第四十一話


 そうして、二人揃って店へと戻ってくる少し前。

 お力の消えた大広間は、あんじょう、大騒ぎになっていた。

「なんだ、あの女は。この俺がししたというのに、さっさと逃げたぞ」

 お力に逃げられた男がきゅうの女に言うと、女は「あいでも悪くなられたのでしょうね」と笑顔で返す。

 別の男が、「あれがおりきりゅうというやつか?」と笑うが、逃げられた男は不機嫌をあらわに、中身の入ったちょうを握りしめた。

「おい、女」

 先ほど声をかけられた給仕の女が振り返ると、男はぬるくなった銚子の酒を女にかける。

 そうしていた銚子で机を叩き、「お力を出せ!」と、大声を上げて暴れ始めたのだ。

 騒ぎを聞きつけた女主人が部屋に入れば、男は仲間達からめにされつつ、なおも大声で文句を言っている。

 やれ、「女が調子に乗るな」だの、やれ、「しゃくぜいが客を選ぶな」だのと、他の客ににらまれようともお構いなしに、わめくように叫び続けているのだ。

 何があったのかと、女主人が近くに座るお高に聞けば、「力ちゃんがどこかへ行ってしまったんだ」と、あわてた様子で答えてくれた。

 お力が店を飛び出していく姿を女主人は見ていたため、客とお力のどちらにがあるのかは明らかだった。

 あの客の暴言にヘソでも曲げたのかと思った女主人は、「お力が帰ってきたら、すぐにさせるよ。それまで、あの客は放っときな」とだけお高に告げ、さっさとちょうへ戻って行ってしまったのだ。

 残されたお高は、同じくまかされたおてると共に、歌や踊り、三味線などで場を盛り上げるが、お力に逃げられた客の機嫌だけは取り戻せない。

 お力のことだから、そのうち戻ってくるだろうと、暴れる男の世話を彼の仲間達に任せ、客も女達も、それぞれがついたての向こうで酒や遊びを再開する。

 そんな周囲の様子に、男の機嫌はさらに悪くなってしまった。

 見かねた数人の女が男の相手をしようとするが、「お力を出せ!」と、銚子やおちょが飛んでくるため、早々に逃げてしまう。

 そんなことを数回も繰り返せば、彼のいる席だけが、不気味なほど静かになってしまっていた。

 そうやって大広間の騒ぎを聞いていた女主人の前に、お力がひょっこり「戻りました」と帰ってきたのだ。

「おや、お帰りか」

 怒るわけでもなく、あっさりと出迎えた女主人の声にかぶせるように、奥の座敷から「お力!」と、男のせいが飛んでくる。

「客を置き去りにして、うたげちゅうする決まりなどあるものか! それとも、これが『菊の井』の法律だとでも言うのか? 帰ってきたならば、ここへ来いっ。顔を見せなければしょうせぬぞ!」

 狭い店だからか、ふすましでもお力の声が聞こえたのだろう。

 自分を置いて宴をほっぽり出したうえに、店からいちもくさんに逃げ出したことまで責めてやろうと、彼女を呼んでいるようだ。

 たまに「まあまあ」と、誰かがなだめる声もはいるが、それくらいで男の怒りが収まるわけもなく、暴言を吐きながらお力を呼ぶ声が、いつまでも聞こえてくる。

 自分を殿とのさまか、おだいじんさまだとでも思っているのだろうか。

 てて怒鳴り散らしているのを、他人事のように聞き流しながら耳にだけれつつ、二階の座敷へと結城を連れて上がっていく。

「お力。あんた、あの客はどうするんだい?」

 帳場でかねかんじょうをしていた女主人が、顔だけを上げてお力へ尋ねれば、「断ってください」と返事があった。

「今夜も頭痛がするので、お酒の相手はできません。あんな大勢の中に一人でいればお酒の香りに酔ってしまって、お客様の相手よりも、酒を飲むことに夢中になってしまうかもしれませんから、少し休みます。そのあとにどうするかは、わかりません。今はごめんなさいと、先に申し上げておきます」と、女主人が何か言う前に、おびをねた断りを言うと、二階へと逃げ出すように上がり始めたのだ。

 そこで結城が「待て、お力」と止めるので、階段の真ん中に足をかけたまま振り返れば、真剣な顔の彼が「それでいいのか?」と尋ねてくる。

「こんなことをして、客がおこりはしないか? あれほど騒ぎ立てているような男なのだ。このままでは終わるまい。やかましくしているうちは良いが、暴れるようにでもなれば面倒であろう?」

 心配する結城が足を止めたので、女主人が腰を浮かせ、彼のどうこうを見守るのが見える。

「それはそうですが……」と、れのわるい返事をすれば、「主人。すまないが、これで頼む」と、結城がふところに手を入れた。

「少しばかりだが、私からのびと思ってくれ。店の人気者を、横から割り込んで連れてきてしまったようなものだからな。これで酒でも料理でも、他の客達の分も含めて、好きにってやってほしい」

 そう言って女主人におさつたばで渡し、せんきゃくへのれいを再び詫びる。

 けたちがいのこころけをあっさりと置いていく結城に、女主人は口を開けて驚くが、今回ばかりは喜びをあらわにせず、しんみょうに「ちょうだいいたします」と言って、両手で受け取った。

 そして近くにいるおんなに酒と料理を頼むと、結城を二階へとうながし、お力に彼の相手をするように頼んだのだった。

 相も変わらずで礼儀正しい男だが、そんな態度が、今夜のお力にはかいに感じる。

「なんの。おたなものしろうりが、どんなことをしでかしましょうか。たかがいちしょういちほうこうにんが、熟した瓜のように顔を白くするだけですから、けの材料にすらなりませんよ。私のことを怒るのなら、勝手に怒っていろ、でございます」

 いつも以上に強い口調でそう言ったお力は、結城が何か言う前にかいだんしたを覗き込み、「二階へ、お銚子を何本か持ってきておくれ」と、小女に言いつけた。

 そのまま二階へ上がってしまった彼女を追いかけ、結城も座敷へ入ると、彼女はすでにくつろいでいて、いつもよりだらしない。

 彼女が力なく柱に寄りかかっているのを見ながら、自分も座ると、様子をうかがうようにあごを引いた。

 ――今日の彼女は、どこかおかしい。

 つねごろから、女に対してにぶいと言われている結城でも、そう思うほどに、今日のお力は様子がおかしかった。

 どこかゆめごこで、そうかと思えば他人をかたきにするしょうの荒さをしにし、今はこうやっておとしくなっている。

 普段は背を向けたりなどしないのに、今夜の彼女は結城が見えていないのか、窓の外を見たり天井を見上げたりとせわしなく、背中を向けて別のことに気を回しては、再びぼうっと何かを見ているようだった。

 それでも、しばらくすると正気に戻ったのか、あらかじめ敷かれていた座布団の上に座り直し、澄まし顔で姿勢を正す。

 しかし、お銚子のたくが待ちきれないのか、お力は身を揺らしながら、「結城さん」と彼を振り返った。

「今夜は私に、少しだけ面白くないことがありました。いつもと違い、別のことに気が向いておりますので、あなたのあいかたにはなれないと思います。ですから、今日のお力は違うお力だとでも思い、別人だとでも思って相手をしてください。貴方と一緒に、お酒を飲みはしますが、遠慮なく、浴びるほど飲みますから、以前のように『もうやめろ』と言って、止めないでくださいね」

 そう話したところで、襖越しに、「お酒の用意ができました」と声がかかる。

 お力は何も言わずに襖を開けると、小女に礼も言わず、お盆を引ったくるように受け取った。

 小女は驚いた顔をしていたが、彼女もお力の様子がおかしいことに気がついているのだろう。

 小声で「飲み過ぎないようにね」と言い、静かに、騒がしい一階へと戻っていった。

「さあ、来ましたよ。飲みましょうか」

 大きめのお盆には、お銚子が七、八本。

 結城用のお猪口が一つと、お力用の大きな湯呑みが一緒に載っている。

 結城へお猪口を渡し、自分もおおみを手に取ると、「私が酔ったら、かいほうしてください」と言うので、結城はにくをこめて口元で笑った。

「君が酔ったところを、これまで一度も見たことがない。それで気持ちが変わるのならば飲んでもいいが、また頭痛が始まったりはしないのか?」

「ええ、大丈夫ですよ。これが私の薬ですから」

 お銚子を指で持って振りながら、彼女は綺麗に笑った。

 飲み過ぎだと怒ったことはあるが、あの時は彼女の立場ときょうぐうを考えて、最後には口をつぐんでしまったのだ。

 それからも酒は増える一方で、口に出さずとも心配はしていたのだが、今日の彼女は何かがはずれたようによく笑い、よく飲むのだ。

「何がそんなにげきりんれた。それほどまで、君を怒らせるようなことでもあったのか? 僕にも店の者にも、口に出して言えないようなことなのか?」

 いつも以上に気を遣ってか、結城はお力に優しく接する。

 同等のように扱ってくれる数少ない人ではあるのだが、今夜はお力のことを、先輩か上司か、あるいはそれ以上に大切に思ってくれていると、かんちがいしそうなくらいだ。

 どうしても理由が知りたいと、何度も何度も気を遣いながら話しかけては、鋭く問いかけてくるので、お力は「ご心配なさらずに」と、あっさり答えるだけだ。

「貴方には聞いていただきたいのでございます。いえ、貴方だからこそ、聞いていただきたいのかもしれません。今夜は酔うとしんこくしておりますから、今さら驚いてはいけませんよ。何をさとっても、何を感じても、酔いに任せたことだと目をつぶっていてくださいね」

 美しく、ゆがみすら感じさせない笑顔を作り、彼女は綺麗に笑う。

 そうして何も言えなくなった結城を置き去りに、お盆をひざもとまで引き寄せると、お銚子の中身を一気に空けた。

 そうしてなみなみと注いだ酒を、息もつかせぬ勢いであおり、二杯、三杯と湯呑みを空にしていく。

 誰かに操られているかのように、いっしんらんに何度も飲み干すと、そこでようやく息が出来たのだった。

 それでもまだ、中身の残るお銚子を持ち上げる。

 そして、結城へ向けてあでやかに微笑み、湯呑みを酒で満たすと、綺麗に笑った。

「――さあ、今夜は飲み明かしましょうか」



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