第四十五話


 それから少しして、子供のような泣き声をどうにか飲み込むことができた私は、ハンカチではぬぐいきれなかった涙のあとほおに残っていたけれども、頭はすっきりし始めていた。

 こんなみっともない顔など、この人以外にはきっと、あの人にだって見せられなかっただろう。

 ふと、源七の顔が頭によぎったが、だんだんと過去になっていくあの人とのやりとりを思い出しながら、結城さんへ視線を向けると、彼は静かな瞳で私を見ている。

 その熱のない瞳に、背中がスッと冷えるのを感じた。

(やってしまった……)

 あらためて考えてみれば、私は、誰にうえばなしをしたのだろう。

 そもそも彼は、私とは身分違いだと言える相手。

 どこで何をやっているのか、どんな家の人なのかもわからない彼には、こんな話をこんせつていねいに説明したところで、理解などできないはず。

 口だけなら、「かわいそうに……」と同情できるが、心からわかってもらえるはずなどなかったのだと、彼の冷めた目が証明していた。

 それに気づいたたん、ますます悲しくなり、息ができないほど胸の内が苦しくなってきた。

 それでも『菊の井のお力』として、彼との身分差を寂しいと、悲しいと思いながらも、いつもの笑顔を浮かべた。

「……私は、そこらへんながまいとは比べ物にならないほどに、すじがねりの貧乏人だった娘です。このようなおかしな言動はおやゆずりで、時折、思い出したように起こるのでございます。今夜も、こんなわけの分からないことを口に出してしまい、きっと貴方には、ご迷惑でありましたでしょうね。もう、こんなくだらない話はめにします。ご機嫌をそこねてしまったのでしたら許してくださいませ。久しぶりのおででしたのに、無駄な時間を過ごさせてしまいましたね。他に誰か呼びまして、ように楽しく飲み直しましょうか」

 ――気がつけば、夜もかなり遅い時間になっていた。

 下からの声も少なくなり、団体客も帰ってしまったのか、大広間の方も静かなものだ。

 ひまあます同輩達が、例の暴れ男を話のたねにしているらしく、私の名前まで出して笑っているのが聞こえてくる。

 今夜は祭りのいんもあり、楽しい気分で家に帰るか、仲間達で飲み直しにでも行ってしまったのか、泊まり客が少なかったのだろう。

 いつもより多く、女達の声が響く一階は、女主人がそろばんをはじく音すら聞こえてこない。

 それに気がつくと、あれほど騒がしかった大広間の出来事が、なんだか懐かしく感じられるのが不思議だった。

 このような店では、泊まり客がいなければ、さびしいひとだ。

 それを喜ぶかどうかは、いい人がいるのかいないのかで決まってくる。

 私のように誰かを待ちながら、それでも来てくれるのならば、まだいい。

 けれど、この新開の中で、どれほどの女達が涙を流しがら、違う男の腕の中にいるのだろう。

 いつもなら考えないことまで考えてしまうからか、いつものくせで、話題をそらしてしまったのだ。

 結城さんは優しいが、誰とでもしたしく話せるわけではない。

 遊び人だと言ってはいるものの、どう見ても、おかたくてな、いい男でしかなかった。

 うわだけの付き合いが苦手で、他の女達にはないのに、私にだけはこうして踏み込んでこようとするのだから、ずるい。

 そのくせ、こちらが踏み込もうとすれば逃げるのに、私がつらい時には、誰よりも早く気がついてくれるのだから、もう……駄目だった。

 そんな彼の優しさにほだされて、ついつい身の上話をしてしまったのだけれども、彼の冷たい視線に驚いてしまい、いつもの調子に戻ってしまった。

 しかし、彼は私の態度を気にすることはなく、うつむきかけた首を横に振ったのだ。

「……いや、必要ない。……その……てておやは、早くに亡くなっているのか?」

 彼の方が遠慮がちにそう尋ねてきたので、私は、「はあ」とうなずいた。

かかさんが、はいけっかくというやまいわずらってしまい、誰よりも早くに亡くなりまして、それからというもの、父親はすっかりと元気を無くし、母さんのいちしゅうが来る前にあといました。今生きておりましても、まだじゅう。若くもなければ、老いているとも言えない年でございます」

 こうやってくちにしてみると、私の父が、それほど老いていなかったことを思い出した。

 父がやたらと祖父の話をしていたため、祖父と同じくらい老いているものだと思い込んでいたようだ。

 両親を早くに亡くしているため、思い出すのもつらいとばかりに、家族の話をしなくなっていたので、久しぶりに話した両親のことで、いくつか思い出したことがある。

 その中でも、幼い頃に見た父のさいものは、今でも鮮明に思い出せた。

「……実の親だからめるというわけではないのですが、父の作るさいは本当にごとなもので、めいじんと言っても良い人でございました。けれども、いくら名人だと言っても、私のように、低い立場の家庭に生まれついてしまったのであれば、他のなにものにも、なることはできないのでございましょう。今の私を見れば、よくわかることです」

 自分で自分の身の上を話すのは、こんなにも、つらいものなのだろうか。

 酒で上がった気分が、一気にふさむ感じがしてうつむくと、ますます自分のみじめさを実感する気がして落ち着かない。

 鬼だ悪魔だと、子供にまで言われてきた身ではあるが、自分は、こんなにも結城さんに心を傾けていたのかと、今さらながらに思われてならない。

 源七が相手では、ただ、好きで好きでたまらなかっただけだというのに、この人が相手では、こうも恥じらいを感じてしまうものなのか。

 急に込み上げてくる、知らない感情にまどっていると、彼は前のめりになり、私の顔を覗き込むように言った。

「お力。お前はしゅっを望むな」

 思わず、顔を上げる。

 見慣れた顔にはけわしさがあり、突然の言葉に驚いて、「えっ」と声を漏らすと、あれほどいそがしかった胸の内が、一気にしぼんだ気がした。

 震えそうになる唇を噛み締められず、せめて、声だけは震えるなと、自分に言い聞かせる。

「……そう、ですよね。私なんかが、こんな立場で、高みを望んだところで、しのように、人のあいだからすり抜けてしまうのがオチ。なんの。たま輿こしまでは、思ってもみませんよ」と、どうにかせた。

 すると結城さんは表情を変え、あんしたように息を吐き出した。

「嘘は誰でもつくが、真実を隠すためにつく嘘は人による。出会った頃から今まで、お前のことはずっと見てきたのだ。今さら他人のように扱われては困る。知らない仲ではないというのに、秘密を持ったまま打ち明けないのはすいきわみではないか。どうせなら、思い切ってやりたいことをやれ。遠慮などせずに、やってみろ」と言ってきたのだ。

 どうやら、それが彼の答えらしい。

「……あれ。そんなけしかけ言葉はしてくださいな。そそのかされたところで、どうせこんな身でございますのに。ねえ?」と、かろうじて声にするが、最後の言葉はかすれて出てこなかった。

 もうこれ以上話すことができず、力の抜けた体を柱にもたれさせ、うつむいたまま視線をそらす。

 何も言えないまま時が過ぎ、だんだんと店が静かになっていくのに気がつくと、いつの間にか、夜中にかる時間になっていたようだ。

 したしきに残っていた人は、日付が変わる前に帰り出していて、だんだんと静かになっていく。

 それでも、まだ動けない私をよそに、どんどんと時間は進み、下から、「おもてあまてます」という声が聞こえてくる。

 もう、店が閉まる時間らしい。

 毎日のことではあるけれど、あめかぜが入ってくるのを防ぐだけでなく、防犯の意味もあるため、雨戸が動く音というのは、どうしてこうもやかましいのだろう。

 ガタガタと、ざつに動かしている人もいて、いつも以上に音が響くため、客を上げた隣の誰かが、「うるさくてすみませんねえ」と、媚びながら客に謝るのが聞こえた。

 今日は少ない方だが、祭りの夜というのは、飲み食いだけをして家に帰る客よりも、女を目当てにやって来る客の方が多いものだ。

 祭りの熱に浮かされて、一夜限りの遊びを求めてやって来るやからも多いため、女達はそういった男を常連にしようと、必死なのだ。

 女も男も、等しく浮かれてしまうのが、祭りというもの。

 老いも若きも関係なく、誰も彼もが熱に浮かされて、思いもしないことをしてしまうのが、祭りの夜なのだ。

 すると、私のちんもくに付き合ってくれていた結城さんが顔を上げ、「何だ、もうそんな時間なのか」と、驚きながら立ち上がった。

「ずいぶんとながをしてしまったようだな」と言いながら、大急ぎでかえたくをするので、その姿に私も驚いてしまった。

 いつもなら、「手伝いますよ」と言って手を貸すのだけれど、今日は無理だ。

 ここで帰らせては、『菊の井のお力』のれだと、ちからしぼって立ち上がる。

「帰しませんよ。なんとしてでも泊まらせますから、そのおつもりで」

 そう言い残して襖を開けると、結城さんが止める声も聞かずに階段を駆け降りた。

 店の出入り口では、女主人と老女が片付けをしていて、泊まり客のいない朋輩達は、すでにいなかった。

「おや。何か、注文でもありましたか?」

 今夜のしんばんを任せられた老女が、ひどく疲れた様子で聞いてきたが、答える時間がしく、だしへ下りると、結城さんの下駄を手に取って、見えないところへと隠した。

 遅れて降りてきた彼と私を見比べ、ことだいさっしてくれたらしい女主人は、大きなため息を吐き出すのを我慢し、あきれた顔で私をにらみつける。

 怒られることはかくうえだけれど、今夜はどうしても、一人でいたくない。

 じっと見つめれば、女主人は呆れたように、「……雨戸を閉める時間ですので、今夜は泊まっていかれてはどうですか?」と、彼に提案してくれたのだ。

 最初は戸惑っていた彼も、自分の下駄がないことに気がつくと、諦めたように「そうだな」とうなずく。

「足を取られてしまっては、幽霊ではない身だ。戸の隙間から抜け出すこともできそうにないな」とため息を吐き出し、私と共に二階へと戻ってくれたのだ。

 女主人の提案もあってか、結城さんはここに泊まることが決まった。

 戻った部屋で、「かねだけでなく、足まで取られては、浮かばれそうもないからな」と結城さんは笑ったが、今夜の私は笑えそうになかった。

 店の雨戸が閉まる音に重なり、あちこちの建物でも、ガタゴトと雨戸が立てられていく音がする。

 しばらくのあいだ賑わっていたその音も、さほど広くない建物ではまばたきのあいだのことだ。

 全ての雨戸がざされた後には、しょうかべいたの隙間からていたともしかげも消えて、一面が真っ暗になる。

 月も出ない夜は、いつも以上に静かだ。

 つかのうたげで騒ぎ疲れたのか、男女のささやう声も闇の中には無く、ただ、建物ののきしたする、こうじゅんが立てる靴音のみが、高く高く響いていく。

 静まり返る夜の中で、辺りをけいかいする巡査の耳にもはいらぬほど静かに泣くのは、結城に背を向けて眠るお力だけ。

 誰も知らない、彼女だけの涙であった。



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