第三十四話


「あの時は女房姿だったけれど、一緒にいた朋輩達のように若作りなんてしていたら、あの子はどんな顔をしたんだろう。そんな恐ろしいことをね、今でも考えてしまうんだ……。ましてや生みの母親が、おおしまなんて派手なまげに、季節ごとのはなかんざしして輝かせながら、『いい男だね。今夜は一緒にどうだい?』なんて冗談を言うんだ。そんなふうに客を引っ張り込むところを他人からでも聞いてしまったら、どもごころには悲しいと思うのが当然だ。あの子にとって私は、たった一人の母親なんだから……」

 そう言って涙をこぼすお玉に同情してか、お楽はあやすように彼女の背中をさする。

 声にこそ出してはいないものの、我が子に拒絶されたことが胸の内にくすぶっていて、今更ながらに自分の仕事を恨めしく思っているのだろうか。

 ひとしきり泣き、落ち着いたところでまた話し始めたが、その顔は十歳以上も老けているように見えた。

「去年逢った時にね、あの子が言ったんだ。『今はこまがたというところのろうそくで働いています。私はどんなに辛いことがあるとしても、必ず辛抱し続けます。そして独り立ちして一人前の男になり、飲んだくれのととさんであっても、べに白粉おしろいははさんであっても、今に楽な生活をさせてさしあげます。どうかそれまで、どんなことでも良いので真っ当な仕事をして、お一人で生活をしていてください。どうか、父さん以外の女房にはならないでいてください。頼みます』と、怒るように言われてね。ひとさまに顔向けできない人であろうと、あの子にとっては私も父親も、親であることには変わりないんだろう。だからあんなことを言ったんだろうけど、それでも若作りする私の姿にも、今の仕事についても、さっしはついているだろうに責めなかったんだよ。こんなひどい母親にまで気を遣わせてしまったのかと、息子相手に頭を下げたくなったさ……」

 そう言って不器用に笑い、「でもね」と続ける。

「どうしようもないことってのはあるよ。何が悲しくてつらいかと言えば、女の立場でひとつ。それで、どんな仕事ができるのかってことなんだからね」

 数人がうなずく。

「歳を取った今、できる仕事なんてのは限られるし、内職だってやったことがないからもない。そんな年増女ができることはといえば、せいぜいマッチのはこりくらいだろう。マッチの箱にひたすら綺麗な紙を貼り付けて、百個でいっせんとか千個でせんとか、そんなことくらいしか出来ないだろうね。それなのに独り身のまま、息子と同居するまで女一人で稼いで待っていてくれなんて、貧乏長屋であっても難しいさ。そうかといって、他人の家の台所仕事をちしながらなんてのは、元から弱いこの体では難しい。同じつらさの中にある仕事ならばと、体にとっては楽なこの仕事をしながら、変わり映えのない日々を過ごしているんだ。年を取った今なら、なおさら別の仕事なんてできやしないよ」

 お玉は『菊の井』だけでなく、新開にいる酌婦の中でも、上から数えた方が早いさんだ。

 年増女とからかう男がいないわけでもないが、若い娘にはない柔らかい態度と温かみのある接客が好評で、ここいらでは珍しいねんぱいじょうきゃくもいる。 

 中には「さいにならないか?」と誘ってくる人がいるらしく、私なんかよりずっと客商売に向いている人なのだ。

 しかし、それだけ人気があるというのに、彼女は稼がない女としても有名だった。

 離れない上客がいるし、年も年だから、条件の良いの男の後妻にでもなる気なのだろうと噂されていたものの、今日の話を聞いて納得できた。

 どうやら彼女は昔から体が弱く、無理のできない体だったのだ。

 飲んだくれの夫に苦労はさせられたが、子供のためにとこの仕事を選び、何とか食べさせてほうこうに出させたこと。

 そして、今でも息子のことを大切に思う母親だったということ。

 それがわかり、それまで一人の女であったお玉が、別人のように見えてくる。

 家族のいる女性が、生活のためにと、この道に進むことがあることは知っていた。

 そのほとんどはせいかつのためで、中には、夫よりも稼いでいる人がいるらしい。

 お玉の場合は、夫が宿なしのまま行方不明になり、子供も奉公に出たため、自分一人を養っていくためにと前の仕事を辞めたそうだ。

 元の家を出て新開に来たところ、偶然にも『菊の井』で雇ってもらえたらしい。

 元々は何をしていたのかまでは話さなかったが、みんなは何となく川辺を見て、見ぬふりをした。

「……あの子が奉公に出てから何年も経ったし、あの子はあの子で生きていくのだろうと思っていたけれど、あんなに親孝行なことを考えてくれていたとはねえ。きっとあの子の中では、父親も私も色々あったとはいえ、普通の仕事をして細々と暮らしていると思っていたのだろう。それを、あんな場所で、あんな姿を知られてしまっては、誤解されるのも仕方のないことさ……」

 ちょうするようなうすわらいを浮かべ、お玉は外を見る。

「今となっては、行方不明になった夫にれんはないし、別の男との再婚を考えたことだってない。この仕事を選んだのだって後悔していないんだ。男に媚びて、面白おかしく生きていこうなんて少しも思ったことがないし、軽い気持ちで仕事をしているわけでもない。けれどね……やっぱり、我が子と向き合うのは怖いものだねえ。誰かの妻になるどころか、こんな場所で男をだましながら、金を稼いでいるなんて知られたら、『おっかさん、言うだけ無駄だったようですね。残念です』とでも言って、あの子はきっと、今の私をつまはじきにするんだろう。顔も見たくないと、母親の存在すら無かったことにしてしまうかもしれない。私は、それが怖いんだよ」

 お玉は寂しそうに、けれど怯えたように身を震わせて、「いつもなら何とも思わないこの大島田が、今日ばかりは恥ずかしい」と、深くうつむいてしまった。

 夕暮れの光が反射する鏡の前で、彼女は静かに涙ぐみながら、息子の名前を口にしては「ごめんね」と呟く。

 話を聞いていたお楽も涙を流すが、他に泣く女はいなかった。

 二人は揃って泣きながら、全く違うことを考え、それぞれの男を思い悩み続けているのだろう。

(結局こうなるんだね……)

 そんな二人を冷めた目で見ていたお力は立ち上がり、「話は終わったようだし、私はおもてへ行くよ」と背を向ける。

「ちょいと、りきちゃん。何も今、こんな時に、そんなことを言わなくてもいいじゃないか」と、男に振られたと最初に泣き出した女が非難するが、お力は「私の勝手だろう」と冷めた声で返した。

 一人、二人と、自分を責める声が増えるのを聞きながら、スルリと廊下へ出れば、光の差すみせさきが目の前に見える。

 あの日も、こんな風に夕焼けが綺麗だった。

 この店に勤め始めた頃、あまりにも夕焼け空が綺麗だったから、一人でおもてへ行っては、日が暮れるまで眺めていた。

 ある時、遊ぶ女を探していた男に抱きつかれてしまい、ひどく怖い思いをしてからは、ぼうでいることの恐ろしさを知ったのだ。

 今さらいい子ぶるつもりはないにしても、以前勤めていた店があった場所でも、自分が経験したことと同じ騒ぎがたびたび会ったことを思い出してしまう。

 人気のある娘は標的になりやすく、通りすがりに体を触られるだけならばマシな方で、ひどい時には乱暴されて命を落とすか、行方不明になるしかなかった。

 ゆうかくの女であれば、女性の出入りが厳しく見張られているため、よほどひどい店でなければ事件は起きないという。

 しかし、しきたりやら作法やらが多く、死んでえんぼとけになるか、年季明けを迎えて自由の身になるまでは、遊郭の敷地内から出ることが許されない。

 それでも、くらいたかゆうじょになることが出来れば、客を選んで断ることができるし、華やかな毎日を送ることだってできるのだという。

 その代わり、彼女達に求められるのは「完璧さ」だ。

 教養があり、美しく、気遣いが出来る女性でありながらも、意地を持って真っ直ぐに、胸を張って生きていることを理想とされるのだ。

 それに遊郭の中では、規則を破れば罰が与えられるらしい。

 それは客も遊女も平等で、そのやり方は残忍だという。

 死人も出るほどの責め苦を与えられることもあり、新開でもそういった話はすぐに広まり、かつて遊郭で罰を受けた人が店に来たこともあった。

 それなのにその人は、遊郭でのことを楽しげに話すのだ。

「いい夢を見させてもらったよ」と言って、それから姿を見ていない。

 どれだけ厳しい場所であろうとも、男達は夢を見るために通い、そして底の底まで落ちていくのだろう。

 そうして最後には、「お前のせいだ」と女をののしり、この世の地獄へと真っ逆さまに進んでいくしかないのだ。

(それは、どこも同じか……。いや、遊女達はまだ恵まれている立場さ。私みたいに恨まれようと、騙された方が悪いと言われ、庇ってもらえる場所にいるんだからね)

 少なくともおさなに、「鬼、悪魔」などと言われたりはしないだろうから。



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