第四十四話


「私の父という人は、三歳の時に、あまがあるえんがわか、屋根のないえんから落ちてしまい、片方の足がうまく動かせない状態になってしまったのだそうです。そのことで、子供の頃から、ずいぶんと苦労をしていたと聞いております」

 酒でうるおいが戻った喉の調子は良いらしく、彼女はハキハキと話していく。

「今も昔も、体のどこかしらに不自由を抱えた人に対しての世間の目は冷たく、父は、健康な人が大勢いる場所で働くのは嫌だと言って、自宅で一人ででも出来る仕事をしておりました。当時は、げいしゃさんの髪飾りなどを作るかざしょくにんが多かったそうなので、父もそれにならって始めたそうなのですが、今になってみれば、何をどう作っていたのかもあいまいです。ぐらいが高すぎて人付き合いがうまくできない人だったそうですから、ひいにしてくれる人も、常連になってくれる店もなく、売れない作品を作り続けていただけだったのだと思われます」

 皮肉な話の区切りに、ゆっくりと酒を飲み込む。

 ぼんやりとした目でたたみから視線を上げると、壁をにらみつけるようにわった目を見開き、首を上げて天井を見上げる横顔は、何かにおびえているように見えてくる。

 そうしてまたゆっくりと酒を飲み込むと、湯呑みを膝の上に置き、遠い目に戻っていく。

 ほうけたように薄く開かれたその口が、せんさいからざいのようにぎこちなく動き始めたのは、それから間もなくだった。

「……ああ、あれは、私が七歳になった年の冬でございました。今でも、鮮明に覚えております。最も厳しい寒さが続く時期に、親子三人で、使い古した浴衣ゆかただけを着ていたのですが、父は寒いと感じないのか、それともこごえることを知らないのか、ボロボロの柱にもたれかかりながら、仕事用のさいものに工夫をらしていて、いつになく静かなものでした。母はといえば、かどなどが欠けてかっこうになった、家に一つしかないかまどの前に立ち、割れて壊れそうな鍋を火にかけようとしているところでした。振り向くと私に、『鍋で煮る物を買いに行け』と言います。私は、したりするのに使う、しざるを渡されて、それにひもくくけて肩から腰へ斜めに掛けると、わずかなお金を握りしめ、こめへと向かいました」

 懐かしむように話す彼女だが、その目はうるみ始めている。

 部屋に置かれたあんどんの火が揺らめき、彼女の目元を一瞬だけ輝かせた。

「久しぶりの買い物です。米屋の前までは嬉しくてたまらず、寒さも感じずに思いきり走って行けたのですが、帰りになると寒さが身に染みてしまい、ブルブルと震えながら、足早に家へと向かいました」

 この話をしている今は、夏のさかり。

 じんわりとにじむ汗に反して、お力の唇はだんだんと震えていく。

 顔色も悪くなっていき、この話の最後が見えてきたように思えたが、結城はやはり何も言わず、静かに酒で飲み込んだ。

「……きはあっという間でしたのに、帰りは手も足もかじかんでしまい、思うように動きません。家までは、五、六軒の距離です。一軒二軒と数えて行くうちに、家に帰れるだろうと、残りの距離はゆっくり歩いて行こうと決めたのですが、道のはしを歩いていたのが悪かったのでしょう。運悪く、凍っていたドブいたに気づかないまま、氷の上に乗ってしまい、勢いよく滑ってしまったのです。……気がつけば、空を見上げていました。倒れないようにと、踏みしめられる場所などありません。ころぶ勢いで、一瞬だけ空を飛んだのです。……それでも、米の入ったしを握りしめてはいましたが、転んだ衝撃で取り落としてしまい、あっけなく地面に落としてしまいました。落ちた味噌漉しは勢いをつけ、道路の上を転がっていきます。そんな時ほど、運の悪いことは続くのでしょうね。一枚だけ外れたドブ板の隙間に向かって転がった味噌漉しは、そのくちを板の中へ向けるように止まったのです。中の米は、味噌漉しにとどまる力を失い、開けっぱなしのくちからザラザラとこぼれ、ドブ板の中にはいっていくのが見えました。身が凍るほどの寒さでも、ドブ板の下はみず。止まらない水の流れのさらに下には、汚いドブどろが溜まっていて、真っ白い米はあっという間に、その黒の中へと消えていってしまったのです」

 真っ赤な唇を震わせ、白い化粧越しにもわかるほどに顔色を悪くしたお力が、両手のひらを握りしめた。

 運の悪いことだと、ひとくくりにはしたくないが、本当にたまたま、うんが重なってしまったのだろう。

 そう思いながら、結城が二口目の酒を飲み込むと、彼女はうつむいて話を続けていく。

「……少しだけでも戻らないかと、何度も何度も板の隙間から中を覗いてみましたけれど、あんな小さなこめつぶを、どうやって拾い上げられましょう。その時の私は七歳でしたが、自分の家の状況も、父と母が何を思って私にお金を預け、米を買いに行けと言ったのかも理解できていたというのに、私は何てことをしてしまったのか……。どうにもできないからといって、『買ったお米は、帰る途中で落としてしまいました』と、からの味噌漉しだけを肩にげて、手ぶらで家には帰れませんでした……」

 唇を噛みしめ、彼女は漏れそうな泣き声を飲み込んだ。

「……その場で立ったまま、しばらく泣いていましたけれど、『どうした』と声をかけてくれる人などおりません。泣いている理由を聞いたからといって、『代わりを買ってやろう』と言う人は、なおさらいませんでした。そんなぜんにんがいるほど、私の住んでいた場所は裕福ではなく、むしろ貧しすぎて、どうしようもないくらいでしたから……」

 ニコリと笑うその笑みは、いつもと違って作り物めいている。

 それでも話は止めず、お力は続きを話す。

「……どうしよう、どうしようと悩みながら泣いていても、どうにもならないことはわかっていました。あの時、近所に川か池か、飛び込める水場があったのならば、私はきっと身を投げてしまっていたことでしょう。そうやって、この世から消えてしまえていたら、こんな自分にも……ならなかったのかも、しれませんのにね……」

 にくげに唇をゆがめた彼女は、「ああ、嫌だ」と酒を飲みつつ、「私がする話は、誠実さも真実も、百分の一だけしかありません。私は味噌漉しの米を失った頃から、気が狂ったのでございますよ……」と笑うと、大湯呑みを片手に話を再開した。

「……私の帰りが遅いのを心配した母親が、外まで探しに来てくれたのをきっかけに、どうにか家へは戻れましたが、私が転んで米を落としてしまった話を聞いた母は、それから何も話さなくなり、てておやごんになってしまいました。……家の中は、急に静かになってしまったのです。私のことを心配はしてくれても、誰一人しかる人はおらず、静まり返った冬の寒い家の中で、私は一人、両親から無視されている状態だったのだと思います……」

 結城の口から、否定の言葉は出てこない。

「時々二人から、残念そうなため息が漏れてくるのを聞くうちに、私は身を切られる以上に情けなく、みじめな気持ちになっていきました。お使いひとつ満足にできないだけでなく、せっかくの食料をダメにして、手ぶらで帰ってきた自分が、ひどくみにくい存在に思えてきたのです。しかし、そうやって、静かな中で黙り込んでいた私をねてか、『今日は一日、だんじきにしよう』と、父がひとこと言い出すまでは、息をすることも出来ずにいました。……それでも……今でも、息は出来ないままなのでございます……」

 そこまで話したところで、当時を思い出してしまったのだろう。

 お力は涙声で、「私は」と言いかけたが、言葉を止め、あふてくる涙を自分では止められず、どこからかくれないのハンカチを取り出した。

 それで顔全体をおおかくしながら、食いしばるようにハンカチのはしを噛み締めつつ、唇をいちもんに引き結ぶと、涙と共に心の声を飲み込んだのだ。

 そうやって彼女は何も言わないまま、三十分か一時間か。

 時間は、どんどんと流れていく。

 えんせきには似つかわしくないほどのせいじゃくがあり、着物がれる音も、酒を飲む音すらも聞こえてこない部屋では、お力に気を遣ってか、結城も動かなかった。

 酒にも手をつけず、彼女が再び顔を見せるのを待つ間、時間だけが彼に寄り添い、静かに通り過ぎていくだけだった。

 そんな中でも、動くものはあった。

 酒の香りを恋しがって寄ってくるが、動かない二人になど目もくれず、お銚子や大湯呑み、お猪口へと群がっていく。

 誰かの声に聞こえるその音だけが、静まり返る部屋の中で、悲しげに響き始めた。

 その中に混じる、お力の声。

 噛み締める歯の奥でうずく彼女の泣き声は、誰にも聞かれぬまま蚊の声にかき消されていき、そうして静かに消えていくしかなかった。



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