第四十五話
それから少しして、子供のような泣き声をどうにか飲み込むことができた私は、ハンカチでは
こんなみっともない顔など、この人以外にはきっと、あの人にだって見せられなかっただろう。
ふと、源七の顔が頭によぎったが、だんだんと過去になっていくあの人とのやりとりを思い出しながら、結城さんへ視線を向けると、彼は静かな瞳で私を見ている。
その熱のない瞳に、背中がスッと冷えるのを感じた。
(やってしまった……)
そもそも彼は、私とは身分違いだと言える相手。
どこで何をやっているのか、どんな家の人なのかもわからない彼には、こんな話を
口だけなら、「かわいそうに……」と同情できるが、心からわかってもらえるはずなどなかったのだと、彼の冷めた目が証明していた。
それに気づいた
それでも『菊の井のお力』として、彼との身分差を寂しいと、悲しいと思いながらも、いつもの笑顔を浮かべた。
「……私は、そこら
――気がつけば、夜もかなり遅い時間になっていた。
下からの声も少なくなり、団体客も帰ってしまったのか、大広間の方も静かなものだ。
今夜は祭りの
いつもより多く、女達の声が響く一階は、女主人が
それに気がつくと、あれほど騒がしかった大広間の出来事が、なんだか懐かしく感じられるのが不思議だった。
このような店では、泊まり客がいなければ、
それを喜ぶかどうかは、いい人がいるのかいないのかで決まってくる。
私のように誰かを待ちながら、それでも来てくれるのならば、まだいい。
けれど、この新開の中で、どれほどの女達が涙を流しがら、違う男の腕の中にいるのだろう。
いつもなら考えないことまで考えてしまうからか、いつもの
結城さんは優しいが、誰とでも
遊び人だと言ってはいるものの、どう見ても、お
そのくせ、こちらが踏み込もうとすれば逃げるのに、私がつらい時には、誰よりも早く気がついてくれるのだから、もう……駄目だった。
そんな彼の優しさに
しかし、彼は私の態度を気にすることはなく、うつむきかけた首を横に振ったのだ。
「……いや、必要ない。……その……
彼の方が遠慮がちにそう尋ねてきたので、私は、「はあ」とうなずいた。
「
こうやって
父がやたらと祖父の話をしていたため、祖父と同じくらい老いているものだと思い込んでいたようだ。
両親を早くに亡くしているため、思い出すのもつらいとばかりに、家族の話をしなくなっていたので、久しぶりに話した両親のことで、いくつか思い出したことがある。
その中でも、幼い頃に見た父の
「……実の親だから
自分で自分の身の上を話すのは、こんなにも、つらいものなのだろうか。
酒で上がった気分が、一気に
鬼だ悪魔だと、子供にまで言われてきた身ではあるが、自分は、こんなにも結城さんに心を傾けていたのかと、今さらながらに思われてならない。
源七が相手では、ただ、好きで好きでたまらなかっただけだというのに、この人が相手では、こうも恥じらいを感じてしまうものなのか。
急に込み上げてくる、知らない感情に
「お力。お前は
思わず、顔を上げる。
見慣れた顔には
震えそうになる唇を噛み締められず、せめて、声だけは震えるなと、自分に言い聞かせる。
「……そう、ですよね。私なんかが、こんな立場で、高みを望んだところで、
すると結城さんは表情を変え、
「嘘は誰でもつくが、真実を隠すためにつく嘘は人による。出会った頃から今まで、お前のことはずっと見てきたのだ。今さら他人のように扱われては困る。知らない仲ではないというのに、秘密を持ったまま打ち明けないのは
どうやら、それが彼の答えらしい。
「……あれ。そんな
もうこれ以上話すことができず、力の抜けた体を柱にもたれさせ、うつむいたまま視線をそらす。
何も言えないまま時が過ぎ、だんだんと店が静かになっていくのに気がつくと、いつの間にか、夜中に
それでも、まだ動けない私をよそに、どんどんと時間は進み、下から、「
もう、店が閉まる時間らしい。
毎日のことではあるけれど、
ガタガタと、
今日は少ない方だが、祭りの夜というのは、飲み食いだけをして家に帰る客よりも、女を目当てにやって来る客の方が多いものだ。
祭りの熱に浮かされて、一夜限りの遊びを求めてやって来る
女も男も、等しく浮かれてしまうのが、祭りというもの。
老いも若きも関係なく、誰も彼もが熱に浮かされて、思いもしないことをしてしまうのが、祭りの夜なのだ。
すると、私の
「ずいぶんと
いつもなら、「手伝いますよ」と言って手を貸すのだけれど、今日は無理だ。
ここで帰らせては、『菊の井のお力』の
「帰しませんよ。なんとしてでも泊まらせますから、そのおつもりで」
そう言い残して襖を開けると、結城さんが止める声も聞かずに階段を駆け降りた。
店の出入り口では、女主人と老女が片付けをしていて、泊まり客のいない朋輩達は、すでにいなかった。
「おや。何か、注文でもありましたか?」
今夜の
遅れて降りてきた彼と私を見比べ、
怒られることは
じっと見つめれば、女主人は呆れたように、「……雨戸を閉める時間ですので、今夜は泊まっていかれてはどうですか?」と、彼に提案してくれたのだ。
最初は戸惑っていた彼も、自分の下駄がないことに気がつくと、諦めたように「そうだな」とうなずく。
「足を取られてしまっては、幽霊ではない身だ。戸の隙間から抜け出すこともできそうにないな」とため息を吐き出し、私と共に二階へと戻ってくれたのだ。
女主人の提案もあってか、結城さんはここに泊まることが決まった。
戻った部屋で、「
店の雨戸が閉まる音に重なり、あちこちの建物でも、ガタゴトと雨戸が立てられていく音がする。
しばらくの
全ての雨戸が
月も出ない夜は、いつも以上に静かだ。
つかの
静まり返る夜の中で、辺りを
誰も知らない、彼女だけの涙であった。
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