第三十六話
七月十六日の夜になった。
いつもの数倍は人の出入りがある新開は、どこか浮かれたように華やいでいて、昼間の涙も弱気も嘘のように、いつも通りのお玉達が客の相手をしていた。
今日は、年に二度ある
祭りを目当てに来た観光客を引っ張り込める大きな機会ではあるのだが、冷やかしに来る人達も多いため、どの店も客引きに必死だ。
そのおかげか、新開にある店には人が
そうなれば、聞こえてくるのは定番の
景気良く鳴らされる
都々逸の
それに気を良くした店主が、おまけの
普段より賑やかな『菊の井』でも、奥座敷を
それぞれの机で楽しめるように、隣の席の邪魔をしないようにと、女店主が考えた方法だった。
女を呼ぶ人がいれば、男だけで酒を飲み、最近の景気について文句を言う席もある。
その中でも一番元気なのは、どこかの商店の
あの有名な遊郭に、一度でも足を踏み入れたことがある者ならば、その歌詞にうっとりとすることだろう。
店中に響き渡るほどの声は
音程は外れているし、気を
それにも気づかず、苦笑いを浮かべながら通り過ぎる
歌の途中で「
「あんな
その言葉に笑うのは、共にいる女だけだった。
どちらも、遊郭の周辺を思い起こさせる言葉だ。
実在の店や場所を表す言葉であり、「紀伊の国」の唄にある描写として有名な言葉だが、どちらも正式な名称ではない。
実際に、衣紋坂と呼ばれる通りに行ってみれば、服のほつれを直してくれるところはあるし、店先に顔を向ければ人と顔を合わさずに行けるので、常連でも
遊郭では客に
他にも粋な名前のつく場所が多くあるため、そういったところも客が楽しめる仕掛けなのかもしれない。
霞の衣、という言葉も、立ち込める霧を服に見立てた言葉であるため、遊郭で遊べない男が、「姿は見えずとも行くだけ行った」という意味を表しているのだろう。
どちらも、知る人ぞ知る、男の
大嘘だと呟いた男は、それを知っているのだろうけれど、彼は決して男達を笑わなかった。
酒を飲んで騒げるだけの金があったとしても、あの遊郭は別格だからだ。
ここで
「ここまで歌ったというのに、『菊の井』自慢の力ちゃんはダンマリか? 俺達に『紀伊の国』を歌わせたんだから、何か色っぽい言葉はないのかよ」
静まり返る座敷の中で、男は酔っ払っているのか赤い顔。
ふらふらになりながらも、衝立の向こうに向かって叫べば、他の机の会話が止まる。
「俺達への思いとやらを聞かせないか。ほら、言った、言った!」
「いいぞー!」
「もっと言ってやれー!」
調子に乗った仲間の男達が
それに釣られて
今日のお力は静かなもので、いつもの明るい笑い声はない。
夕暮れ時に捕まえた男は妻子持ちで、酒を飲み終えるなりさっさと帰ってしまったのだけれど、外はすでに日が暮れているし、人通りの多い中から別の客を捕まえる気にはならなかったため、座敷の
「ちょいと、お兄さん達。少し飲み過ぎだよ」
今日だけ雇われた給仕の女が
何度も何度も、お力を
返事をしないお力に
「遊郭の女みたいに綺麗な着物を着て、
彼が周囲の男達に同意を求めると、「そうだそうだ」と声が上がる。
「新開
「ついでに
下品に笑い出す男達に、女達は笑顔を
それでも、お力は澄まし顔で三味線を弾き続けるが、
「男に媚び売って、せいぜい良い思いしてるくせに、いったい何様なんだよ。ババアになる一歩手前だってことは知ってるんだからな。そんなババアを俺達は買ってやろうって言ってるんだ。何か言えよ、コラ」
沈黙が下りる。
騒いでいた男達も、他の客の相手をしていた女達も、全員が男を見ている。
酒の勢いで言ったようだが、その目はすでに
「さすがに言い過ぎだ」と、同じ机の男達が
「酒の席だってのに酒も飲まず、男がいるってのに話そうともしない。あげく、どこにいるのかさえわからないとは、いったいどういうことだ。さっさと姿を現して、謝れよ」
「おいおい……。さすがにそれは言い過ぎだって」
「俺はお力に会いに来たんだ。それなのにあの女、姿も見せずに三味線の相手ばかりしやがる。あげく、俺の声を無視したんだぞ。金だけ取って、
男は怒りで息が荒くなっていく。
宥める男達に緊張感が生まれ、楽しい酒の席が事件に替わるのかと思われた時、スッと立ち上がる女がいた。
「……誰の相手もせずにいましたが、ずっとこの場におりましたよ。今日の私は、皆さんのお力です。さあ、飲み直しましょうか」
あれほどの暴言をものともせずに、
暴言を吐いた男も、座敷にいる男達も、誰も彼もが彼女の笑みに頬を染め、真っ赤な唇の艶やかさにため息をこぼす。
「さあ、姉さん
皆の顔に笑顔が戻る。
給仕の女も呼び戻し、あちらこちらから声がかかる彼女だが、「私はせっかくの
気まずそうな男には目もくれず、「皆さんも一緒に、楽しく飲みましょうか」と、同じ机を囲む男達に笑いかけた。
自分を呼んだ男の隣に腰を下ろすと、「誰かを選ぶことはいたしませんが、
あれほど怒っていた男も、お力の笑顔と言葉に気を良くしたのか、「どれどれ、そこまで言うのなら可愛がってやるかな」と、肩に腕を回して自分の方へと引き寄せた。
その素晴らしい対応と美貌に、他の客達にも、やんや、やんやと喜ばれる中で、お力はふと、「我が恋は」と歌い出す。
途端に座敷は静まり返り、お力の声に耳を傾けていく。
男も女も関係なく、彼女の声を聞くために黙り込むと、お力は小さく笑い、持ってきた三味線を
慣れた手つきで
何度か拍子を合わせて奏でると、「我が恋は」と続けて歌い始めた。
遊郭などのお座敷遊びでよく歌われる、「お
これは少し昔に流行った端唄の一つで、三番まである長めの歌である。
特に二番目の「我が恋は」から始まる唄が有名で、それをお力は歌い始めたのだ。
盛り上がりを見せた座敷からは手拍子が鳴り響き、女達も揃って手を打ち鳴らす。
それに合わせてお力が口を開くと、艶やかで美しい歌声が大広間中に響いた。
「我が恋は、
高めの音程が、彼女の色気を
同僚ですら
唄が盛り上がりを見せ、さあここからが見せ場だという「渡るにゃ
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