第四十二話


 じゃくいだ酒をひとくちふたくち

 いっこうに終わらない彼女のひとみを見ながら、結城は何があったのかと考えていた。

 お力と出会ってから数ヶ月が経ち、互いに親しみを持てるほどには仲を深めていると思っていたのだが、今ひとつ、彼女のことが理解出来ないでいた。

 何を聞いてもかわされ、何を尋ねてもまともには答えてもらえず、媚びるということをしない女だということしか、わからないでいる。

 特別、彼女を気に入っているというわけではないが、それでもかれるものがあるのだから、やはり自分にとってお力は、どこか特別に思える人なのではないのだろうか。

 そんなことを考えながら会いにきてみれば、彼女は客のことをほうって店を飛び出し、僕との約束すら忘れて、人の多い通りを一人で歩いていたのだ。

 最初は事件にでも巻き込まれたのかと思ったが、どうやら彼女のさわるようなことがあったのだろう。

 僕の目の前では控えていた酒をあおり、らしをするかのように飲み干していく。

 客を無視することなど一度もないのに、僕のことをおきものだとでも思おうとしているようにも見えた。

 一階の大広間で騒いでいる男がげんきょうなのだろうが、それにしてはおかしな話だ。

 男の冗談など、笑ってかわしていたはずの彼女が、ここまで荒れるようなことをされたとでもいうのだろうか。

 何があったのかを聞くために、彼女と仲の良いお高でも呼ぼうかと思ったのだが、今夜は閻魔詣での賑わいで客が多く、誰一人、を離れられないということは目に見えている。

 呼ぶことくらいはできそうだが、無理をすれば、店の主人に迷惑をかける事態になりかねない。

 それなりに『菊の井』を気に入っている結城は、お力の機嫌が直るのを、黙って待つほかなかった。

 そうやって結城がじゃくざけをしている間に、少しずつではあるが、お力は機嫌が戻ってきていた。

 酒のおかげか結城のおかげか、心に余裕が持てるようになったため、酒を飲みながら、少し前のことを思い出していたのだ。

 男にくだされるのも、ないがしろにされるのも当然の立場ではあるが、今日ほどこたえたことはない。

 思った以上にガタがきているらしく、酒でも飲まなければ、仕事すらままならなかったのは、そのせいなのだろう。

 年を取り、客に喜ばれるには厳しい年齢になってはきたが、いい人を見つけて結婚しようなどとは思わない。

 いつまでここにいられるのか、どこまでこの仕事を続けられるのかもわからない今、いつも胸にあるのは、不安とのうだ。

 今も昔も、女が三十を過ぎれば、女としての区切りをつけられることが増えてくる。

 結婚は諦めなければならなくなるし、三十になった途端に、男達は離れていくのだから。

 二十代の今だからこそ、『菊の井のお力』としてチヤホヤされて、それなりに稼げるのだが、三十を越えればその立場など、若い娘に取って代わられて終わりになる。

 源七が縁を切ってくれないこともあり、冗談で済ませられている男関係も、そろそろほんごしれて考えなければ、自分の首を絞めかねない。

 味方になってくれる仲間はいても、後ろ盾になってくれる人がいない今、捕まえているじょうきゃく達がいつまで相手をしてくれるか……。

 それが今のお力にとっては、地獄に垂らされた蜘蛛の糸になっているのだ。

 若さも美しさも、長くは続かない。

 かといって、今さら普通の人と同じ仕事になど、就けるはずもない。

 どうしようもない不安と立場が彼女を押し潰そうと、くたびれた背中に重くのし掛かってくる。

 彼女にとって今は、かたむき続けるてんびんの上でおうおうしながら、これからの人生を選ばなければならないてんときなのだ。

 右へ行くか、左へ行くか。

 そうやって終わりのない選択を続け、死ぬその時までき続けることはわかっている。

 それでも動かなければ、何もできずに終わってしまうのだ。

 つまらない女のまま、死にたくはない。

 そのいっしんで、ここまで走り続けて来た。

 惚れた男をかぎることになろうとも、誰も信じられなくなろうとも、ただひたすらに、ここまでけて来たのだ。

 ふと、静かに飲んでいる結城に気がついた。

(ああ、そういえば……)

 連れて来た客を忘れ、一人の気分で酒を飲んでいた自分にも気がつき、「自分らしくないね……」と、口元がゆるむ。

 そこでようやく結城へ、目を向けることができた。

 彼は怒っているわけでもなく、あきれているわけでもなく、手酌で酒を飲みながら、自分の言ったことを守ってくれているようだった。

(……そういえば、こうして結城様のお姿をきちんと見たのは、初めてだ)

 そんな言葉が頭に浮かんだ。

 いつもなら、それほど気にすることもなく、覚えることもしなかった彼の容姿や態度、服装など、目にまる全てが気になり始め、ジッと彼を見つめてしまう。

 今夜はなんとなくではあるが、彼の姿がいつもと違うように思われて、これまで見てこなかった全てが、今さらのように気になりだしたのだ。

 例えば、かたはばがあって身長がとても高いところだとか、落ち着いて話すおごそかな話し方だとか。

 きが恐ろしくて、人をるような鋭さがあるところも素敵で、げんが身についているように見えてしまうのだ。

 自分より若いであろう彼の、男らしい部分を知ってしまったけれども、怖いと感じるより先に、かっいいと思えてしまうところが、なんだかいとおしく思われる。

 黒々としていて、しっかりしたもうしつの髪の毛を短く刈り上げて、えりあしをくっきりとお見せになった髪型も、今になって初めて見た気がしてしまう。

 今さらではあるけれど、ジッと見つめてしまうくらい、れてしまうのだ。

 そうだ。

 この方はこんなお顔をしていて、こんな髪型だったのだと、お力は改めてかんしんしたのだった。

「――何をうっとりしている」

 見られていることに気がついた結城は、珍しく自分を見つめるお力に問いかけた。

 誰にも興味を持たず、酒かタバコで客の相手を誤魔化すような、気の抜けた接客が当たり前の彼女が、ここまで自分に興味を持っているところが、何だか不思議でたまらなくなる。

 少し強い口調にはなったが、お力は気にすることなく、「貴方のお顔を見ていますのさ」とあっさり答えるので、結城はおちょを口から離し、「やつめが」と彼女をにらみつけた。

 僕をからかっているのかと不機嫌になるが、お力は楽しそうに、「おお、怖いお方」とふざけた口調で返し、笑うが、その表情は暗いまま。

 いつもの調子に戻っているのであれば、笑い話になったところでやめるのだが、今夜のお力は話を止める気がないようだ。

 どこか遠くを見ているかと思えば、急に僕を見つめて暗い顔をする。

 そうかと思えば無理に笑い、冗談で済ませようと顔をそむけては、また遠くを見ているのだ。

 思えば、道を歩く彼女を見つけた時からかんがあった。

 その正体がわからなかったので、何も聞かずにここまで来てしまったが、まさか、客を置いて、店を飛び出していたとは思わなかった。

 自分のこころけでどうにか落ち着いたらしいが、それでも、お力に逃げられた男にしてみれば、それで済ませられることではないだろう。

 まんいちにでも恨みを買ってしまえば、文句を言われるだけでは済まないだろうし、今後の仕事に影響は出ないか、店の評判に関わりはしないかと、心配になってくる。

 しかし、当の本人はどこかほうけたまま、男のことなど、すっかり忘れているようだ。

 やはり、何かあったのか?

「……冗談はそこまでにしておけ。今夜のお前は、様子が普通ではない。その理由を聞いたら、怒るかどうかは知らないが、何か、お前にとって事件でもあったのか?」

 さぐるように問いかけてみれば、フッと笑われた。

「どうして、っていたことでもないのに、客や同僚とのめんどうごとなど、気にかけましょうか。そんなもの、いちいち気にかける必要などありませんよ。他の人とのごとならば、そうなる理由があったにしても、いつものことでございます。誰と誰が喧嘩しようが、客の一人や二人に振られようが、私にとっては気にもならないことに、どうして物を思いましょうか。悩むだけ、時間の無駄です」と、あざけるように答えたのだ。

 結城は、「突然のことでなくとも、当たり前のことであろうとも、ここでの普通は普通ではないのだろう? あの客に何かされたか?」と聞くが、お力は否定するように首を横に振った。

「あの方だけが悪いわけではございません。私がお相手をしたからといって、いつもと違う態度や言動をするのは、その人自身が、そういった性格やしょうぶんだからと、それに合わせて、そうするのではありません。誰でも、心の持ち方や性格に、何かしら後ろめたいわけがあります。ここは、そういった人が多い場所ですからね。よくあることでございますよ」

 ニコリと微笑むその目は、結城を遠い人かのように見ていた。

 その目にすじさむくなったのは、気のせいだろうか。

「そういう場所にいる私は、世間からすれば、誰よりも低い立場。貴方は立派なおかたさま。違う立場の私達ならば、それぞれに、考えることも悩むことも違いましょうが、正反対であるからこそ、私の話をお聞きになっても、その裏側まで気持ちをんでくださるのか、くださらないのか……。そんなことまでは知りませんが、たとえ笑いものになったとしても、私は貴方に笑っていただきたく、今夜は全てを言います。貴方にこそ、聞いていただきたいのです」

 それまでの空気を変えて、彼女は大湯呑みを強く握りしめた。

「……まあ、何からお話しいたしましょう。胸の内が暴れてしまって、うまく話せそうにありません」と言って笑うと、またもや大湯呑みに酒をそそぎ、浴びるように次々と飲んでいく。

「ようやくか」と結城が肩の力を抜いたところで、彼女はうつむきがちに視線をそらした。



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