第六章

第四十話


『七月の十六日は、必ず待っております。忘れずに、必ず来てください』

 ……あれは、いつのことだったか。

 町が、閻魔詣での準備で賑わい始めた頃だっただろうか。

 いつものように店に来て、自分と一緒に二階でくつろぐだけの男にねんして、そんな約束させたのは――。

 肩を叩かれて名前を呼ばれ、こんな私に何の用だと振り返れば、自分で言ったことも何もかもを忘れて、今まで思い出すこともしなかったゆうともすけに、に出会ったのだ。

「あれ?」と驚いた表情のお力が、感情をおもてに出したことで幼く見えるのが、いつもと違って新鮮だった。

 澄まし顔では似合わないあわかたをするのも、「面白くて可愛いなあ」と結城は思ったが、同時にしく思い、クッと微笑みを崩して笑い出したのだ。

 そのまま、カラカラと声を出して結城が笑うので、自分の態度を恥ずかしく思ったお力は、「考え事をしながら歩いていたので、突然現れた貴方に驚いてしまい、思わず慌ててしまいました」と、いつもの澄まし顔に戻ってした。

「よく、今夜は来てくださいましたね。嬉しいですよ」と、微笑んで言葉を続けるが、口元は軽くっている。

 お力が約束を忘れていたことを、結城は気にしなかったものの、「あれほど強く約束をわしたのに、店で待っていてくれないのは、ではないか?」と、一人で外に居たことを責めてきた。

「せっかく時間を見つけて会いにきたというのに、こんなところで遊んでいるとは思わなかったよ。僕の他に、気になる誰かを探しにでも来たのか?」

 意地悪く尋ねる結城に、お力は、「どんなことでも、好きに言われるといい。貴方への言い訳は、店に戻ってからにでもさせていただきます」と言って、彼の手を取った。

 結城の手を引き、何も話さないまま歩き出したお力だが、「手を引かれるのは嫌だな。うまにでも見つかれば、うるさく言われてしまう」と結城に言われ、周りへと視線を向ける。

 あちらもこちらも祭り気分で浮かれていて、男も女も、老いも若きも、子供も大人もみんな、目の前のことにしか興味を持っていないのだろう。

 誰も自分達など見ておらず、二人が誰なのかも知らないように見えた。

 だが、これだけ人がいれば、男女の仲をはやてようとするやからがどこかにひそんでいるだろう。

 言葉だけで済めばいいが、下手に絡まれれば、二人とも無事では済まないはずだ。

 普段のお力ならば、「そうですね」と言って手を離しそうなものだが、今夜の彼女は離さなかった。

 それどころか、さらに強く握りしめ、みちびくように手を引いて、人のすきを歩いていく。

 結城にしてみれば、お力がやかされないようにとのはいりょからだったが、「今日の彼女には通じなかったようだ」と黙った。

 いつもなら、「失礼をいたしました。女に手を引かれて、らかわれる貴方を見るのは面白そうですが、それはまた、今度にいたしましょう」とでも言って、愛想笑いで返して来そうなのだが、今夜の彼女はどこかおかしい。

 笑って誤魔化すこともなく、真面目な顔で、「どうとでも勝手に言わせておきましょう」と言い、普段より暗い表情で振り返ると、「こちらはこちら。誰にも関係のない、私のことですから」と、綺麗に笑ったのだ。

 その笑顔を見てしまったら、「そうか」としか答えられない。

 そうなると、結城は何も言えず、お力の歩みに合わせて人のあいだを分けていくしかなかった。

 大勢の人が笑い、楽しむ、その隙間をすり抜けながら、二人は静かに『菊の井』へと戻っていく。

 だんだんと人の声が遠くなり、しゃせんの音や男達の歌声が重なる通りへと出れば、店はもう目の前だった。 

「……さて、店の中はどうなっていることやら」

 お力の言葉を耳に二人は、けんそうから喧騒へと移っていく。



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