第四十三話


 そんなお力の様子に、結城は、あきれることも、気を抜くこともなかった。

 お力に合わせて少しずつ酒を口にするだけで、彼女が話し始めるのを静かに待っているだけだ。

 ここであせっては元も子もないと、ようやく理解し始めたのかもしれない。

 そうこうしているうちに、お力は落ち着きを取り戻せたのだろう。

 酒を飲む手を止め、持ったままのおおみを膝の上に載せて一息つく。

 そうして、フッと小さく笑って下を向くと、べにが薄くなったしたくちびるを恥じらうかのようにあごを引き、「私のことについてですが……」と話し始めたのだ。

「……何より先に、私という人物のらくしょうしていてくださいね。だらしがなく、ふしだらで、先のことを考えることなく生きて来たというよりも、元から『自分』というものがなく、世間にめないまま、ちるところまで落ちた一人の女として、話を聞いていただきたいのです。生まれつきのはこりでもなければ、けんらずのむすめでもないということで、少しは過去について、なんとなくでも、わかっていてくださるでしょうけれどね」

 うつむいたまま、彼女はせつなげに目を細める。

「口では『かわいそうに』とれいごとを言ったとしても、でいちゅうはすとでも言うのでしょうか。この辺り――新開に暮らす人で、悪いことに染まらない女子おなごがいれば、店ごとはんじょうするどころか、見に来る人もおりませんよ。客はあくまでも、過去に何かあった『かわいそう』な女を買いにくるのですからね」

「……それは、自分よりも立場が下だからか?」

 お力はニコリと笑い、「そうですが、そうではありません」と返す。

「客達が望むのは、『かわいそうでいとしいと思える女』と遊ぶこと。面白みのない生活の中で、人生のわずかなひと時を、男の理想でいろどりたいのだと思います」

「皆が皆ではありませんが……」と、お力は続ける。

 結城は、「遊郭でもあるまいし、遊ぶだけが目的ならば、なぜここに来るのだ」と言うので、お力は、「らくだからでしょうね」とすぐに答えた。

しょうがいはんりょを、と思うならば、こんなところに来ようとは思いません。ひと時の遊び相手として、あとくされのない女を求めてやってくるのでしょう。ですが、貴方はべつもの。ここでは特別な考えを持つ人であり、例外でもあります。私のような人気者のところへ来る人であっても、だいたいは、ひと時の遊びで、ものめずらしさからだとお思いになっていてください。中には、さきほどの客のように、私のことを、どこぞのお嬢様かお姫様かのように、ごうまんで世間知らずの、男にだらしない女だと決めつけてかかる、おうへいな方もおりますのでね」

 大湯呑みに酒をそそぎながら、お力は静かに語っていく。

 これまでのように会話を流すことはなく、たんたんとではあるが、結城の問いかけに答えていく姿は、別人に見えるほどに、いつもと違っていた。

 姿すがたかたちが美しいだけであれば他にもいるのだろうが、かがやかんばかりのないめんを持ち合わせる者はそうそういない。

 それと同じくらい、自分の心をいつわれる女もいないだろう。

 彼女は、なみなみと注いだ酒を飲みながら、「女を大事に思う男もいます。私はそういった人とのえんが、極端に薄いのでしょうね」と言い、湯呑みの底にある酒を一気に飲み切る。

 唇のはしからこぼれそうなしずくごと深呼吸をし、すぼめていた口を一気に開くと、唇が乾く前に話を再開した。

「こう見えても、時々は、普通の人達と同じことを思って、他人の目を気にしますし、あれこれと行動することだってあります。恥ずかしいことや、つらい事情などない恥知らずだと思われても、いっそのこと、しゃくけんの狭い家で、夫と呼ばれる一人の男と夫婦になり、身を固めてしまおうと考えることもございました。世間一般の女であれば、家庭にはいり、夫や子供、りょうしんの世話をしながら年老いていくことを望むのでしょうけれど、それが私には、できないのです……」

 結城の肩が、わずかに動いた。

「それかと言って、客として店に来るほどのお人になくはできず、『可愛いですね』だの、『したわしいのです』だの、『一目惚れしました』だのと、その場その場でいい加減なおをも言わなければならないため、大勢いる『一番好きなおかた』の中には、私のたわごとなどをけてしまい、このような何の価値もない酌婦を女房に欲しいと、言ってくださる方もおります」

 ――まあ、とくなお方のほうかつどうでしょうけれどね。

 かすれる声で続けた言葉は、しっかりと結城の耳に届いていた。

 それに気づかないお力は、「結婚していただけたら嬉しいのか、夫婦としてしょうがい連れ添っていただけたらほんもうなのか……。それが私には、わからないのです……」と言うやいなや、クイと湯呑みを傾けた。

 再び唇を湿しめらせたお力は、不満そうに、しかしなやましげに、自分の話を続けていく。

「そもそもの初めから、私は貴方のことが、好きで、好きで、仕方がありませんでした。雨が降りしきっていたあの日。店の敷居の向こう側に、貴方の横顔を見たその時から、一日でもお会いできなければ、恋しくてたまらなくなるくらいなのでございますけれど、奥様にしてやると言われたら……どうなのでございましょうね……。『貴方の奥様になるのは嫌だ』、『それ以外の関係ならば恋しくてたまらない』などと、一度に言われたら、どっちつかずのゆうじゅうだんでございましょう。いつまでも気を持たせて、期待をさせるだけさせておいて、結局は誰のものにもならない。それこそが、『菊の井のお力』だと、貴方だってきっと思います。そう、思ってしまうのでしょうね……」

 遠くを見て話す彼女は、酔っているのかいないのか、それすらもわからないほどに、遠い目になっていた。

 結城のことなど見えているのかいないのか、それすらも判断できないほど、何かを見つめる彼女の姿に、話を聞くだけの彼は何も言えなかった。

 お力は、大きなひとくちで酒を一息に飲み込み、大きく息を吐き出す。

「……ああ、こんなうわものには、誰がしたとお思いなさる。さんだいに渡って受け継がれてきた、そこないの血ですよ。私のおやあゆんだいっしょうも、けずおとらずに悲しいものばかりでございました……」と言って、ホロリと涙をこぼすので、「親父さんは、どうしたのだ?」と思わず、話の途中で問いかけていた。

 質問されたお力はこぼした涙をそのままに、湿らせた唇を薄く開けた。

「……私の親父は職人で、ジジイ……いえ、は、かくを読んだ人でございます」

 四角い文字というのは、いちぎょうの文字をつなげて書くそうしょとは逆に、一文字ずつをしっかりと書くかいしょを指す言葉だ。

 お力がそれなりに、文字の読み書きができることは知っていたのだが、祖父が文字を読めた人なのであれば、彼女の父親もそうなのだろう。

 そう考えながら続きを聞こうと、姿勢良く伸ばしていた背中をわざと丸めた結城の様子に、お力はクスリと笑った。

「……祖父は、貴方のようなおかたい文字を読み書きできた人ではございますが、どこかに雇われるほど、立派なお人ではありませんでした。私を見ればお分かりでしょうが、つまりは私のように、恋に溺れてくるい、何の役にも立たないがみを、しょうがいわたって作り上げただけの人でございます。仕事は、何やら文字を書いていたとかで、さっにした作品が売れるくらいには有名だったそうなのですが、時のせいのおやくにんさまに、目をつけられるものでも書いてしまったのでしょう。おかみと呼ばれるおえらかたに、作品の販売を止められたのだとか、二度と書くことを許されなかったのだとかで、印刷と販売の許可を得るために、だんじきをしてまでこうをしたそうなのですが、そのまま死んでしまったそうにございます」

 結城に視線を向けたお力は、口元に笑みを貼り付けたまま、「そもそも」と続ける。

「祖父は、十六歳の頃から何か思うことがあり、いえがらも身分も、低い立場であったにも関わらず、ひたすらに読み書きを練習していたといいます。さぞかし、立派な文字を書いていたのでしょうね。しゅぎょうそうのように、女性とえんのない暮らしをしていたそうなのですが、六十を過ぎたところで、初めての恋をしたのだとか。……幼い恋でさえ、あれこれ言われるというのに、六十を過ぎた老人が、恋にうつつを抜かしていると噂が立ったとかで、当時はいいわらものだったそうです。死ぬまでずっと笑われ続けたというのに、今ではその名を知る人もいないのだとか……。そう言って、父がいつもなげいていたのを、子供の頃から知っておりました。そういう父も、幼い頃から年寄りの子だと笑われていたとかで、私の祖母だという人と共に、ひどくかたせまい思いをしていたのでしょうね……」

 ――少し、疲れたのだろう。

 お力はフウと息を吐き出し、酒のおかわりを頼むために、ざした襖をゆっくりと開ける。

 そうして、「お銚子を追加でお願いね」と言うと、すぐ下からしゃがれた声が聞こえた。

 下はまだ騒がしいが、例の客は帰ったようで、お力の声に怒鳴り声を上げる者はいない。

 しゃがれた声の老女が一人、店先でばんをしているだけのようで、女主人の声も聞こえてこなかった。

 結城は、お猪口に残っていた酒をひとくちで飲み、遠くを見つめるお力から視線をそらす。

 自身も壁を見つめ、酒が来るまで別のことを考えようと、意識を遠くに離した。

 ――そういえば、お力の祖父が生きた時代は、全てのかいしょが禁止されていた時期であったはずだ。

 当時のばくを開いた初代将軍が、「楷書はそとくにの言葉であるから」と、楷書自体を嫌っていたらしく、公式のしょたいとして、『いえりゅう』と呼ばれる、楷書に似た『いえりゅうそうしょたい』というものが、幕府のこうしきしょたいとして使われていたそうだ。

 これは、そうしょたいとくゆうくずされた部分が少なく、かいしょたいいちかくいちかくつなげて書き、ひとごとに独立している形の文字だ。

 楷書体だけしか読めない者でも読みやすい文字で、古い冊子やぶんけんなどで見られるくずよりは理解しやすかった。

 おやだいだいは、この『御家流草書体』で読み書きをしていたので、よほどのあくひつでなければ、今でも読めないわけではないらしい。

 幕府の時代では、こうぶんしょや一般人の読み書きは『御家流草書体』だが、しゅっぱんぶつぎょうしょたい――崩し字で書くことが決められていたので、この時代の出版作品は、全て崩し字で書かれている。

 一般の人は、冊子などの崩し字を、絵のように見て覚えていたらしく、せいの人達にとっては、『御家流』よりも身近な文字であったため、今も崩し字で書かれることが多い。

 僕も崩し字を読もうとしたことはあるのだが、人のくせや書き方があるため、かいしょに慣れた身では難しかった。

 親がせいしゅっしんの子であれば苦労はしないらしいが、それでも読みにくい時があるらしい。

 場合によっては、崩し字で書かされることもあるため、仕事の同僚が、「読み書きに時間がかかって面倒だ」と、ため息じりに愚痴をこぼしていたことを、結城はここで思い出したのだ。

「こんな時にまで、仕事のことか……」と、結城が苦笑いを浮かべるが、そのうちに追加の酒が運び込まれる。

 お力はそれに満足したのか、笑みを浮かべながら、続きを話し始めた。



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