第三十五話
私が『菊の井のお力』だと言っても、悪魔の生まれ変わりではないのだろう。
ましてや、鬼であるはずがない。
前に勤めていた店でいざこざがあればこそ、新開の流れにさらわれて深みに落ち込むことになっただけのことなのだ。
客を相手に嘘の愛情をありったけ渡し、それを冗談だと言ってはつれなくして、男の機嫌をとる。
そうやって今日という一日をどうにか生き続けるうちに、私は恋というものに興味を持てなくなってしまった。
どんなに好きになろうと、どんなに愛そうと、しょせん私は底にいる女。
もがきもがいて浮かび上がろうとしたって、誰もこの手を取ってはくれないと知ってしまったのだから。
そうやって
情けなんてものは、
相手への思いなど、薄くしなやかな紙の目の隙間から簡単にこぼれ落ち、向こう側へ行ってしまえば二度と戻ってはこない。
そうして胸の内には、わずかな何かが残るだけ。
紙越しにぼんやりと透けて見えるその何かは、蛍の光のように微かなものだ。
いつしかそれは、自分という『他人』のものになっていくのだから、想いなど、
人としての涙は百年も我慢して、私のために死んでくれるという人がいても、「ご
客の中には、死んで気持ちの強さや思いの深さとやらを伝えようとする人がいるものだから、そのたびに女の方は
いちいち気にしていたらキリがないと言う人はいるけれど、私みたいに気にしてしまったら最後、いつまでも胸の内に
実際、そうやって優しさを見せた女は、心を呑まれてさっさと逝ってしまった。
「危ないな」と思っていたら、すぐのことだ。
あっけないものだと思ったことは、今でも強く覚えている。
薄情な自分を嫌いになったが、それと同じくらい、いつか自分もそうなるかもしれないという恐怖があったのは、私だけが知る昔話だ。
そんなことを繰り返しているのだから、見て見ぬふりも養われるのだろう。
今では息をするようにできているのだから、これも経験というものだろうか。
それをしてきたからこそ、こうして生きている。
それを恥だと思ってしまったら最後、こんな仕事の女は終わりだ。
それでも時々は、悲しいことも恐ろしいことも、全てがたまらなくなることがある。
そのたびに胸の内に積み重ねて
そうやって、ようやく泣ける。
そうでもしないと――泣けなくなるのだから。
足を投げ出し、着物も化粧もぐちゃぐちゃになろうが
それでも声は出せず、誰にも知られないようにと唇を噛み締め、忍ぶようにひっそりと泣くのだ。
自分一人が抱える苦しみを涙に変えても、やはり寂しさは残る。
「誰かに自分を知ってほしい」「本当の自分を見てほしい」と思う気持ちもある。
けれど、それを知られることが何よりも怖かった。
床の間で一人泣いていることを、友人にも店の仲間達にも話すことはできず、「誰にも言うまい」と胸の内に秘めてしまう。
そんなことをしていれば、「根性のある、心のしっかりした
どこまで行っても、行き着くのは底の深みばかり。
それに気づいたところで、今の私にできることは何もない。
「……にごりえみたい」
ポツリと、唇から言葉が漏れる。
自分にしか聞こえない声で口にしたはずの言葉は、静かな廊下の空気に溶けて消えていく。
珍しく他人のことに関心を向けすぎたのか、私は誰もいない場所に向かって、「新開の
「……私がいる新開は、元々
私が来た頃には
由来を知った
それなのに、どうして何も知らない表の人達は、私達みたいに体一つで稼ぐ者達を嘲笑うのだろう。
前の店でも同じだった。
客の男達は私達のことを、自分と同じ『人』だと思ってはいなかった。
金さえ払えば何をしてもいいという人もいて、そのせいでひどい目に遭ったこともある。
仕事だからと我慢したことだってたくさんあった。
少しでも稼げるように、少しでも楽な生活ができるようにとやって来たのに、それすらも彼らは嘲笑うのだ。
「……まったく、こんなところで何を言っているんだい、私は」
誰もいない場所に向かって話をするなんて、本当に
なのに頭はすっきりしていて、あれほどひどかった頭痛もぴたりとなくなっている。
いつの間にか出ていた涙を拭いて廊下を歩き出すが、心はどこか遠くにある気がしたままだ。
だからこそ今、何も感じないのだろうか。
ゆっくりと廊下を歩いていくと、
「……ああ。今日は珍しく常連が来ないから、仕方なくね。照ちゃんも客引きかい?」
「まあ、そんなところさ。常連の一人が逃げちまったから、私も仕方なくね」
気の強そうな吊り目を
お互いにさっぱりした部分があるからか、顔を合わせれば話す程度の仲にとどまっていて、今でもそれは変わらないままだった。
今日は外で客を待つ気分にはなれず、彼女の隣に腰掛けて「最近はどうだい?」と聞くと、彼女は渋い顔で「ダメだね」と答えた。
「最近は映画だの演劇だのと、他に
そう言って苛立つ彼女は、キセルに火をつけながら唇を尖らせる。
キセルに吸い付いて煙を吐き出すと、慣れた様子で片足を上げた。
照ちゃんのはしたない姿に、
それに気づかない照ちゃんに「見えるよ」と注意をするけれど、照ちゃんは「これが一番楽なんだよ。客も来ていないし、いいじゃないか」と、まるで気にしないのだ。
確かにお客はいないが、台所を手伝いに来た日雇いの男達はいる。
彼らは仕事をしているので、あちらこちらへ視線を動かさなければならない。
彼女の姿を無視しつつ、平然と作業ができるほど、この店は広くないのだ。
下心のある男の行動はさりげないが、真面目な男は気まずそうな顔をしているので、「女でもびっくりするよ」と伝えると、「そんなにあたしの
ホッとしたのも
台所の男達がコソコソと照ちゃんの話をし始めたので、女主人が「
夜の
客引きの声があちらこちらから聞こえてくるので、私もそろそろ……と立ち上がると、照ちゃんも一緒に立ち上がったので、今夜のお客を捕まえるために二人揃って店の敷居を
空は黒ずみ、夕日が
光が山の稜線を照らしながら消えていくのを見ながら、私は着物の
通りがかった男に声をかけ、さりげなく身をよせると、耳元で精一杯の甘い声を出して息を吹きかける。
「今夜、いかがですか?」
男の腕をとり、肩にしなだれかかりながら空を見上げれば、夜との境界線が青紫色になっていることに気がついた。
「どうかしたのか?」
締まりのない顔で尋ねてくる男に、「いいえ、なんでもありませんよ」と返事をすると、私はもう空を見なかった。
胸に感じたこの切なさは気のせいだ。
そう思いながら、お力は店の中へと入っていく。
その背を見つめる人には気づかずに。
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