第三十八話


 どうにも出来ず、どこにも行けない私など、もう放っておいてほしい。

 今さら手紙を送り合ったところで、前のような関係になど戻れはしないというのに。

 今の店にまで会いに来て私を呼びつけるくせに、会えないとわかればさっさと帰ってしまうのならば、本当にもう、放っておいてほしい。

 会ったところでもう、昔のようになど、なれはしないのだから――。

「……本当に、どうしようもない人」

 ポツリと言葉が出れば、途端に体の力が抜けた。

 川の方へ顔を向けると、いだかわが微かな星明かりに照らされて、空を映す鏡のようになっている。

 この川は流れこそ穏やかだが、深さはそれなりにある。

 海まで一直線に続いている川の一つであり、たまに小舟で遊ぶ男女を見かけることがあった。

 別の店の女が数人、溺れたことがあると、日雇いの男達が話していたのを聞いた事がある。

 客とのふなあそびに夢中になりすぎたらしく、せんどうも事故に巻き込まれたそうだ。

 そんなところに一人でいる自分は、本当に何なのだろうか。

 ここから飛び降りたとしても、この川を渡り切ったとしても、私に行ける場所などないというのに。

 ぼうっとしたまま川面を見つめていると、先ほど自分が歌いかけた歌を思い出す。

「渡るにゃこわし、渡らねば……」

 呟くように歌った自分の声がそっくりそのまま、どこからともなく反響してくるのが聞こえ、お力はフッと笑った。

「——どうせ、行き着く先は『にごりえ』だ」

 口に出して、再び木に背中を預けて上を見れば、星明かりがいっそう鮮やかに空を飾っている。

「こればかりは仕方がない。やっぱり私も、まるばしを渡らないわけにはいかないのだろう。美女とうたわれたざいしょうを妻に迎え、いくさと知りながらも最後まで戦い抜いた、たいらのみちもりなんてたいそうな男はいないが、私だって、一人の男を愛した女だ。小宰相ほどの覚悟はなくとも、恋に愛にと溺れるくらいならば、いっそ丸木橋から落ちてやろう。橋の手前であしんだままでは、落ちるとわかっていても進めやしない。どうせなら、この町で見事、にごりえに溺れてみせようじゃないか」

 うたでは、逢えない人に会うために、丸木橋を渡るか渡るまいかと悩む唄になっている。

 不安定な丸木橋を渡るのは怖いが、渡らなければ逢えないからと、渡るか渡らないかの答えが出ないままで終わる唄だ。

 けれど和歌としては、『へいものがたり』で、平通盛という平家の武将が、小宰相という女性に一目惚れをし、返事のない手紙に添えたものとして有名言葉でもある。

 平通盛がつれない小宰相へ、「私の恋は、狭いたにがわにかかる丸木橋のように揺れています。それなのにあなたは、返事もないまま私の手紙を返し、私の袖を涙で濡らさせるのですね(こんなにもあなたを思って揺れる恋心なのに、かんじんのあなたには受け入れてはもらえず、丸木橋を何度も踏んでは戻らざるを得ません。そんな私は、いつまで経っても逢えないあなたを想い、泣いて袖を濡らすことしか出来ませんよ)」という、悲しみを込めた恋の歌だ。

 これを見つけた小宰相の上司・じょう西さいもんいんとうないしんのう)は、「いちに思い続けていてください。細い谷川の丸木橋を踏み返し続ければ、落ちない人はおりませんから(何度手紙を返されようと、丸木橋を何度も踏み続けるように諦めなければ、あなたの熱意に落ちない人はおりませんよ)」と、小宰相に黙ってみちもりへと返事を送ったのだ。

 このことがきっかけで二人は結ばれるが、げんぺいがっせんへと時代は進み、平氏側として参戦した通盛は敗北をさとって自害しようとするものの、源氏側の兵士に取り囲まれて討たれてしまう。

 その知らせを聞いた小宰相は、通盛との子供をもってはいたものの、乳母うばの説得もむなしく、海へと身を投げ、お腹の子と共に夫の後を追ったのだった。

 悲恋として語り継がれる話ではあるが、私には平通盛のように、私のことを大切に思ってくれる男などはいなかった。

「この人だ」とまで思った男は妻子を選び、私は今こんなところで、一人、空を見上げることしかできない。

「ああ、これが私のごうだとでもいうのか。私のととさんも女で道を踏み外し、底へと落ちてしまわれたというし、私のおさんも、同じことで落ちてしまったのだという。こんな商売をしている私が、普通の女のように恋をしたことが罪だとでもいうのか。それとも、あの人を好きになってしまったことが罪だったのだろうか……」

 考えても、考えても、答えは出てこない。

 独り身の男を好きになったとしても、この仕事から抜け出して普通の女になれたとしても、それが本当に正しいことだと言えるのだろうか。

 妻子ある男を好きになって、身分の高い男を好きになって、めかけになるか愛人になるか、そんな選択しかできなかったとしても、それが本当に、自分の「幸せなのだ」と言い切れるのだろうか。

 何年経っても、何万回考えてみても、自分自身への答えを出せないまま、時間だけが過ぎていく。

「……どうせ、なんだいもの悲しみや、れんを背負って生まれ出た私なのだから、いたところで、この人生は変えられやしないのだろう。ちちが、が、そうが、しんるいえんじゃ達が重ねてきた恋の呪いを、いっしんに受けた私なのだろうから――」

 軽く息を吐く。

「……人というものは、誰かが何かに与えられた役割を、それぞれのこんじょうこなさなければならないはずだ。そうやって私は、与えられた人生の果てで酌婦をしながら、成すべきことをしなければ、死んでも死なれないのであろう。ああ、なんて嫌な役を与えられた人生なのだろう。これも……罰というものなのだろうか――」

 だんだんと下がっていく視線の先で、土にまみれた自分の足が見えてくる。

 誰のかもわからない下駄を指先に引っ掛けただけの状態で、どこをどう走ってきたのかも覚えていない。

 暗がりでもわかるくらいに汚れた足がみすぼらしく見え、のどおくから笑いがこみ上げてきた。

「……これが、『菊の井のお力』か。男を手玉に取ってもてあそび、次から次へと女の涙を生んでは澄まし顔で金をむしり取る、新開に住みつくおしろいがおしろおに。綺麗な着物を着て、真っ赤なべにで男を誘い、かねかてに生きているという、この世の悪魔か? 三味線を手に男達の機嫌をとっては、言いたくもないお世辞を言って媚びを売る。一夜の稼ぎのために心無い笑顔を作るような女を、誰が白鬼と呼ぶのかっ。……私は、鬼じゃない。悪魔でもない。私は、私はっ……ただの『お力』なのに……!」

 しぼすように言い切った自分の名に、こらえきれない胸の内が溢れ出してくる。

 源七の顔も、声も、何もかもを覚えていながら、自分は他の男の腕に抱かれ、数え切れない夜を過ごしてきた。

 あの人に会うためにべにを濃くし、なりふり構わず男達を誘い、知らない香りに包まれながら天井を見上げたことだって数えきれない。

 あの人が好きだと言ってくれたお力は、『お力』ではない。

 私はもう、『菊の井のお力』になってしまっていたのだと、たった今、自覚したのだ。

 源七がいない夜も、客がいない夜も、決まって私は夢にうなされる。

 またあの頃を繰り返すのではないのかと、不安で不安でたまらなくなるのだ。

 前の店にいた私には、怖いものなど何一つなかった。

 誰よりも美しく、誰よりも稼いでは、他の女達よりもずっと先を歩いていられたからだろう。

 しかし、今は違う。

 川にも戻れず、海にも出られず、濁った水の中で沈みゆく体を浮かび上がらせようと、必死に手足をばたつかせてもがきながら、暗く冷たい水の底へと、静かに落ちていくことしかできないのだ。

 私だけではない。

 皆だって同じだ。

 どんな過去があろうと、真っ当な仕事に就くことができないため、新開でぜにを稼ぎ、どうにか暮らしているような者達ばかりなのだから。

 いつの間にか出来上がった、『にごりえ』という名の新開。

 それは海の底よりも深く、流れの止まったよりも濁った者達が、居場所を探してとどまる場所になっていった。

 そうやって人が集まり、今では冷たい視線を浴びせられる者達しかいないため、誰も彼もが、どこにも行けなくなってしまったのだ。

 それでも生きて、生きて、生きようといている。

 こんな暗いだけの冷たい世界でも、人は生きようと、もがいているのだ。



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