第五章

第三十一話


 誰が、しろおにと名をつけた――。

 苦くかおる煙を前に、お力は同僚達の愚痴を耳にしながら、壁の向こうに遠くを見ていた。

 今日はどこの店からも女達が外へ出ていて、今か今かと男達のおいでを待っているところだ。

 一年に数度は訪れる稼ぎ時の一つがこの時期なので、これといった稼ぎがない者ほど必死になって念入りに化粧をしながらも、新しい馴染みを得ようと大胆に胸元を開ける者も多かった。

 そんな大騒ぎを目にする今日は、七月の七夕たなばたに続く大きな行事がある日。

 だからこそ、女達の口からは文句の一つや二つ、十も二十もポロリと出てくるのであろう。

 そんな大事な日に、店の奥の空いた場所に集まった者達のことをものきと呼ぶべきか、それともあまのじゃと呼ぶべきか。

 まだたくの終わらない数人に合わせるように、まだ暑いからと涼みがてら雑談をしていた彼女達は、一人二人と馴染みの男達への文句を言い出していた。

「ねえ、聞いておくれよ」

 そんな言葉から始まる文句を前に、支度を終えた女達が数人、彼女の方へ顔を向ける。

 その女は、以前良い人ができたとはしゃいでいた片割れで、お力の隣で化粧をしていたふくよかな女に、静かにしなさいと同僚の娘と共にとがめられた女だった。

 彼女と一緒にはしゃいでいた片割れはすでに外へ出ていて、他の店の女達と共に馴染みの男を待っている。

 そういえば、さっさと外へ行ってしまった方の彼女は、あれから恋人ができたと嬉しそうに話していた気もするが、どうやらこの女には、あれ以降に縁のある男ができなかったようだ。

 鏡台にある団扇うちわをサッと取り、気にしないそぶりで耳を傾ければ、彼女はうつむきがちに話をし始めていた。

「いつも来てくれる男がいるんだけどね。そいつってば、昨日、別の女と歩いてたんだ。それですぐに店でめたら、あいつ、とっくの昔に結婚してて、最近は来るのがまばらで、おかしいとは思っていたけれど、奥さんができたってことを内緒にして私のことをらかってたんだよ。私と結婚してくれるって、言ってたのにさあ……」

 泣きそうになりながらそう言った女は、強く着物を握りしめる。

 涙を堪えながら「私を好きだって言ってくれたのに……」と苦しそうに話すが、お力も女達もしらけた様子で「ああ、そうかい」と言った顔だ。

 この店に来て数年、まともな相手が出来なかった彼女にとっては、初めての恋愛だったのだろう。

 自身にも身に覚えはあるものの、部屋にいる女達は、誰も何も言わない。

 すでに飽きるほど経験したことだから、今さらといったところだ。

 話した女は自分の気持ちに精一杯で、とうとう泣き出してしまったが、背中をさすってまで慰める者はおらず、近くにいた女が黙ってぬぐいを渡すだけだ。

 まだまだ若い。

 というよりも、年齢に見合わず幼すぎる子だ。

 そう思ったのは、お力だけではなく、誰もがつまらなそうに女の話を聞きながら、何をそれくらいで……と呆れていた。

 この世界はよく、げんごくに例えられる。

 男にとっては極楽でも、女にとって地獄だとは、どこの誰が言ったのだろうか。

 男ばかりが得をして、女ばかりが苦しい思いをするものだと思われがちだが、最後にはどちらも地獄に落ちるしかないのだから、どうしようもない。

 男相手にびへつらい、だまだまされる世界。

 この『菊の井』がある新開だって、遊郭に負けず劣らずの地獄なのだ。

 どれほど綺麗に外見をつくろうとも、最も深い地獄に近づくようにと、そこはかとなく作られていく景色の数々。

 どこに騙しのからりがあろうと、目には見えなくとも、逆さまに落とされるいけごくであることに変わりはない。

 親より先に死ぬことは必然だとばかりに、男に借金を作らせては針の山を登らせて、捕まらない女を追いかけさせることだってお手の物だと聞く。

 突き刺さる針山の山頂で、つやめいた笑みを浮かべながら「寄っておいでよ」と甘える声も、地上で聞けば鼻の下が伸びるもの。

 しかし、一度でもその声にとらわれてしまえば、蛇をも喰らうきじのようだと、そら恐ろしくなってしまうものだ。

 針の山がある地獄では、山の上から女が男を誘い、上り切った者を嘲笑うかのように消えたかと思えば、今度は下から甘い声で呼ぶのだという。

 そうしてまた、痛みに耐えながら男が下りるとまた消えて、再び上から男を呼ぶのだそうだ。

 そうやって捕まえられない苦しみと、体中を苛む針の痛みに耐え続け、それでもなお追い求めるのを止められない男が落ちる地獄があるのだから、この世もあの世も地獄であることに変わりはないのだろう。

 人気者のお力でも、男に騙されたと泣く女と同じ目に遭った経験があるため、慰めはしないが同情はしていた。

 黄ばんできた団扇で軽く自分を扇ぎながら、シクシクと涙を流す女の次の言葉を待つ。

 しかし、誰もが同じ経験をしているからこそ、お力のように何も言えないのだ。

(私より年上なのに、いつまで純情ぶっているんだか。男のまことなんて、さっさと諦めてしまえばいいのにねえ……)

 口にこそ出さないが、お力の表情には苛立ちが見える。

 他の女達も、未練がましく「でも好きなんだよ」とか「あの人が私のえにしなんだ」と言って泣く女へ、冷めた目を向けていた。

 そうやっていると、どこからか赤子の泣き声が聞こえてきた。

 表通りのみせからまぎんで来たのか、若い女が誰かに道を尋ねていて、どこかの女と話をする声も聞こえてくる。

「ありゃ。まあた近くの長屋から迷い人が来たのかね」

 年を経た女が面倒そうに言うと、「そう見たいですね」と、彼女の近くにいた女が首を伸ばして答える。

 開けた窓から見えたのは、まだ若い娘がをおぶり、慣れない手つきであやしながら困っている姿だった。

 新開の近くには長屋が多く、結婚や引っ越しで若い娘が住むことも多いため、祭りなどがあると必ず迷ってくる者がいる。

 普段は遊びに夢中の子供がほとんどだが、たまにああして、結婚したばかりの若い娘が迷って来ることもあり、ここら辺の女が道案内をすることがあるのだ。

 しかし、こういったしょくぎょうがら、見た目から恐れられて逃げられることもあり、ひどい時には「商売女がいっちょうまえに良い人ぶるな!」とせいを浴びせられることも多い。

 しかし今回の娘はきもわっているのか、育ちがいいのか、礼儀正しくお礼を言って道を戻っていったようだ。

「十いくつの子が赤ん坊を背負ってるよ。あれはまだ、二十歳にもなってないだろうね」

 しょうまどから外を見ていたとしおんなが、シワの目立つ目元を細め、懐かしそうに笑う。

「早い子なら、十六でお嫁に行きますよ。子供が生まれれば、三十なんてあっという間ですもの。あの子だって、あと数年もすれば旦那を尻に敷いてますって」

 近くにいた女も笑うが、その目には微かな嫉妬が混じっている。

 そういえばこの女は、今年で三十になると言っていた。

 すぐにでも良い人を見つけて結婚したいと愚痴っていたが、今の時間になってものんびりしているのだから、その願いは叶いそうにないのだろう。

 睨みつけるように、年若い母親の遠ざかる背中を見ていたが、彼女の目元にもシワが薄く出ているのが見えて、お力は彼女が焦る理由が少しわかった気がした。

 開いた窓からは、外で話す女達の若々しいはしゃぎ声が聞こえてくる。

 自分だってもう、若くないことは知っている。

 まだまだ半人前だと言われていた頃など、男達にチヤホヤされるのが当たり前で、怖いものなどないのだと思っていた。

 そうやって調子に乗っていたことで、多くの同輩達から恨みを買っていたのだろう。

 いじめと呼べるようなことは山ほどあったし、客の前でわざと悪口を言われたこともある。

 罪をなすりつけられることはよくあったし、それを店の主人に告げ口されたことだってあった。

 それで何度叩かれたり、棒で殴られたりしたことか……。

 思い出しても震えが止まらなくなるくらい、お仕置きという名のせっかんが怖くて仕方なかった。

 あの人と出会ってからは、誰も何もして来なくなったけれど、その結果が今の私だ。

 たかちゃんなどは、私の過去を詳しく聞こうとはしてこないが、くちさがない女などは、「負け犬」だとか「正妻に負けた愛人止まり」などと馬鹿にすることがあった。

 丁寧に言い返しはしたが、他人から見た私は、確かにそうなのかもしれない。

 違う場所で起こった事だとはいえ、しょせんは同じ世界。

 過去をなかったことになど、できるはずもない。

 さまざまな事情を抱え、人に言えない過去を胸の内に隠し持っている『菊の井』の女達も、昔は夢に夢を見る少女だったのかもしれない。

 今では男を騙し、金のために人を食い物にする悪者だと罵られたりもするが、店の外で泣いていた赤子と同じ無垢な時代があったのだ。

 それをどうすれば、こんな恐ろしい存在になるというのだろうか……。

 それでも、人は人だ――。

 母親のたいないつき十日とおかを過ごしたのは、普通の女と同じはず。

 母のぶさからちちをもらい、一生懸命に吸い付いていた頃であれば、みんな同じに見えたことだろう。

 小さな両手をパチパチと合わせて打ち鳴らし、家族などが「可愛いらしい、愛らしい」とあやすのを、嬉しそうに無邪気に受け入れていたことだろう。

 あるいは、彼らが大きく開けた口を手の平で叩きながら、「あわわ、あわわ」と言っているのを見て、楽しそうに笑っていたこともあるはずだ。

 そんなで純粋な可愛げに対し、「お金とお菓子、どちらが好き?」と試されることだってある。

 そんなこと、試すまでもない。

 迷うことなく「をおくれ」と、小さな手のひらを差し出すのだから。



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