第三十六話


 七月十六日の夜になった。

 いつもの数倍は人の出入りがある新開は、どこか浮かれたように華やいでいて、昼間の涙も弱気も嘘のように、いつも通りのお玉達が客の相手をしていた。

 今日は、年に二度あるえんもうでの日。

 祭りを目当てに来た観光客を引っ張り込める大きな機会ではあるのだが、冷やかしに来る人達も多いため、どの店も客引きに必死だ。

 そのおかげか、新開にある店には人がみ、座る隙間もないほどひしめき合っていて、どの店もおおにぎわいだった。

 そうなれば、聞こえてくるのは定番のいつに、うたの一つや二つ、流行りの歌、などなど。

 景気良く鳴らされるしゃせんの音に合わせて歌われながら、男達は酒をわし、女達のもてなしに酔い始める。

 都々逸のしちしちしちの心地よい言葉並びに続いて、キリが良く歌いやすい端唄が次々と出てくると、あちらこちらで大合唱。

 それに気を良くした店主が、おまけのさかなを差し出せば、どの店も飲めや歌えの大騒ぎになる。

 普段より賑やかな『菊の井』でも、奥座敷をついたてで仕切り、机を三つ四つと並べ、狭い幅の部屋に列を作る。

 それぞれの机で楽しめるように、隣の席の邪魔をしないようにと、女店主が考えた方法だった。

 女を呼ぶ人がいれば、男だけで酒を飲み、最近の景気について文句を言う席もある。

 その中でも一番元気なのは、どこかの商店のほうこうにん達で、違う店で働く五、六人が一つの机に集まり、音程もひょうも外れた『くに』を大声で歌い騒いでいた。

 あの有名な遊郭に、一度でも足を踏み入れたことがある者ならば、その歌詞にうっとりとすることだろう。

 くっきょうで無口な男も、女が惚れるような色男でさえも、口を揃える流行り歌なのだが、彼らの声にかかれば台無しだ。

 店中に響き渡るほどの声はどうごえで、自慢するにはあまりにも酷すぎる。

 音程は外れているし、気をかせた三味線の音にも合わない調子外れの野太い声だというのに、彼らは上機嫌に歌い騒ぎ、衝立の向こうから冷めた目を向けられている。

 それにも気づかず、苦笑いを浮かべながら通り過ぎるきゅうの女も見ないまま、彼らは自分達だけで楽しんでいるようだった。

 歌の途中で「かすみころももんざか」と言っては、いかにも「その遊郭に行きましたよ」と自慢げに振る舞う者もいたが、「そんなのおおうそだ」と、誰かが聞こえない声で呟く。

「あんなこつな連中なら、店先で塩をまかれて終わりさ」

 その言葉に笑うのは、共にいる女だけだった。

 かすみころも

 もんざか

 どちらも、遊郭の周辺を思い起こさせる言葉だ。

 実在の店や場所を表す言葉であり、「紀伊の国」の唄にある描写として有名な言葉だが、どちらも正式な名称ではない。

 おおかた、「自分は霞が立ち込める日に遊郭へ行ったので、その姿は誰にも見られていません。けれど、遊郭に入る前に身だしなみを整えようと思ったので、衣紋坂にある服屋で着物のほつれなどをつくろってもらい、身なりだけはきちんとしましたが、遊郭には入れませんでした。それでも、遊郭の名がついた地名の場所に行き、遊郭の客と同じことをしたので、店の中に入って遊んできたことと同じです。だから、ちゃんと行きましたよ」とでも言いたいのだろう。

 実際に、衣紋坂と呼ばれる通りに行ってみれば、服のほつれを直してくれるところはあるし、店先に顔を向ければ人と顔を合わさずに行けるので、常連でもいちげんでも最高の条件を満たしている。

 遊郭では客にいきを求めるため、遊郭へ行く道で知り合いにすれ違っても、そのことは誰にも話さないのがあんもくりょうかいだ。

 他にも粋な名前のつく場所が多くあるため、そういったところも客が楽しめる仕掛けなのかもしれない。

 霞の衣、という言葉も、立ち込める霧を服に見立てた言葉であるため、遊郭で遊べない男が、「姿は見えずとも行くだけ行った」という意味を表しているのだろう。

 どちらも、知る人ぞ知る、男のりを表す言葉なのだ。

 大嘘だと呟いた男は、それを知っているのだろうけれど、彼は決して男達を笑わなかった。

 酒を飲んで騒げるだけの金があったとしても、あの遊郭は別格だからだ。

 ここでぜにを払って満足しているような男が、人に自慢できるほどのに入れたとは到底思えないし、かといって遊郭の端にある店で遊ぶほどのきょうがなかったのは見え見えだ。

 うたを聞く誰もがそんなことを考えながら、思い思いに楽しんでいると、歌い終わった一人が「りきちゃんはどうしたっ」と声を張り上げた。

「ここまで歌ったというのに、『菊の井』自慢の力ちゃんはダンマリか? 俺達に『紀伊の国』を歌わせたんだから、何か色っぽい言葉はないのかよ」

 静まり返る座敷の中で、男は酔っ払っているのか赤い顔。

 ふらふらになりながらも、衝立の向こうに向かって叫べば、他の机の会話が止まる。

「俺達への思いとやらを聞かせないか。ほら、言った、言った!」

「いいぞー!」

「もっと言ってやれー!」

 調子に乗った仲間の男達がはしを取り、ちょうちゃわんをチャンチャカチャンチャカ叩き始める。

 それに釣られてはやてる、違う席の酔っ払いも出て来てしまい、座敷は一気に騒がしさを増した。

 今日のお力は静かなもので、いつもの明るい笑い声はない。

 夕暮れ時に捕まえた男は妻子持ちで、酒を飲み終えるなりさっさと帰ってしまったのだけれど、外はすでに日が暮れているし、人通りの多い中から別の客を捕まえる気にはならなかったため、座敷のすみで得意の三味線を弾きながら、騒がしい客達の話を聞いているところだった。

「ちょいと、お兄さん達。少し飲み過ぎだよ」

 今日だけ雇われた給仕の女があいだに入るが、男達は「うるせえ!」と怒鳴りつけて部屋から追い出してしまった。

 何度も何度も、お力をちゃしつつ呼ぶが、それでも彼女は何も言わない。

 返事をしないお力にしびれを切らしたのか、最初に騒ぎ出した男が、「おしゃくもしなけりゃ、あいもない。三味線しか弾けない女が、なにってんだよ」と苛立ち始めたのだ。

「遊郭の女みたいに綺麗な着物を着て、ましがおでいられるような上等な女かよ、お前は。愛想笑いの一つもしないなら、俺に情の一つでも与えてもらいたいもんだな。なあ?」

 彼が周囲の男達に同意を求めると、「そうだそうだ」と声が上がる。

「新開いちの人気者でも、しょせんは酌婦。いいかげんほどをわきまえて、俺達にお酌でもしろよな」

「ついでにこびりもな。ワハハ」

 下品に笑い出す男達に、女達は笑顔をらせる。

 それでも、お力は澄まし顔で三味線を弾き続けるが、しっぺの男は苛立ちながら、「おい」と低い声で言った。

「男に媚び売って、せいぜい良い思いしてるくせに、いったい何様なんだよ。ババアになる一歩手前だってことは知ってるんだからな。そんなババアを俺達は買ってやろうって言ってるんだ。何か言えよ、コラ」

 沈黙が下りる。

 騒いでいた男達も、他の客の相手をしていた女達も、全員が男を見ている。

 酒の勢いで言ったようだが、その目はすでにわっていた。

「さすがに言い過ぎだ」と、同じ机の男達がなだめようとするが、彼は止まらない。

「酒の席だってのに酒も飲まず、男がいるってのに話そうともしない。あげく、どこにいるのかさえわからないとは、いったいどういうことだ。さっさと姿を現して、謝れよ」

「おいおい……。さすがにそれは言い過ぎだって」

「俺はお力に会いに来たんだ。それなのにあの女、姿も見せずに三味線の相手ばかりしやがる。あげく、俺の声を無視したんだぞ。金だけ取って、らくして終わろうってこんたんが見え見えなんだよ」

 男は怒りで息が荒くなっていく。

 宥める男達に緊張感が生まれ、楽しい酒の席が事件に替わるのかと思われた時、スッと立ち上がる女がいた。

「……誰の相手もせずにいましたが、ずっとこの場におりましたよ。今日の私は、皆さんのお力です。さあ、飲み直しましょうか」

 あれほどの暴言をものともせずに、ゆうな笑みを浮かべて言ったのは、お力本人だ。

 暴言を吐いた男も、座敷にいる男達も、誰も彼もが彼女の笑みに頬を染め、真っ赤な唇の艶やかさにため息をこぼす。

「さあ、姉さんがた。お客様と一緒に盛り上がりましょうか。さあさ、酒に肴に、三味線に唄にと、やることは山ほどありますよ。皆様も一緒に盛り上がりましょう」

 皆の顔に笑顔が戻る。

 給仕の女も呼び戻し、あちらこちらから声がかかる彼女だが、「私はせっかくのしですので、今夜はあの方のお相手をさせていただきます」と言って、さんざんひどいことをわめいていた男の元へと行く。

 気まずそうな男には目もくれず、「皆さんも一緒に、楽しく飲みましょうか」と、同じ机を囲む男達に笑いかけた。

 自分を呼んだ男の隣に腰を下ろすと、「誰かを選ぶことはいたしませんが、よいは貴方の熱意にほだされてしまいました。どうぞ、可愛がってくださいませ」と、世間でよく聞く評判通りの言葉と態度で特別な人と思わせつつ、優越感を与えて嬉しがらせる。

 あれほど怒っていた男も、お力の笑顔と言葉に気を良くしたのか、「どれどれ、そこまで言うのなら可愛がってやるかな」と、肩に腕を回して自分の方へと引き寄せた。

 その素晴らしい対応と美貌に、他の客達にも、やんや、やんやと喜ばれる中で、お力はふと、「我が恋は」と歌い出す。

 途端に座敷は静まり返り、お力の声に耳を傾けていく。

 男も女も関係なく、彼女の声を聞くために黙り込むと、お力は小さく笑い、持ってきた三味線をかまえた。

 慣れた手つきでばちを操り、高く低く肌が震える音を奏でていく中で、音楽の合間に大きく音を鳴らしていく。

 何度か拍子を合わせて奏でると、「我が恋は」と続けて歌い始めた。

 遊郭などのお座敷遊びでよく歌われる、「おしきさんさがり」という唄だ。

 これは少し昔に流行った端唄の一つで、三番まである長めの歌である。

 特に二番目の「我が恋は」から始まる唄が有名で、それをお力は歌い始めたのだ。

 盛り上がりを見せた座敷からは手拍子が鳴り響き、女達も揃って手を打ち鳴らす。

 それに合わせてお力が口を開くと、艶やかで美しい歌声が大広間中に響いた。

「我が恋は、ほそたにがわまるばし――」

 高めの音程が、彼女の色気をきわたせるように伸び、ゆっくりとした穏やかな拍子に合わせて鳴らされる手拍子と、力強くも繊細な三味線の音が重なり合っていく。

 同僚ですられるほどに美しく、お力自身が輝いているようにも見えるその演奏は、これまでとはまったく違う雰囲気があった。

 唄が盛り上がりを見せ、さあここからが見せ場だという「渡るにゃこわし、渡らねば」を歌いかけたところで、フッと明かりが消えるように、彼女の顔から笑顔が消えたのだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る