第三十九話


 顔を上げれば星空。

 横を向けば、薄くすいめんが輝く川がある。

 そして足元を見れば、汚れた自分の足と地面があるだけだ。

 寄りかかっていた木にまげを押し付け、目を閉じると、少しも動かなかった口元だけが笑い始めた。

「……『情けない』と口に出しても、哀れだと思ってくれる人はいないだろう。『みじめだ』となげいたところで、同情してもらえるはずもない。『悲しい』と言ってしまえば、『しゃくぜいが客の相手を嫌がるのか』と、ひとくちに言われて終わりだ。男なんかは『お前ほどの女がいい気なものだ』と、伸びた鼻の下で馬鹿にし、女ならば『そんな仕事以外に何ができる』と、高くなった鼻で笑いそうだ」

 想像したら、本当に笑えてくるものだ。

 込み上げてくるしさに、ふふッと小さく笑うと、何もかもがどうでもよくなってきた。

「ええい、どのようにでも勝手になれ、勝手になれ。どうしたって私には、選ぶことなどできないのだから。今さらどうこうといたところで、これ以上落ちることはないだろうし、浮かぶことだってないだろう。もう勝手に、どうとでもなればいいさ……」

 喉の奥でるように笑いながら空を見上げれば、星が綺麗に輝いている。

 今夜は月が出てこないのか、いっそう鮮やかだ。

「私は、がくもないし知識もない。そこいらのじょがくせいのように、流行りのものでいっいちゆうした経験だってない。それでも必死になって、どうにかしようと考えてきたけれど、自分がやれること以上に考えたからといって、自分の将来は想像すらつかなかった。だから、すえがわからないのならばわからないなりに、私は『菊の井のお力』をとおしてゆこう。どうせ今だって、みちなかばで迷っているようなものなんだ。今さら遠回りになろうと、これが最後の選択になろうと、焦ることも、嘆くこともないだろう。人のさいなんて、みんな決まっているのだから……」

 乾いた笑いをしながら斜め横を向く。

 しの地面を照らす星明かりがはかなくて、けれど、とても綺麗に見える。

 ほとんど見えない光でも、集まればあんなに綺麗なのに、どうして私達みたいな存在は、こんな場所で息をひそめなければならないのだろうか。

「……にんじょうらず、らず、か」

 思い返せば、私をめる男はいても、私が優しい、安心するなどと言ってくれた男は、一人もいなかった。

 キツイ態度を取り続けてはいたけれど、それだけ私を、人の心を知らない鬼だと思うのは、いったいどういうことなのだろうか。

 チヤホヤされるだけの人生だったのであれば、心無い言葉に傷ついて落ち込んでいたかもしれないが、今の私には、味方のいない今の方が、いっそすがすがしいと思える。

「人の心を知らない、他人への思いやりもない、人に対する常識だってない新開に住む鬼。そう言われて傷つくことは、これからもないだろう。そんなことをいちいち気にして悩んでも、これから先、どうなるものでもない。こんな立場で、こんな仕事をしていて、こんな深いいんねんぜんから持って生まれたような自分が、いてもがいて努力したからといって、普通の人のようにはなれないのだから……。普通の人のような考えで生きていこうとしたって、苦しい思いをするのは目に見えているし、そんな苦労をするだけ無駄であろう。ああ、いんくさい、いんらしい。もやもやする」

 これまでは、少しでも自分らしくいようとってはきたけれど、男達が求めるのは、「わがままで気分屋で男になく、そのくせ、誰よりも男が好きな、自分にとって都合のいい『菊の井のお力』」なのだ。

 今さらどうにかしようとしたところで、広まった噂も人の目も変わらないだろうし、源七に期待を向けるほどの熱が残っているわけでもない。

 忘れられないのは確かだが、あの頃のように胸をがす情熱も、「この人ならばきっと」という信頼も、何もかもが全て遠い場所へと行ってしまったのだ。

 自分も源七も、若いとは言えない年齢になっている。

 十代のような勢いも、二十代前半のような熱量も、互いに残らないほどにひどい別れ方をしたのだから、それも仕方のないことだろう。

 あの人はあの人なりに家族を大切にしているだろうし、私は私で仕事がある身。

 金で繋がったえんは金で切れるものだと、私はすでに学んでいたではないか。

 男に期待して馬鹿を見たのだから、今度はもう間違えないように気をつけようと、前の店を出る時に誓ったというのに、忘れっぽくなった自分が情けない。

 自分が駆けてきた暗闇に目をらすが、みせさきの明かりすらも見えないほど、遠くへ来てしまったのだろう。

 どこまで逃げてきたのかと周囲を見回せば、新開のはし、長屋にほどちかい場所まで逃げてきたようだった。

「そういえばここは、あの人の長屋のすぐそばだ。……そうだ、この川をまっすぐ行くと、いっけん沿いに出るから、そこからすぐ近くのうらに入れば、あの人が暮らすしゃくけんの家がある」

 何度か散歩で通った道は覚えているから、頭の中でスラスラと出てくる道順に、夢中になって家までの道のりを考えていた。

 けれど、だからといって行くつもりなどなく、全て口に出してから冷静になった。

 ――なんておろかで、あさましく、悲しいのだろう。

 未練などなくとも、昔の男は忘れられないとでも言うのだろうか。

 口元を手のひらで押さえようとして、やめた。

「……何がどうしたといって、こんなところに立っているのか。何のために店を飛び出して、こんなところまで出て来てしまったのか。いいや、気がつけば……こんなところまで来てしまっていたのか……」

 遠くからかすかに聞こえるけんそうを耳に、星空を見上げて乾いた笑みを浮かべる。

「……ああ、馬鹿らしい。ちがいじみた、とてもしょうだとは言えない私ではあるが、何をしたいのか、自分でもわからない……。もう……もう、帰りましょう……」

 小さくなっていく声で、しぼすようにそう言うと、お力は静かにその場から動き出していく。

 遠くなっていく川を背に、よこちょうの闇を出て遠ざかれば、えんもうでにあやかったみせが並んでいるからか、いつもは静かな狭い小道がひどく賑やかだ。

 大人も子供も嬉しそうに笑い、恋人同士がひとときおうを楽しみ、老いた人達も散歩をねておしゃべりをしている。

 賑やかで騒がしいこうを、気でもまぎらわせようとなんなしに、さきも決めずに歩いていると、道をする人の顔が、小さく、遠くなっていく気がし始めた。

 すれ違う人の顔さえも、遥か遠くに見えるように思われて、自分が踏んでいる地面だけが、三十センチか四十センチほど高く上がっているように思われる。

 ガヤガヤという騒がしい声が聞こえてくるけれど、井戸の底に物を落とした時のように、深く遠い音に聞こえてしまい、自分がここにいる気さえしなくなっていく。

「……いいや、人の声は人の声。私の考えは、私の考えさ」

 口に出してそう言うと、それまでの自分とにんごとの自分を切り離し、遠ざかっていく音を耳に、あゆみを進めていく。

 何もかもを他人事として考える自分になってからは、どのようなものにもまったく興味がなくなってしまい、夜店に集まる人だかりでさえも、顔のない何かに見えるようにまでなっている。

 夫婦喧嘩をしているのきさきなんかを通り過ぎたとしても、「この中で一人、私だけは、こうだいな野原の枯れ果てた大地を一人で行くように、心に残るものもなく、いつもなら気になって仕方がない夫婦喧嘩や、懐かしく思われる光景を目にしても、何も感じられないのだろうね……。ただ、私だけが……」と、ひとごとを言い出す始末。

「……自分のことながら、何ともけなことだ。いろこいにひどく夢中になり、ずいぶんと思い上がってしまったから、こうなったのであろう。普通の女と同じだと、勘違いをしてしまったから……」

 うつむく顔を上げるりょくもなく、ふらふらしながら進んでいくほどに、もう自分が何なのか、わからなくなってきた。

「人間が持つ心など、とっくの昔に無くしたというのにね……」と、にくげに口元をゆがませれば、すれ違った男がおびえた目を向けてきた。

 ――どうして、自分を、人間だなどと思っていたのだろう。

 こんなになるまで気づかずに、いつまでもあの人を忘れられず、何も感じなくなるほどに、心が痛んでいたとでもいうのだろうか。

 わからない――。

 もう、何もわからない。

 何もかもが遠いものとなってしまって、頭の中がかすみがかったかのように、はっきりとしなくなっていく。

 おぼつかないあしりで歩きつつ、「自分というものが、わからない。私は人なのか、鬼なのか……」と呟く。

 自分では人間だと思って生きてきたけれど、あの人の子供は私を「鬼だ」と言う。

 店の同僚達は、私を「力ちゃん」と呼んでくれるけれど、男達は、私を「『菊の井のお力』」としか呼ばない。

 人であれば良かったのか――いや、私は人間だ。

 つのなどえるはずもなく、きばも出てこない、人間の女だ。

 それなのになぜ、人は私を「鬼」だと、「悪魔」だと、「『菊の井のお力』」だとしか呼ばない。

 なぜ誰も、私を『私』と認めてくれないのだ。

 何度考えても、理解しようとしても、それだけがわからないのだ。

 ふらつく足で人混みのあいを歩きながら、それでも考えてしまう自分に笑いが込み上げてくる。

「気がくるいはせぬか」と言う、自分への問いかけに立ち止まる瞬間、「お力、どこへ行く」と言って、私の肩を叩く人が現れた。



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