第三十七話
「おい、どうした?」
途中で歌うのをやめたお力に、隣の男が問いかける。
「いいえ、なんでも」
――ありません。
その言葉が出てこない。
それまで感じていたいつも通りの自分が、突然、
笑顔すら作ることが出来ずに、お力は
一体どうしたのだと、同じ席の男達が心配そうに声をかけてくるが、彼女の耳には入ってこない。
そうして少しの時間が経った後、お力はふと顔を上げる。
男達が
彼女は「すみません」と、呟くように男達に言った。
「……ああ、私はちょっと、失礼をします。ごめんなさいよ」
お力にしてはやや乱暴に、着物の袖を掴む隣の男の手を振り払うようにして、サッと反対の方へ振り向き、さっさと席を離れていく。
上げた顔を見ていなかった男達にはわからなかったが、彼女は何かを思い出したような顔をしていた。
何を思い出したのか、あるいは何か気づいたことでもあるのか、彼女は男達が止める声も聞かず、自然と早足になっていく。
あっという間に座敷の
心をどこかに置いて来たかのような
ただひたすらに、遠くを見る瞳だけが
背中越しに座敷の席が騒いでいくのを聞きながら、「ああ、うるさい」と、口から出たのかどうかすらも、もうわからなかった。
いつの間にか大きくなったざわめきの中で、廊下側で客の相手をしていたお
二人は揃って驚いた顔をしながらお力を見ていて、その口が「どうしたの?」と動く前に、お力は「
「
お高の声を背に、ずいと廊下へ急ぎ足に出ていくが、何もかもを振り返って気にかけることもなく、彼女は風のように行ってしまった。
残された客達も同僚達も、呆然とした様子で彼女を見送るだけで、誰一人動くことはできなかった。
そうして、誰のかわからない下駄を
外を歩く男達は、『菊の井』から飛び出してきた女が、お力だと気づく
道にはかろうじて家の
何だ何だと、
「なんでえ。また逃げたのか?」
「さあな。せっかくの
覗いていた男達が口々にそう言えば、聞いていた通りすがりも一緒になってうなずく。
「最近は客の
「へっ。今日みたいに忙しいんなら、いつ会いに行ったって会えねえさ。どうせまた、『どこの誰だか忘れてしまいましたよ』とでも、すっとぼけられて、冷たくあしらわれるのがオチってもんさ。お高くとまってんだよ、あのお嬢様は」
そう言って笑う男に、隣を歩く男は「ちげえねえ」と声を出して笑う。
釣られて数人が笑い出すが、時間も時間なため、人通りは少ない。
すぐに「帰るか」と誰かが言うと、他の男達もその場を去っていく。
一人二人と人が減り、女が闇に消えても誰も心配すらしない。
それどころか店の女に
そんな様子を見る女が一人、
「……これが現状か」
小さな口から漏れるのは、失望とも取れる言葉だった。
肩掛けを強く掴みながら、目の前を通り過ぎていく男達を冷めた目で見ている。
しかし、横町の闇へと向けた瞳には、わずかに温かみがあり、その目は誰かを見ているようだった。
しばらく立ち止まっていた女が動くと、周囲も流れるように動き出す。
そうして女もまた、道の先にある暗闇の中へと溶け込んでいった。
自分が去った後で、そんなことがあったとは知らないお力は、なおも走り続けている。
駆け足で闇を抜け、流れるように人が動く中、それぞれの家からは、女達の乾いた笑い声が聞こえてくる。
息を切らして走るお力に気づく者は誰もおらず、障子に映る人の影と、自分の影を映す建物の壁が、視界の端を通り過ぎて行くだけだった。
「……行かれるものなら、このまま、
泣くように漏れるのは、彼女が胸に秘めてきた心の声だ。
「ああ、嫌だ嫌だ嫌だ。どうしたなら、人の声も聞こえない、物の音もしない、静かな静かな……自分の心も、何もかもがぼうっとしていて、物思いのないところへ行かれるのだろう。ああ、嫌だ」
息を切らしながら、叫ぶように口にする言葉達は、だんだんと渇いた涙で濡れていく。
「……つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情けない、悲しい、心細いこんな状況で、こんな、寂しくてたまらない状態で、いつまで私はここに居られるのだろうか。同じ
もつれる足に引っ張られてか、唇までが動かなくなってきた。
次第に動かなくなる足をなんとか動かし、川沿いに出れば、そこはもう、誰もいない暗闇の中だった。
ふらふらと川近くまで歩いていくと、
そこに寄りかかって上を見れば、かすかに星が輝いていた。
「……星だって、いつかは消える。精一杯輝いて、輝いて、輝き尽くして、それから消えるというのに、私は何なのだろう。これが一生か。一生がこれか? ああ、嫌だ嫌だ」
泣きそうな顔で空を見上げながら言葉にするが、もうどうしたって、涙は出なかった。
全てが変わったあの日、あの人のためにと、泣いて泣いて悲しんだというのに、あの人は私ではなく、
子供がいるのは知っていたし、可愛がっていたことも、大事にしていたことも知っている。
けれど、あの人は、私を大事にはしてくれなかった。
今ならわかる。
子供のため、家のためにと私を捨て、結局は妻を選んだのだ。
あの人のために前の仕事場を追われ、信用も信頼も失い、お金すら
体一つで新開まで流れてきて、『菊の井』に拾われ、友人や仲間ができた。
客だって気を使わなくて済む相手が多いし、面倒な客を断ったって文句を言われない。
けれど、あの人だけは変わらない。
いや、変わり果ててしまったとでもいうのだろうか。
私を捨てて家族を選び、全ての責任を私になすりつけたというのに、それでもまだ足りないのだろう。
今になって、子供を連れて来てまで会いに来るなど、想像もしていなかった。
あんな小さな子を一人で外に置いて、私に会おうとしてくるような、そんな非情なことをする人ではなかったのに。
あの人は、私をどうしたいのだろう。
考えても考えても、わからない。
わかりたくもない。
悩めば悩むだけ、昔を忘れられなくて、つらいというのに。
あの人はいったい、何がしたいのだろう――。
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