第三十八話
どうにも出来ず、どこにも行けない私など、もう放っておいてほしい。
今さら手紙を送り合ったところで、前のような関係になど戻れはしないというのに。
今の店にまで会いに来て私を呼びつけるくせに、会えないとわかればさっさと帰ってしまうのならば、本当にもう、放っておいてほしい。
会ったところでもう、昔のようになど、なれはしないのだから――。
「……本当に、どうしようもない人」
ポツリと言葉が出れば、途端に体の力が抜けた。
川の方へ顔を向けると、
この川は流れこそ穏やかだが、深さはそれなりにある。
海まで一直線に続いている川の一つであり、たまに小舟で遊ぶ男女を見かけることがあった。
別の店の女が数人、溺れたことがあると、日雇いの男達が話していたのを聞いた事がある。
客との
そんなところに一人でいる自分は、本当に何なのだろうか。
ここから飛び降りたとしても、この川を渡り切ったとしても、私に行ける場所などないというのに。
ぼうっとしたまま川面を見つめていると、先ほど自分が歌いかけた歌を思い出す。
「渡るにゃ
呟くように歌った自分の声がそっくりそのまま、どこからともなく反響してくるのが聞こえ、お力はフッと笑った。
「——どうせ、行き着く先は『にごりえ』だ」
口に出して、再び木に背中を預けて上を見れば、星明かりがいっそう鮮やかに空を飾っている。
「こればかりは仕方がない。やっぱり私も、
不安定な丸木橋を渡るのは怖いが、渡らなければ逢えないからと、渡るか渡らないかの答えが出ないままで終わる唄だ。
けれど和歌としては、『
平通盛がつれない小宰相へ、「私の恋は、狭い
これを見つけた小宰相の上司・
このことがきっかけで二人は結ばれるが、
その知らせを聞いた小宰相は、通盛との子供を
悲恋として語り継がれる話ではあるが、私には平通盛のように、私のことを大切に思ってくれる男などはいなかった。
「この人だ」とまで思った男は妻子を選び、私は今こんなところで、一人、空を見上げることしかできない。
「ああ、これが私の
考えても、考えても、答えは出てこない。
独り身の男を好きになったとしても、この仕事から抜け出して普通の女になれたとしても、それが本当に正しいことだと言えるのだろうか。
妻子ある男を好きになって、身分の高い男を好きになって、
何年経っても、何万回考えてみても、自分自身への答えを出せないまま、時間だけが過ぎていく。
「……どうせ、
軽く息を吐く。
「……人というものは、誰かが何かに与えられた役割を、それぞれの
だんだんと下がっていく視線の先で、土にまみれた自分の足が見えてくる。
誰のかもわからない下駄を指先に引っ掛けただけの状態で、どこをどう走ってきたのかも覚えていない。
暗がりでもわかるくらいに汚れた足がみすぼらしく見え、
「……これが、『菊の井のお力』か。男を手玉に取って
源七の顔も、声も、何もかもを覚えていながら、自分は他の男の腕に抱かれ、数え切れない夜を過ごしてきた。
あの人に会うために
あの人が好きだと言ってくれたお力は、『お力』ではない。
私はもう、『菊の井のお力』になってしまっていたのだと、たった今、自覚したのだ。
源七がいない夜も、客がいない夜も、決まって私は夢にうなされる。
またあの頃を繰り返すのではないのかと、不安で不安でたまらなくなるのだ。
前の店にいた私には、怖いものなど何一つなかった。
誰よりも美しく、誰よりも稼いでは、他の女達よりもずっと先を歩いていられたからだろう。
しかし、今は違う。
川にも戻れず、海にも出られず、濁った水の中で沈みゆく体を浮かび上がらせようと、必死に手足をばたつかせてもがきながら、暗く冷たい水の底へと、静かに落ちていくことしかできないのだ。
私だけではない。
皆だって同じだ。
どんな過去があろうと、真っ当な仕事に就くことができないため、新開で
いつの間にか出来上がった、『にごりえ』という名の新開。
それは海の底よりも深く、流れの止まった
そうやって人が集まり、今では冷たい視線を浴びせられる者達しかいないため、誰も彼もが、どこにも行けなくなってしまったのだ。
それでも生きて、生きて、生きようと
こんな暗いだけの冷たい世界でも、人は生きようと、もがいているのだ。
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