第二十三話


「そう言うな。僕だって、お前のことをもっと知りたいんだ」

 それでも諦めようとしない結城に、とうとう彼女は、わかりやすく息を吐き出した。

「……おたわむれはここまでにして、結城さん。どれだけ隠そうとしても、どうしたって隠しきれないようですね」

 呆れたようなため息に怒ることはなく、お力の固い声に表情を引き締めた結城は、太腿に片腕を置いたまま、真っ直ぐにお力を見つめている。

 お力の方も、これ以上黙ってはおけないと視線を横目にとらえつつ、譲ることを知らないその目に向かって、静かに語り始めた。

「貴方を相手に、このまま秘密を胸に持っていたところで、いずれ誰かが教えてしまうことでしょう。そうなっては困るので、今ここで私の口からお話しいたします。これまで人を使って私を呼び出そうとしていたのは、この町内において少しだけですが、その名を知られた布団屋の息子です。名をげんしちという人で、おもてではそれなりに人望のあるお方で、由緒ある店の跡継ぎとして有名でございました」

 お力は息を止め、首を斜め下に動かす。

「彼は以前、私が仕事でお世話になっていた店の馴染みで、それはそれはとても良くしていただいておりました。貴方ほどではありませんが、りもく、気の合う相手でしたので、私も楽しくお付き合いさせていただいておりまして、店でも評判の色男だったのでございます。ですが、そんな時間はあっという間に過ぎ、気がつけば通う回数が減っていき、いつしかお姿を見なくなりました。その時にはもう、家も財産も……何もかもが手遅れだったのでございます」

 ぼんやりと畳を見つめる目は、虚ろながらも、見えない何かを見ているように鋭い。

 その横顔を見ながら、さかずきの酒を一口で飲み込んだ結城は、再びお力が話し始めるまで、静かに彼女を見つめていた。

「……彼ほど、長い付き合いの馴染みはおりませんでしたが、今ではもう、かつての見る影もなく貧乏になってしまいましてね。八百屋の裏にある小さな家に、カタツムリのように家族で身を寄せ合い、ひっそりと暮らしているそうです。今でも時々は、かつてを知る人から話を聞くほどには顔を知られていますから、一目でわかる有様なのでございましょうね」

 お力はフッと息を吐き、畳に片手をついて立ち上がると、しょうで閉ざされた窓の近くに座る。

 結城はその姿を見つめながら、お力の方に身体を向け、「それでどうした」と、話の続きをうながした。

「……あの人には女房も子供もおりましてね。私のような女に、気軽に会いに来れるような歳ではないのですが、かろうじてえんがつながっているのか、それとも、伸びすぎて切れていないのか。今になってもまだ、時々ではありますが……いえ、なんのかんのと言って今日もですが、下の座敷へでも来たのでございましょう」

 困ったお人なのですよ、と彼女は苦く笑った。

なにも、今になって初めて妻も子もいることを、恨みに思ったりはしておりません。直接別れを告げて終わらせたい、というわけでもありませんが、顔を合わせてしまっては、色々と面倒なこともあるので、近づかず、二度と関わりを持たないまま、家へ帰した方が良いのでございます。恨まれるのは覚悟の上。私のことなどは鬼だとも蛇だとも、好き勝手に思っていれば良いのですから……」

 そう言って、手にしたばちを畳の上に置き、閉め切った障子を開けて伸び上がるように外を覗き込めば、お力はホッと息を吐き出す。

 表を見下ろすその姿に、結城は「なんだ、そこから姿が見えるのか」と言い、お力をらかっては笑う。

 さすがに怒りそうだとは思ったが、お力はたいして気にした様子もなく、「ああ、すでに帰ったと思われますよ」と、悪戯いたずらに成功したように小さく笑った。

「どうやら、見るのが遅かったようですね。もう少し早ければ、貴方様にもお見せできましたのに」

 にっこりと微笑む顔に怒りはなく、そらす横顔にも寂しさはない。

 だが、それからもぼんやりと気の抜けた様子で外を見るので、「持病というのはそれか?」と結城が尋ねれば、彼女は痛いところを突かれたとばかりに肩を揺らした。

 しかし視線は外に向けたまま、結城を見向きもしない。

 そんな無作法をとがめない結城に何を思うのか、「まあ、そんなところでございましょうね」と、感情を込めない声で返事をするだけだ。

「この病は治りませんし、治せません。それがどんなに腕の良いお医者様でも、くさとやらでもね」

 続けてそう言った彼女が、寂しさを滲ませるように笑っているので、結城は「そうか」とだけ答え、「ならば、ほんぞんとやらを拝みたいな」と、とんでもないことを言い出したのだ。

「お前にそのような顔をさせるのならば、一度お目にかかってみたいものだ。役者で言ったら誰に似ている? 舞台俳優でもいいぞ」

「そんな立派な方と比べてしまったら、お会いした時にびっくりなさいますよ。それこそ、肌の色なんて日焼けで真っ黒ですし、背が高いのでどうみょうおうさまのように恐ろしく見えます……としか、今は説明できませんもの」

「そうか……。ならば、男らしい性格か、しょうの良さにでも惚れたのか?」

 続けてそう聞くので、「まさか」とお力は笑う。

「女が身を売るようなこんな店で、家の財産も妻のゆいのうきんも残らずそそんでなお飽き足らず、全てを使い果たしてしまうような愚かな人でございますよ。性格が良くて、誰にでもへだてなく尽くすような、そんな素晴らしいなどというものは、酒の一滴ほどもございません。面白くもしくもない、本当に何もない……つまらない人です」

 笑いながらそう答えたお力に、結城の方がつまらない顔をする。

「そんな何もないという男に、どうしてお前は惚れた?」

 お力の笑顔が固まる。

「今までお前がした話は、誰でも知っていそうなものだった。だが、お前のように賢い女がなぜ、例のあの人に惚れたのかについては、全てを知る者がいないのだろう? 僕にだけ、話してはくれないか」

 真面目な顔で結城は言う。

 いつもの姿で見つめられたお力は、視線をそらすようにうつむくが、すぐに普段通りの笑みを浮かべて、襟を直し始めた。

「……そもそも私は、惚れっぽいのでございましょう。貴方の事だって、この頃は夢に見ない夜はございませんもの。それこそ、突然ご結婚されて、奥様を迎えられたところを見たり、ぴたりとお越しにならなくなったところを見たりと、まだまだもっと、胸が痛いくらいに悲しい夢を見ては、枕にかぶせた紙が、汗でびっしょりになったこともございます。たかちゃんならば、夜に寝るとなると、横になるより早くいびきをかく声が高く大きくなりますの。よほど良い気分でいられるそうなので、それが……どんなに羨ましいことか。私はどんなに疲れた時でも、とこへ入ると目がえて眠れなくなってしまい、それはそれは色々と、嫌なことを考えてしまいます。貴方は私に何か思うことがあって、それで悩んでいるのだろうと察してくださるので、『何かあるのか』と、きちんと聞いてくださいます。そう言った思いやりの気持ちが嬉しいのですが、いくらなんでも、私が何に悩んでいるのか……本当のところは、お優しい貴方でも、お分かりにはなりますまい」

 そう言って結城を見るお力の目は、挑んでいるようにも見えるが、悲しげにも見える。

 あいづちたずに黙って聞いてくれている結城の姿に、彼女は小さくフッと笑った。

「……どうすればいいのか悩んでも、どうすることもできないので、もう自分で自分を放っておいていますの。人前ではおおに明るく振る舞い、わざと賑やかにして、どうにか誤魔化しているのですよ」

「それは、嘘で……というわけか?」

 結城が初めて口を開いたので、お力は困った顔をしながら、「はっきりとおっしゃいますのね」と、また笑う。

「そうした振る舞いを続けておりますと、『菊の井』のお力はどこまでもだらしのない女だ、苦労というものを何ひとつ知らない恵まれたお嬢様だ、などと言うお客様もおりますの。本当に、これがいんとでも言うのでしょうか。これほどの不運でありながら、私のことを幸せな女だと言ってくるのですよ? 私のような立場の者ほど悲しい人は、いないでしょうにねえ……」

 クッと、笑ったのかと思ったが、結城の目には、普段と変わらぬお力の横顔に見えた。

「どれほど心無いことを言われようとも、私は、そう思うのです」

 そのままうつむいてしまったのでよく見えなかったが、涙で濡れているような声色だ。

 叫び出したいような思いをこぶしに込め、着物のすそに何度も何度もぶつけながら、胸の奥に染み入るような言葉を絞り出したお力に、結城は小さく、ハア、と息を吐き出す。

「……お前にしては、珍しいことだな。こんなにも暗い話を、僕の方が静かに聞かせられるなど、本当に珍しいことだ。しかし、お前のことを慰めたくとも、何があってどうなったのかというもとすえを知らぬから、何も方法が思いつかない。なあ、最初から話してはくれないか?」

 お力はうつむいたまま、潤む目を大きく見開く。

 噛み締める唇が色を失くす感覚に、肩の力が抜けていくのがわかった。

 しかし、それも結城には気づかれず、話はどんどんと続いていく。



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