第三十九話
顔を上げれば星空。
横を向けば、薄く
そして足元を見れば、汚れた自分の足と地面があるだけだ。
寄りかかっていた木に
「……『情けない』と口に出しても、哀れだと思ってくれる人はいないだろう。『
想像したら、本当に笑えてくるものだ。
込み上げてくる
「ええい、どのようにでも勝手になれ、勝手になれ。どうしたって私には、選ぶことなどできないのだから。今さらどうこうと
喉の奥で
今夜は月が出てこないのか、いっそう鮮やかだ。
「私は、
乾いた笑いをしながら斜め横を向く。
ほとんど見えない光でも、集まればあんなに綺麗なのに、どうして私達みたいな存在は、こんな場所で息を
「……
思い返せば、私を
キツイ態度を取り続けてはいたけれど、それだけ私を、人の心を知らない鬼だと思うのは、いったいどういうことなのだろうか。
チヤホヤされるだけの人生だったのであれば、心無い言葉に傷ついて落ち込んでいたかもしれないが、今の私には、味方のいない今の方が、いっそ
「人の心を知らない、他人への思いやりもない、人に対する常識だってない新開に住む鬼。そう言われて傷つくことは、これからもないだろう。そんなことをいちいち気にして悩んでも、これから先、どうなるものでもない。こんな立場で、こんな仕事をしていて、こんな深い
これまでは、少しでも自分らしくいようと
今さらどうにかしようとしたところで、広まった噂も人の目も変わらないだろうし、源七に期待を向けるほどの熱が残っているわけでもない。
忘れられないのは確かだが、あの頃のように胸を
自分も源七も、若いとは言えない年齢になっている。
十代のような勢いも、二十代前半のような熱量も、互いに残らないほどにひどい別れ方をしたのだから、それも仕方のないことだろう。
あの人はあの人なりに家族を大切にしているだろうし、私は私で仕事がある身。
金で繋がった
男に期待して馬鹿を見たのだから、今度はもう間違えないように気をつけようと、前の店を出る時に誓ったというのに、忘れっぽくなった自分が情けない。
自分が駆けてきた暗闇に目を
どこまで逃げてきたのかと周囲を見回せば、新開の
「そういえばここは、あの人の長屋のすぐそばだ。……そうだ、この川をまっすぐ行くと、
何度か散歩で通った道は覚えているから、頭の中でスラスラと出てくる道順に、夢中になって家までの道のりを考えていた。
けれど、だからといって行くつもりなどなく、全て口に出してから冷静になった。
――なんて
未練などなくとも、昔の男は忘れられないとでも言うのだろうか。
口元を手のひらで押さえようとして、やめた。
「……何がどうしたといって、こんなところに立っているのか。何のために店を飛び出して、こんなところまで出て来てしまったのか。いいや、気がつけば……こんなところまで来てしまっていたのか……」
遠くから
「……ああ、馬鹿らしい。
小さくなっていく声で、
遠くなっていく川を背に、
大人も子供も嬉しそうに笑い、恋人同士がひと
賑やかで騒がしい
すれ違う人の顔さえも、遥か遠くに見えるように思われて、自分が踏んでいる地面だけが、三十センチか四十センチほど高く上がっているように思われる。
ガヤガヤという騒がしい声が聞こえてくるけれど、井戸の底に物を落とした時のように、深く遠い音に聞こえてしまい、自分がここにいる気さえしなくなっていく。
「……いいや、人の声は人の声。私の考えは、私の考えさ」
口に出してそう言うと、それまでの自分と
何もかもを他人事として考える自分になってからは、どのようなものにもまったく興味がなくなってしまい、夜店に集まる人だかりでさえも、顔のない何かに見えるようにまでなっている。
夫婦喧嘩をしている
「……自分のことながら、何とも
うつむく顔を上げる
「人間が持つ心など、とっくの昔に無くしたというのにね……」と、
――どうして、自分を、人間だなどと思っていたのだろう。
こんなになるまで気づかずに、いつまでもあの人を忘れられず、何も感じなくなるほどに、心が痛んでいたとでもいうのだろうか。
わからない――。
もう、何もわからない。
何もかもが遠いものとなってしまって、頭の中が
自分では人間だと思って生きてきたけれど、あの人の子供は私を「鬼だ」と言う。
店の同僚達は、私を「力ちゃん」と呼んでくれるけれど、男達は、私を「『菊の井のお力』」としか呼ばない。
人であれば良かったのか――いや、私は人間だ。
それなのになぜ、人は私を「鬼」だと、「悪魔」だと、「『菊の井のお力』」だとしか呼ばない。
なぜ誰も、私を『私』と認めてくれないのだ。
何度考えても、理解しようとしても、それだけがわからないのだ。
ふらつく足で人混みの
「気が
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます