっておりました。だけれども、今夜は上手く話せそうにありません」

「なぜだ? どうしてそんなことを言うのだ」

 結城が問いただすと、お力は「なぜと言われても話せません」とはっきり答える。

「これは、私が自分勝手であるのが原因のことですので、お話しするまいと思ってしまう時は、どうしても嫌なのでございます」

 そう言ってサッと立ち、隣部屋とつながる廊下のような縁側へ身を入れると、静かにガラス戸に手を置く。

 一階へつながる廊下とは別に、店の二階には屋根付きの広い縁側があり、ガラス戸越しに夜の街が見下ろせるようになっているため、角部屋の窓から見るよりもずっと眺めが良い。

 店の女達からは昼間でも薄暗いからと人気がなく、客も好んで利用しないため使われることは少ないが、外を通りかかる男達には大人気だった。

 昼でも夜でも通りかかると、たまにこうして、外を眺める『菊の井』の女が見えると評判の場所になっているため、見下ろす道にはすでに数人の男達がこちらを見上げている。

 手でも振れば満足するだろうが、今夜はそんな気分でもない。

 見つめる空には雲一つなく、月が出ているだけだ。

 全てを青白く照らす月明かりは、ひたすらにきよらかで、すがすがしいまでに爽やかだが、お力の横顔と同じくらいに冷たく感じる。

 月明かりの下で見下ろす町には、どこからか、カラコロと駒下駄の音が響く。

 とりわけて見えるのは、道を行き交う人々の姿。

 はっきりと見える彼らの姿は、二階からでも顔が見えるほど、残酷なくらい綺麗なものであった。

「――結城さん」

 ひととおり外を見渡したお力は、座ったままの結城を呼ぶ。

「なんだ?」

 答えた結城が立ち上がって、彼女のそばへ行けば、「まあ、ここへお座りなさい」と、優しく手を握られた。

 お力と共に、板敷きの縁側に座った結城は、月で輝く町を珍しそうに眺めていたが、その視線を遮るように、お力はある方向を指差した。

「あのみずで、桃を買う子がおりますでしょう」

 指差す方を見ると、店の近くにある果物屋の前に、幼い子供が一人いる。

 他に客はおらず、横を通り過ぎていく人々にぶつかりそうになりながらも、桃を一つ、店主から受け取っている小さな子だ。

「あれか?」

 指をさすと、「そうです」とうなずいて返事がある。

「小さくて愛らしい、四つばかりの子です。あれが先ほど私に会いたいと、店先に来た人の子でございます」

「なんだと。あれがそうなのか?」

 まだ歩くのもおぼつかない幼い子。

 見たところ男の子のようだが、本当に小さな子だ。

 男に妻子がいるとは聞いていたが、まさか子連れで来るとは思わなかったと、結城は指さした手で開いた口を覆った。

「驚くことではありません。妻子持ちの男なら、それくらい誰でもなさいます。前に来ていた三十過ぎの客など、を抱いてまで女を買いに来ていたのですよ。母乳を飲ませてからすぐに」

「それなら、遊んでなどいられないだろう」

「いいえ。その客が帰るまで、手の空いた女達で面倒を見るのです。中には赤子の扱いに慣れた女もおりますから、喜んで子守りを引き受ける人もおりますし、腹さえ膨れていれば、寝ているような時期ですからね。あとは、おしめを替えさえすれば、大人しいものですから」

 お力は当たり前のように笑うが、結城は信じられないと目を開ける。

 赤子を抱えて女遊びなど、彼には予想外だったのだろう。

 驚く結城を見ながら、お力は視線を外へ戻した。

「……まだ幼いですが、賢い子です。あれほど小さな子供にも、ひどく憎いと思える心があるのでしょう。私のことを見るなり、いつも『鬼、鬼』と言うのです。あの愛らしい口で、『鬼、鬼』と……無邪気に、真っ直ぐな目で言うのです……」

 お力の手に力がもる。

 握られた手は熱く、離れないようにと強く握りしめられているが、そこに自分への熱がないように感じられた。

 結城が握り返せば、お力は安心したように微笑むがこちらを見ることはなく、桃をかじりながら動き回る小さな姿を追うばかりだ。

 結城の方が堪えきれなくなって視線をそらすと、「ねえ結城さん」と声をかけられる。

 静かに視線を向けると、月明かりに輝くものを目尻に浮かべて彼女は言った。

「私は、まあ……そんな悪者に見えますか? 貴方の目からも」

 輝くものが、ほおづたいに顎へ流れる。

 彼女自身が気がついて空を見上げた時、一粒が手元へ落ちた気がした。

 結城は何も言えず黙っていたが、彼女はホッと息を吐き、きつく唇を噛み締めてうつむくと、何かにえるように、何かをこらえるようにじっと下を見つめ、震える唇から続く言葉はなかった。

 しかし、唇の隙間から漏れ出す声は抑えきれず、だんだんと、握りしめる力が増していく。

 月明かりの下で、並び座る男女が一組。

 この夜のことを、のちに結城は「若さは言い訳にならないのだと今ならわかる。悔やんでも悔やみきれない」と言って涙したと伝えられている。

 そんな二人の心までを知っていたのは、誰であったのだろうか。

 それを知るのは、蒼白く輝く月のみであった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る