第十話
そんな男の笑みに気づかずに、お
「このような湿っぽい話はもう終わりにして、楽しく陽気に遊びましょう。私はどのような理由でも、落ち込むようなことは大嫌いなんです。今夜はにぎやかに、騒いで騒いで騒ぎ抜こうと思います。あなたもご一緒に、笑って過ごしましょう」
にっこり笑ってそう答えると、彼女は男の返事を待たずに「誰か上がってきて。お力の部屋にだよ」と声を上げて手を叩いた。
呼ばれた店の女が一人、何事かと上がってくると、開けた部屋の中には、お力と客の男が二人だけ。
それほど盛り上がっていないのは明らかだ。
女は呼ばれた理由がすぐにわかり、お力に笑みを向けて「力ちゃん。今夜はだいぶ静かなおもてなしなんだね」と声をかける。
「看板娘の力ちゃんでも、今夜のお客相手ではいつもの調子が出ないのかい」
「まあね。今夜は二人きりだと恥ずかしいから、あんたに入ってもらいたいのさ」
お力がそう言って顔をうつむかせると、女は「だろうね」と笑って襖を閉めた。
三十くらいに見える女は、濃い化粧のまま上がってきた。
能面に見えるほど
お力のような美貌も若さもない彼女は、こうやって歳や容貌を誤魔化して、毎日お客をとっているのだ。
普段は呼び止めた客を相手にしているけれど、今夜は客が取れず暇だったようで、たまたま階段の下に居たため上がってきただけらしい。
お力がいる部屋に呼んでもらえたからか、彼女の機嫌は良く、男に笑顔で自己紹介をする。
男は彼女に興味を持たなかったようで、
しかし、二人のやりとりを見てお力と仲が良いと勘づき、口の端を軽く上げて意地悪そうに女へと問いかけた。
「おい、女。この
女は男へ顔を向けると、問いかけをよく聞いていなかったのか少し戸惑う。
「お力の良い人の名だ。何という?」
再び男が聞くと、突然の問いかけだというのに、女は笑顔を崩さずに「はあ」とため息まじりに答える。
「力ちゃんの良い人ですか。そういえば、私はまだお名前を聞かせていただいておりませんでした」
そう言って正座のまま「申し訳ありません」と頭を下げる。
三つ指でもつきそうなほど深いおじぎから顔を上げても、その笑顔は崩れない。
男は彼女が『お力の良い人』について、うまくはぐらかそうとしていることがすぐにわかり、女へ睨み付けるような視線と形ばかりの笑みを向けた。
「嘘を言うと損をするぞ。これから
そう言って男は女を睨む。
笑ってはいるが圧力をかけようと視線を合わせ、口の中で「答えろ」と声に出さずにつぶやき、その目は揺らぐことなく女を
女は微笑んだまま男と見つめ合うが、不利だと理解するなり困った顔になって、お力から視線をそらせるように反対方向へ顔をうつむけた。
「……そんな親しげに言われましても、あなたは今日、初めてお会いしたのではございませんか。今改めて聞かせていただこうとやって来ましたのに、おかしなことを
男が「それは何のことだ」と聞くと、女は「あなたのお名前をですよ」と答えた。
お力は女の機転に感心しつつも、口を挟まずに男に酒を注ぐ。
男は女の言いたいことがわからずに「何の話だ」「何が言いたい」と聞くが、女の方は「あなたのことです」「鈍いお方ですのね」とからかい混じりに答えるので、ますます目つきがキツくなっていった。
押し問答のような会話が続いたが、男がとうとう「お力の相手を教えろ」とはっきり言ったところで、女はニコリと笑って男を見つめた。
見上げるような女の視線に身じろぐ男に向かって、女は「私の目の前にいますよ」と言う。
すると男は何かに気がついたように目を見開くと、してやられたとばかりに笑い出した。
「何を言い出すかと思えば、そう来たか。馬鹿馬鹿、私なんぞを引き合いに出してはお力が怒るぞ」と、上機嫌に酒を口にする。
お力は「さすがだね」と小さく呟き
なかなか譲らない男でも、女に
まんまと彼女に話をそらされたというのに、男は気がつくことなくあれこれと、女から振られた話題に自分の意見や考えを言うだけで、お力の良い人の話などかけらも口にしなくなっていた。
こうなると、やれ「どこどこの店の女は顔だけだ」とか、やれ「あの家の娘は心が純粋だが、顔が悪いから嫁に行けない」だとか、そんな話ばかりになるかと思いきや、男は「自分は女に縁がなくてな。いまだに独り身だよ」と口にし、身近な人達の話をするばかりだった。
そこに女が「昔の馴染みにこんな人がいてね」と言い出せば、あとはもう愚痴と感想の言い合いだ。
それでもお力がうんざりしないのは、ここだけの話という前置きがあり、どちらも人物をぼかしながら話すため、話半分でも聞いていられるようなものだったからだろう。
好んで他人の色恋について知りたくはないのだけれど、お力にとっては大事な上客と友人の会話なので、どこか面白く感じたのかもしれない。
お力がお酌をして、女が相槌を打つ。
盛り上がる雑談のやり取りに調子付いてきたのか、女が「そうだ」と笑って「当てっこをしませんか」と言い出した。
男は「当てっことは何だ」と聞くので、女は「相手の仕事や家族構成、誰が誰を好きだとかを当てる遊びことですよ」と説明を始める。
茶屋と違って娯楽といえるものが
目隠しをして手に触れたものを当てる遊びもあり、客達の間でも好評のため、こうやって遊びながら酒を飲む人もいるくらいだ。
何も言わずに
女は媚びだけで仕事をする人ではないが、かといって男のあしらいが特別上手いというわけではない。
たまにこうして勢いづいては失敗することがあるため、さすがに止めた方がいいのかと思うくらいには不安になってしまう。
しかし今回は男も乗り気のため、何かあったら口を出そうと見守ることを決めた。
これが他の人であれば、お力は何か言ったかもしれないが、人を呼んだ時にたまたま階段下にいたのが彼女であったため、ただの偶然に文句は言えない。
客を帰らせることだけはしないでおくれよと、お力は女の名前を小さく呟いた。
「頼むよ、
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