第三十二話


 とは「おこしまい」ともいい、白米で作る身近なお菓子だ。

 今よりずっと昔、土の下から発掘されたものしか残っていないような時代から作られていて、この国で最も古いお菓子だと言われている。

 歴史は古いが、作り方はほとんど変わっておらず、古い書物にもその名が残っているようで、味や食感は作り手によって変わるものの、基本の作り方は同じらしい。

 米やあわを蒸してから、てんで干したり、火にかけてみずを飛ばしたりなどして乾燥させ、細かく砕いて塩と共にり、充分に膨らませる。

 そこへ、熱して溶かした砂糖やみずあめを絡めて固まりにし、板状に伸ばしたり、型に入れたりなどして冷ましてから、食べやすい大きさに切って出来上がりだ。

 今は専門の店があるため、綺麗な形のが手に入るのだけれど、家で作ったものは綺麗な形にはならないし、砂糖や水飴が一部にかたよりやすくなるため、味に変化がでるらしいのだ。

 それを皆、兄弟や親戚の子達と取り合うらしい。

 都会に住む子に比べ、地方や田舎に住む子供にとってお菓子といえば、くりやアケビなど、山で採れるものがほとんどだ。

 山奥の貧しい家ともなれば、栗やくわどころか日々の食べ物に困ることが当たり前であるため、貴重な米を使ったお菓子など口に出来るはずもない。

 砂糖や水飴さえ手に入れば……と仕事仲間の女達は言うが、田舎出身でなくとも貧しい家の子供は山ほどいる。

 生活に困る家の女子供が行き着く先など、私があえて言わずとも知れたことだ。

 少しでもいい店に引き取ってもらえたからといって、美味いものが食べられるわけではないのだけれど、米も炊けない家の食事に比べればマシなはずだ。

 売れっ子にでもなれば、お菓子など客にねだり放題になるだろうし、「あれが食べたい」「これが食べたい」と言えば、たいていの男は叶えてくれるかもしれない。

 自分にも覚えがあるため、あまり大きな声では言えないが、店で売られているなどは、十代の頃に飽きるほど食べていたくらいだ。

 思い出してうんざりしてしまったが、それもこれもあの場所であったからこそ叶ったこと。

 店のお菓子など高級品で、とても私達のような酌婦には変えない品なのだから。

 ああだこうだと言う前に、ここにいる女達は、手作りのを食べられていたのだろうか。

 過去の話をほとんど聞かないが、食べられるくらいには稼いでいた親を持っていた人もいるはずだ。

 そう考えて、お力は団扇で口元を覆う。

(ふん、くだらないねえ。なんてくだらないんだろう。なんでそんなことで、いちいち傷ついているんだい。うそきな男と、そんな男と一緒になった女なんかに振り回されて、どうして死にそうなくらい泣くんだか。さっさとりをつけてやればいいのにねえ)

 いまだに泣く女を冷めた目で見ていたお力の横で、いつの間にか涙をこぼす女がいた。

 彼女はおらくという名で、今年で三十歳になるくたびれた顔の女だ。

 見た目は三十より四、五歳年上に見えるけれど、それなりに人気のある可愛らしい子だ。

「おや、どうしたんだい。涙でも貰っちまったのかい?」

 年増女が笑って聞くと、お楽は首を横に振る。

「じゃあ、同情でもしちまったのかい?」と笑う年増女に対し、お楽は首を横には振らず、深くうつむいてしまった。

 それを見た女達は、先に泣いていた女以外「またか」と眉をひそめる。

 かんべんしてほしいという気持ちを顔に出してしまったが、お楽は「違うよ」と言って涙をぬぐった。

「ちょいと思い出しちまっただけさ。私のことをどうしたいのか分からない、しょうなしの男のことをね」

 そう言ったお楽は目をうるませ、こぼれそうな涙をこらえようと顔をそむけたが無駄だった。

 ポロポロとこぼれる涙は止まることを知らず、丸い頬の上を雫となって落ちていく。

 そうなってしまうと、涙というのは、もう止まらないものだと誰もが知っていた。

 静かになった部屋の中で深呼吸したお楽は、「聞いておくれ」と前置きし、「そめものたつさんのことをさ」と言葉を続ける。

 顔を上げたお楽は泣いてこそいなかったが、こぼれた涙が跡になって頬に残ったままだ。

 これはまた面倒なことになったな……と思いつつも、お力は団扇をひと扇ぎして耳を傾ける。

 他の女達も同じで、静まり返っていた部屋の中は、彼女達が姿勢を変えたきぬれの音で一気に騒がしくなった。

 辰というのは、お楽が惚れている男の名だ。

 お力も何度か顔を見たことがあり、二人の仲は良さそうに見えたのだが、どうやらそうではなかったらしい。

 しかし、「別れるとかではないんだ」とお楽が言うと、拍子抜けだとばかりに「違うのかい」と誰かが言う。

 それでも、悩みに悩んだことなのだろう。

 今の仕事に嘘偽りのない真実はなくとも、百人の客の中から見つけた一人の男に対して、女というのはいちになるものだ。

 けしてにはなれないからこそ、決めた相手に向けてのみ、心からの涙をこぼすのだろう。

 横目でも綺麗だと思える涙をこぼし続けながら、彼女は続きを話し始めた。

「……辰さんはね、みんなも知っての通り、私の良い人さ。いずれは一緒になろうと約束しているし、向こうもその気でいるみたいだけれど、どうもまだ、気持ちが浮かれているようなんだよ。昨日も『かわ』の店先で、おしゃべりでやかましくしとやかさのカケラもないおろくめとイチャつき合っていたんだから、見たくもなかったけれどね」

 ましい唇を噛むお楽は、可愛らしさの中に鬼がいるようだ。

 誰もいない畳の上を睨みつけながら、思い出した昨日の光景に苛立ち、手のひらを強く握る。

「そんなふうにひとはばからない二人を、周りの人達は冷めた目で見ていたというのに、あいつ、お六を抱き上げたかと思えば、店のおもてまでかついで連れて行ったんだ。人通りがあるというのに、恥じらいもなく、堂々とね。ああ、なんて恥ずかしい」

「それは……災難だったねえ」

 人をらかうのが好きな年増女も、その光景を想像してしまったのだろう。

 珍しく相手を思いやり、いつもより優しげだ。

 それでもお楽の話は止まらず、歯を強く噛み締め、握りしめたこぶしを太ももへと叩きつけた。

「ああ、そうさ。もう、恥ずかしいなんてものじゃないよ。あの時はお互いに気分が上がっていたのか、まるで恋人同士みたいにしていたんだからねえ。辰さんの肩やら胸やらをお六が叩けば、辰さんはお六の尻やら腰やらを叩き返していたんだから、目も当てられなかったさ。ああ本当に、見たくなんてなかったよ。あんなもの、見なければよかった……」

 止めることができない涙が溢れ出し、お楽は声を出して泣きたくなった。

 お六といえば、ここらでも有名なおしゃべり娘で、若さと元気が取り柄とも言える人気の女だ。

 男達には、明るくて元気がもらえると大評判らしく、この店の女だけでなく他の店でも、「お六に客を横取りされた」という噂が出ていて、女達からは嫌われ者だ。

 この『菊の井』にはかせがしらのお力がいるし、近くの『ふた』には最近話題のおかくもいる。

 それなりに立場のある店ではあまりないが、客の心変わりを身近な相手から聞くのは良い気がしないと、お楽の話を聞いていた女達は眉をひそめた。

 女達にとってでも、お楽には今の話だ。

 たった今、恋人と呼べる男に浮気されたと泣くお楽は、女達のことなど気づかずに話を続けていく。

「私だってこんな商売をしている身だ。客の男が、女の一人や二人に目移りしようが、今さらさ。いちいちくじらなんて立てないよ。でも、辰さんがあんなうわついた考えのままで、死ぬまで夫婦としてやっていけるんだろうかと、最近はそればかり考えてしまうんだ。まあみんな、あの人をいくつだと思う?」

 聞かれたお力達はしばし考える。

 ほとんど会ったことのない男であっても、職業柄、顔や体の特徴なんかは覚えてしまうため、全員が辰という男の顔を頭の中に思い浮かべる。

 シワこそまだないが、二十歳にしては落ち着いているし、かといって四十歳にしては若すぎるだろう。

 二十代後半から三十代くらいかとくちぐちに答えれば、お楽は、「一昨年おととしで三十歳になったんだ」と口の端で笑った。

「そんなに驚かないでおくれよ。私だって驚きたいんだ。もう三十を二年も過ぎたいい歳の男が、所帯も持たずに遊び歩いているんだからねえ」

 目を開けて驚く女達を見ながら、お楽は苦しげに唇を震わせる。

「だからこそ、そろそろいい加減にしてほしいんだよ。所帯を持った後のためにも、『きちんと貯金をしておくれ』と、逢うたびに口を酸っぱくして言っているというのに、その時ばかり『おいおい。わかったよ』となまへんをするだけ。私の言葉なんて耳に入っていないのか、心の中にだって覚えていようとすらしてくれない。そんな男だから、心配で心配で、たまらなくなるんだ……」

 お楽は涙をこぼし、泣き声のまま話を続けた。



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